日本の金融史(2)金本位制

さて、1870年に初の国債発行に成功した明治政府は、1871年に新貨条例を制定し、金本位制を採用しました。実際は、貿易目的に使用するために洋銀と同価値の「一円銀貨」も造られていたため、実質的には複本位制でした。伊藤博文が1870年12月(明治3年)にアメリカから送った「通貨制度」についての建議書によると、伊藤が日本政府にも金本位制の採用を強く提案したのは、アメリカの政策当局者から金本位制のメリットを吹き込まれたためということになっていますが、実際は、訪米前から既にシナリオが書かれていたようです。1917年(対象6年)に金本位制20周年の記念行事における渋沢栄一のスピーチの冒頭部分を引用します。

「時間もおいおい経過いたしましたし、私が特に蛇足をそえます余地もないように、種種のご高説が出ております。そうではありますが、この金本位制のことにつきましては、私は大いに懺悔をしなければならない義務を持っていますから、簡単に、そのことを申し上げたいと存じます。なぜなら、私の失敗を告白することは、松方侯爵の、功労を賞賛する意味を持つだろうと思うからでございます。先ほどのご講演中に侯爵から古いことの御話がございましたのについて、私は当時のことを追憶して、身にしみじみと今昔の感を催したのでございます。明治4年に新貨条例を制定しましたのは、故伊藤公爵がアメリカから申しこされまして、私が大蔵省に奉職中貨幣制度については、何等知識を持ちませんけれども、条例の文案は私が起草いたしたのに相違ないのでございます。その自分には、私はただ漠然と、金本位制の国にしたいという、智者の言葉を聞きかじって中心の計画を立てたにすぎません」

ここで登場する「智者」とは、渋沢栄一の金融額の師匠であるフリュリ・エラールと推察されます。幕末に幕臣だった26歳の渋沢は、幕府使節団に加わって御用商人としてフランスに渡っています。このとき渋沢は銀行家のフリュリ・エラールから銀行業というもの、近代の金融業というものを学習します。フリュリの経営する銀行(フリュリ・エラール銀行)について、フランス文学者鹿島茂氏の言葉を引用します*1

「サン・シモン主義の系列だった。サン・シモン主義を簡単にいうと、高度資本主義の地盤がまったくないところに、上から資本主義を植え付けるタイプのもので、前資本主義段階の社会に資本主義革命を引き起こすシステムと言えます。渋沢栄一本人が、そうと自覚していたとは思いませんが、フリュリ・エラールらと接しているうちに、気づかぬうちにサン=シモン主義になって、それを日本で実践した。そういう仮説を追いかけてく連載を始めた・・・」

一説には、このエラールのボスがアルフォンス・ド・ロスチャイルド伯爵で、フランス・ロスチャイルド家の総帥という人もいます。渋澤翁が操られていたという見方をしたくはありませんが、何かしらの働きかけが渋澤翁を含む関係者に対して行われていたという仮説は、検証活動を行う価値があるかもしれません。

(2006年7月執筆)

*1:「諸君」2002年2月号の渋沢健氏との対談