日本の金融史(3)国立銀行の設立

今回は、国立銀行についてまとめてみたいと思います。ナショナル・バンク方式とセントラル・バンク方式の対立の影に三井組がいました。このあたりも含めて整理してみました。

国立銀行条例(1872年)
1872年(明治5年)に制定された国立銀行条例は、当時のアメリカの制度に倣い「ナショナル・バンク」方式を採用しました。国からライセンスをもらった「ナショナル・バンク」が連邦政府から特別な国債し、その購入した国債額の範囲内で、自由に紙幣を発行するという制度で、これに対比されるのが現在の「セントラル・バンク」方式になります。何故アメリカで「ナショナル・バンク」と呼ばれたかというと、州政府ではなく連邦政府が営業ライセンスを出しているという意味で「ナショナル」バンクと呼ばれていました(この意味でナショナル・バンクは「国立銀行」ではなく、「国法銀行」と呼ぶ人も多いようです)。
その設立条件を簡単に記載しておきます。まず、国法で設立される民間銀行(国立銀行)は、資本金の六割を政府紙幣で払い込み、同額の公債証書(金札引換公債)を受け取り、これを担保に大蔵省が印刷した銀行券を同額だけ交付を受けます。銀行券には国債利子と関税の支払を除いて、法貨の地位が与えられました。資本金の4割を兌換準備として正貨で積み立て、発券に際しては常にその残高の3分の2の正貨準備を保有し、また預金には25%の支払準備を保有することとされました。
国立銀行を通じて、戊辰戦争において大量に発行された政府紙幣国債(金札引換公債)として市場から回収することも、国立銀行条例の一つの目的でした。上記の条件を満たした国立銀行国法銀行)がたくさん設立されれば、政府紙幣が金札引換公債として吸収され、民間が保有する金準備に信用が裏付けられた銀行券を産業資金として市場に供給できるというがその目論見でした。
この条例に準拠して、三井組、小野組が中心となり渋澤栄一を初代頭取として1873年7月に東京第一国立銀行が開業します。第三国立銀行は成立しなかったため、第一、第二、第四、第五国立銀行の四行が設立されました。設立条件が厳しく、また当時の金相場が高騰しており、金準備の確保が難しかったため、結局、国立銀行国法銀行)はこの四行に留まりました。この四行の簡単なプロフィールをWikipediaから引用します。

第一国立銀行 (→第一勧業銀行→みずほ銀行
 三井組と小野組を中核にして設立した三井小野組合銀行の後身。従来、三井も小野も互いに同様の営業を為していたがこれら富豪を含めなければ新しい事業に邁進できないとして、予てより井上馨渋沢栄一紙幣頭、芳川紙幣権頭の尽力により2社を纏めたものであった。払込資本金244万円。初代頭取は、渋沢栄一日本銀行創設以前には紙幣の発券が認められており、発行する銀行券は金貨との交換を義務付けられていた。また、日本初の株式会社でもある。行章は「二重星(ダブルスター)」。
 本店は当初、海運橋際の通称・三井ハウスに設けられたが、これは三井組が独自に商業銀行を立ち上げるべく、建設した物。千代田区丸の内(現・みずほ銀行丸之内支店)へ移転後は、跡地に兜町支店が建ち、現在はみずほ銀行兜町支店(中央区日本橋兜町)となっている。
 1884年には李氏朝鮮(後の大韓帝国)と契約して、関税取扱業務を代行し、後に民間銀行でありながら、同国の中央銀行の業務を代行した。1896年に普通銀行の第一銀行に改組。1943年に三井銀行と合併して帝国銀行(通称・帝銀)となる。
 旧三井銀行との内部対立などから1948年に分離したが、金融当局による出店規制に阻まれ中位行のまま推移し、1971年に日本勧業銀行と合併し第一勧業銀行となる。現在のみずほ銀行みずほコーポレート銀行である。

第二国立銀行 (→横浜銀行と合併)
 第二国立銀行(だいにこくりつぎんこう)は明治期に横浜で設立された銀行で、横浜銀行の前身の一つ。
 1869年(明治2年)に政府の為替方として横浜に設立された横浜為替会社を母体に、1874年(明治7年)開業。原善三郎や茂木惣兵衛ら横浜の豪商が中心となって設立され、初代頭取は原善三郎が就任。1896年(明治29年)10月に営業満期国立銀行処分法に基づき、私立銀行第二銀行と改称。1928年(昭和3年)4月に、原善三郎の孫娘婿で養嗣子原富太郎が頭取を務める横浜興信銀行(現在の横浜銀行)に営業譲渡。

第三国立銀行
 渋沢栄一第一国立銀行設立を受け、各地で銀行設立の機運が高まり、大阪にも設立しようと、徳島県人数名が鴻池善右衛門(1841-1920)・広岡久右衛門ら豪商を勧誘して1873年4月に出願し、政府の認可を受けた。しかしながら、発起人内の意見対立で開業に至らなかった。払込資本金40万円。

第四国立銀行 (現在の第四銀行
 1872年に制定された国立銀行条例に基づき、1873年11月に市島徳次郎らが発起人となり「第四国立銀行」を設立。1874年3月1日に開業した。 1912年以降、県内銀行を逐次合併。 1973年、東京証券取引所上場。

第五国立銀行 (→浪速銀行に合併され、十五銀行、帝国銀行を経て現在のみずほ銀行三井住友銀行

兌換紙幣を政府ではなく銀行が発券することとした理由について松方正義は、「政府が自分で紙幣を発行するというと財政少し不如意になると動もすれば不換紙幣を出すということになり易い」と述べています。また、当時も米国に倣ったナショナル・バンク方式にするか、欧州に倣ったセントラル・バンク方式にするかという議論があったそうですが、伊藤博文によりセントラル・バンク方式の採用が決定されたそうです。吉野俊彦『日本銀行史』の中で渋澤栄一が当時の状況を述べた一説があります。

「銀行の組織については二つの説があった。伊藤公はアメリカ方式を日本に導入したいといわれたが、ちょうどその頃吉田清成という人がいて、すでにイギリスに留学され、銀行家として完全な修行をしたわけではないが、英語もよくできる。イングランド銀行のこともかなり見聞して帰られたから、アメリカの国立銀行組織は完全なものではない、イギリスのイングランド銀行は、いわゆる中央銀行である。日本でもまず中央銀行を設立しなければならない。そうでなければかならず、金融に混乱を生じるというのが吉田氏の説である。伊藤公が言うには、統一性も必要だけれども、全て物事というのは、まず成立して、後に発展してから初めて統一するものである。この原理に反して、統一された組織を最初から作ることができるわけではない。統一が必要なら、そのうち自然に統一化されるのだから、今のところはともかく、アメリカに倣って、国立銀行制度にして、これによって不換紙幣を兌換させる必要がある」

この伊藤博文の見解は、ただ表面をなぞるだけだと意味が解せません。「統一性も必要だけれども、全て物事というのは、まず成立して、後に発展してから初めて統一するものである。この原理に反して、統一された組織を最初から作ることができるわけではない。」なんて言っていますが、中央銀行の歴史的な成り立ちから見れば、セントラル・バンク方式が初めにあった訳で、ナショナル・バンク方式からセントラル・バンク方式に「発展」していった訳ではありません。こんなことくらい長州ファイブとして徹底的に英国に教育された伊藤博文が知らなかったはずがなく、伊藤博文は当時の状況でセントラル・バンク方式を採用することの難しさを感じていたのだと思います。特権が集中するセントラル・バンクを「誰が」設立するか、これが大きな問題だったと考えられます。

中央銀行設立を目論んだ三井
実は、当時もセントラル・バンク方式を主張する者がおり、一時は実現しかけたことがありました。三井組が明治政府に1871年明治4年)7月に提示した「新貨幣銀行願書」がこれに当たります。
当時の三井組は、島田組、小野組とともに、1868年(明治元年)2月以来、会計局為替方御用として政府の金融事務を担当していました。さらに、1871年明治4年)6月の新貨条例公布とともに「御用為換座」という独占的な地位を獲得しました。新貨(本位金貨)を鋳造するためには当然地金が必要になります。新貨幣と旧貨幣との交換によって地金を回収しつつ、新貨幣を鋳造するための地金を造幣寮に送るという役割、これが「御用為換座(新貨幣為換方)」です。三野村利左衛門が、弊制改革の担当者である井上馨や渋沢英一に積極的に働きかけた結果でした。
さらに三井組は大蔵省から「真成之銀行」を創立するよう勧奨されたことを受け、1871年明治4年)7月に三野村利左衛門が為換座三井惣頭八郎右衛門名代として、大蔵省あてに「新貨幣銀行願書」を提出しました。その要旨は、三井一家の共同出資によって東京府下および各開港場において銀行を開業し、75%の準備率を背景とする正貨兌換証券の製造・発行を認めてもらいたいというものでした。つまり、セントラル・バンクを立ち上げたいと申し出た訳です。三井の願書は、同年8月には大蔵省から認可され、中央銀行としての三井銀行が発足しかけました。しかし朝議は突然一変し、同年9月に大蔵省は認可を取り消され、結局、日本の発券銀行は、伊藤博文が主張するナショナル・バンク方式でスタートすることになりました。
これらを踏まえて、先の伊藤博文の見解を考えると、なんとなくしっくりくるものがあります。セントラル・バンク方式が望ましいことは理解していながらも、その主体を誰にするかについて十分な確証がないまま、勢いで三井組(ないしはその後ろ盾となっている誰か)に日本の金融を委ねてしまうことに躊躇したのではないでしょうか。もしくは三井組の後ろ盾となっている誰かとは異なる別の勢力から圧力を受けたのかもしれません。

当時の三井組の動向については、函館市のウェブサイトによくまとまっています。

国立銀行条例の改正(1876年)
さて、その後の国立銀行ですが、金兌換券を発行すると即座に金に兌換されてしまうため、経営が成り立たず、前述のように後に続く国立銀行が登場しませんでした。1876年6月末の国立銀行券残高はわずか6万円に留まり、このままでは十分な産業資金を供給できないため、政府は1876年に国立銀行条例を改正して、国立銀行の設立要件を緩和し、金貨兌換性を停止しました。
このとき、国立銀行条例の改正とともに、金禄公債証書交付条例が交付されます。国立銀行条例の改正の裏には、金禄公債の価格を維持するという狙いがありました。これについて、少し長くなりますが当時の状況を説明したいと思います。
明治政府は、歳入面では米を中心とする現物納付を、歳出面では石高で固定された家禄支給という現物財政を幕府から継承しました。これらを貨幣財政に移行することが喫緊の課題だった訳です。まず、歳入面では1873年の地租改正により、地価を確定した上で土地所有者に地券を発行して所有権を確定し、地価の3%を定率で金納徴収することが決まりました。続いて、歳出面では、この1876年の金禄公債証書交付条例によって、金禄の高に応じて、より高い金利、より長い年限の国債が交付され、禄制が廃止されました。今の時代に照らせば、退職金のようなものと見てよいでしょう。ここで重要になるのは、この金禄公債の価格が維持されることです。公債価格が下落すれば、秩禄を削減され不満を溜めた旧士族の反政府運動を助長することになりかねません。そこで、金禄公債を吸収するための装置として国立銀行が利用されました。
このような意図を持って国立銀行条例が改正され、国立銀行の設立要件が大幅に緩和されます。銀行券の政府紙幣への交換を認め、従来資本金の4割を正貨準備としていましたが、これが2割に引き下げられます。国立銀行を通じて金禄公債の価格を維持するため、ひとまず金貨兌換制を停止したということになります。
これによって全国で国立銀行の設立が相次ぎました。1879年末までに153行が設立されました。今もその名を残している銀行として、第三銀行第四銀行十六銀行十八銀行七十七銀行八十二銀行百五銀行百十四銀行などが挙げられます。

全国ナンバー銀行リスト

国立銀行紙幣

明治政府の財政構造改革と金融制度改革
以上のように、明治政府は現物財政(歳入面では米を中心とする現物納付、歳出面では石高で固定された家禄支給)を、わずか10年足らずで貨幣財政へと転換することに成功しました。そして、この裏には幣制改革や国立銀行の創設など金融制度の改革も同時に行われました。10年前まで侍の時代だった日本がこのような短期間でこれだけの構造改革を成し遂げるためには、相当の手ほどきが必要だったことでしょう。こうした諸外国の手ほどき無しでは明治維新は成し遂げられなかったはずなのに、こうした事実をつまびらかにしてこなかった歴史教育には、やはり欺瞞を感じます。