カドゥーリ家とモカッタ家(1)カドゥーリ家

百万ドルの夜景を支える香港財閥
アジアのパワーマーケットは、この十数年で急拡大することが見込まれており、IEAの試算によると、2020年のアジアの発電容量は、2000 年時点の約2倍になると予想されています。実際に、中国の発電容量は、この数年、5,000万〜6,000万kWのペースで拡大しており、これは東京電力一社分(6,430万kW)にほぼ相当します。
これまでアジアにおける電力会社の海外事業と言えば、IPP(Independent Power Producer)と呼ばれる形態での発電事業がほとんどであり、AESやInternational Powerといった欧米系の発電事業者や電力会社がその中心を担ってきました。しかし、近年、これらの企業に代わりアジア系の企業、中でも香港系の電力会社が海外事業を急拡大させています。
香港の百万ドルの夜景は、CLP(China and Electric Power)と香港電力(Hong Kong Electric)という二社によって支えられてきました。両社は、SOC(スキーム・オブ・コントロール)という制度の下で13.5%の利益を政府によって保証されていますが、2008年に現在のSOCが満期を迎え、次期SOCの下では利益保証の範囲が大幅に狭められることが予想されています。これに伴い、CLPと香港電力は、海外に成長源を求めて事業を積極拡大しています。
香港電力は、香港島とラマ島をフランチャイズとする垂直統合型の電力会社であり、ラマ島火力発電所342万kWを抱え、約55万軒のユーザーに電気を供給しています。一方、CLPは、九龍半島と新界をフランチャイズとする垂直統合型の電気事業者であり、香港域内に約660万kWの発電所を抱え、約200万軒のユーザーに電気を供給しています。両社とも海外事業を積極化しており、中国、インド、東南アジア、オーストラリアなど各国で発電事業(IPP)を展開し、一部の国では小売事業にも参入しています。
これからもアジアのパワーマーケットの新境地を開拓することが予想されるCLPや香港電力ですが、特筆すべきは、その株主です。CLPの株主はカドゥーリ(Kadoorie)財閥というユダヤ系財閥であり、香港電力はアジアの大富豪・李嘉誠が率いる長江実業グループに属します。カドゥーリ財閥は、CLPの最大株主であるとともに、傘下にペニンシュラ・ホテルを有する香港上海ホテルの株主・経営者でもあります。1949年に中華人民共和国が成立して以来、社名に「上海」を掲げつつも上海にホテルを保有してこなかった香港上海ホテルは、2005年に上海の旧英国領事館の地に上海ペニンシュラ・ホテルの建設を発表し、50年以上の時を経て上海に帰郷することになりました。カドゥーリ家の生い立ちは、19世紀半ばの上海に遡らなければなりません。

ユダヤ財閥が開拓した上海
1842年、アヘン戦争終結時に締結された南京条約による開港で、上海はひなびた漁村から一夜にして大都会へと変貌します。1842年に20万人だった上海の人口は、1900年前後には5倍の100万人になり、1930年までに300万人にまで膨れ上がりました。この上海を起点に中国ビジネスに巨大な影響力を持った二大商社が、ジャーディン・マセソン商会とサッスーン商会です。
アヘン貿易の元締めとなるサッスーン商会の創業者であるセファーディック系ユダヤ人デビッド・サッスーン(David Sassoon;1792-1864)は、バグダッドの地方長官の下で主席財務官として働くサッスーン・ベン・サリの子として1792年に生を授かります。サッスーン家は、代々、主席財務官の地位と同時にユダヤの族長(シェイク)の地位を継承してきましたが、18世紀後半からユダヤ教徒に対する圧迫が強まり、1826年に族長の地位を引き継いだデビッド・サッスーンは、1829年にバクダッドを脱出します。バスラ、ブシェルを経て、当時40歳のデビッド・サッスーンは1832年ボンベイへ到着。一族をボンベイに集め、サッスーン商会を設立し、ボンベイでの活動を本格化します。ここからサッスーン財閥が始まります。
当時のビジネスモデルは、英国・インド・中国の三国間で商品を取り回す所謂「三角貿易」モデルであり、南京条約締結後の1844年、デビッド・サッスーンは、三角貿易の一角をなす中国事業の足元を固めるため、次男のイリアス・サッスーン(Elias Sassoon;1820-1880)を上海に派遣し、1845年に上海支店を設立します。インドと中国の両国に強力な基盤を持ったサッスーン商会は、アヘン貿易のトップに君臨し、1870〜1880年代にはインドアヘン輸入の70%を独占していたと言われています。創業者であるデビッド・サッスーンは 1864年に72歳でこの世を去りますが、後を継いだ長子アルバート(1818-1896)はサッスーン財閥をさらに発展させ、息子エドワード(1856 -1912)の妻としてアリーン・ロスチャイルドを迎え、その地位をますます確かなものにしました。
一方、一族の中国事業を任されていた次男のイリアスは、長男のアルバートが本家のサッスーン商会を引き継ぐことになったため、1872年に独立して上海に新・サッスーン商会を設立します。この新・サッスーン商会は、兄アルバートが経営する本家サッスーン商会と相互に協力しながらアヘン貿易を拡大し、息子のヤコブ(Jacob;1843-1916)が後を継いだ1880年以降も、不動産投資等を通じてサッスーン財閥の地位をより強固なものとしました。
上海のサッスーン商会の生みの親であるイリアス・サッスーンがこの世を去った1880年、サッスーン一族と同じくバグダッド出身のセファーディック系ユダヤ人であるカドゥーリ一族がサッスーン商会の社員として上海の地に足を踏み入れます。

カドゥーリ財閥の生い立ち
現在のカドゥーリ財閥の総裁であるマイケル・カドゥーリ(Michael Kadoorie;1941-)の祖父にあたるエリ・カドゥーリ(Elly Kadoorie;1967-1922)が二歳年上の兄のエリス・カドゥーリ(Ellis Kadoorie;1965-1922)とともに、インドのボンベイを離れ、サッスーン商会の社員として上海の地に足を踏み入れたのは1880年のことでした。当時、兄エリスは15歳、弟エリはまだ13歳でした。
エリス・エリ兄弟は、バグダードに七人兄弟として生まれ、1870年にインド・カルカッタのサッスーン商会に入社した長兄のEzekielに請われて、上海の新・サッスーン商会(Elias David Sassoon & Co.)に入社します。上海の創業者であるイリアスが死去したのが1880年3月21日であり、カドゥーリ兄弟が上海の地に降り立ったのが2ヵ月後の5月 20日だったことから、経営の代替わりのタイミングでそれなりに戦力になることを期待されて送り込まれたホープだったのかもしれません。
その後、カドゥーリ兄弟は、数年で財を成し、エリ・カドゥーリは兄エリスから100ドルを借りて“Benjamin, Kelly & Potts”という証券会社を設立します。社名に使用されたKellyという名は、カドゥーリ一族が上海上陸後に一貫して用いていた偽名であり、エリ・カドゥーリはカドゥーリの名を伏せたままこの証券会社を介して、1890年3月までに、香港上海ホテルの前身である香港ホテルの株式25%の取得に成功します。当時、エリ・カドゥーリは23歳、13歳で初めて上海の地に足を踏み入れてからわずか10年で香港ホテルを手に入れてしまった訳です(香港上海ホテルの社史によれば、エリ・カドゥーリは、Benjamin, Kelly & Pottsの半分を所有していたということなので、共同出資者がいるはずなのですが、なかなか見つかりません)。
さて、サッスーン一族がロスチャイルド家閨閥を結んだのと同様に、カドゥーリ一族も欧州の金融資本家と結びつきます。エリ・カドゥーリは、モカッタ(Mocattas)家よりローラ(Laura Mocattas)を妻に迎えます)。このモカッタ家は、ゴールドスミス家やロスチャイルド家と並び称される英国の名門のようで、1657年に約370年間禁止されてきたユダヤ人の英国移住がクロムウェルによって解禁され、英国で復権を果たした名門だそうです。ある文献によれば、モカッタ家の由来は、スペインのレコンキスタに遡るとのこと。だとすると、スペインから追放されて欧州に留まったモカッタ家が、スペインからバグダードに逃れたカドゥーリ家と三世紀半の年月を経て極東の地で再び繋がったということになります。壮大なラブロマンスというよりも、どんなに時を経ても風化しないユダヤコミュニティの結びつきの強さが際立ちます(彼らにとっては三世紀半という年月ですら、たいした年月ではないのでしょうが)。
ちなみに、このモカッタ家は16世紀にエンリケ航海王子とともに大航海時代を演出した一家で、一家を代表するMoses MOCATTAは1643年に生まれ、その子孫がロンドンに移り住んだとのこと。名誉革命でイギリスを乗っ取った一味ですね。モカッタ・ゴールドシュミット商会はロスチャイルドと結びついているので、カドゥーリ家も壮大な閨閥の中に組み込まれていたようです。