金を巡る物語

(2006年12月執筆)

遅ればせながらフェルディナント・リップス氏著作の『いまなぜ金復活なのか』を読みました。リップス氏は1931年スイスに生まれ、チューリヒロスチャイルド銀行(Rothschild Bank Zurich AG)の設立に参画、マネージング・ディレクターを務めたという人です。金投資の世界で「金の教皇(Pope of Gold)」の異名をとった人とのことです。
これまで近現代の金融史を眺め、その中で銀本位制・複本位制から金本位制金本位制から金為替本位制、そして基軸通貨ドルの金からの離脱といった流れを見てきたわけですが、一貫して「金」がその物語の中で重要な地位を占めてきました。この「金」について、同著で描かれた金の物語を簡単にご紹介したいと思います。

金本位制度と不換紙幣制度の対立
筆者フェルディナント・リップスは、基軸通貨国であるアメリカ合衆国を中心に各国の政府と中央銀行は、金準備という束縛を受けない不換紙幣制度(ペーパーマネー)を擁護し、アンチ金のプロパガンダを展開してきたとしています。

・・・1971年にはブレトン=ウッズ体制、つまり金ドル本位制が廃止され、以来世界の主要国の通過はみな金の裏付から切り離されてしまいました。国家は自由に通貨を発行できるようになり、「政府の信用」という幻想を「裏付」とした不換紙幣が世界中に蔓延するようになったのです。基軸通貨の発行国であるアメリカは、際限なくドルを発行していますが、そのドル紙幣の実質的価値は下落し続けているのです。
ところが、各国の政府と中央銀行は、自国の通貨の実質的価値が下落していることが露見するのを防ぐために、金の価格を操作するという道を選びました。そうして金から通貨としての機能を完全に奪い去り、紙幣だけが本物のお金であるという信仰を広めようとしているのです。まさに、各国政府・中央銀行は金に対する戦争、「ゴールド・ウォー」を仕掛けているというわけです。そうすれば、金融政策のデタラメさが覆い隠されるとでも信じているのでしょう。ところが結果は、いくつもの通貨危機、経済危機、そして戦争でした(P2〜)。

金本位離脱・金平価切上げ以来、アメリカは「アンチ金政策」を実施してきた。1974年末には金の保有自体は合法化されたが、それ以後も人々がドルよりも金を保有することを好むようになるのを防ぐために、アンチ金政策、特にアンチ金プロパガンダが続けられてきた。今日に至るまで、アメリカ政府は紙幣発行の裏付として金は必要ないという幻想を広めようとし続けてきたのである(P43〜)。

ドルというペーパーマネーのターニングポイントとして、FRBの誕生、ブレトン=ウッズ体制の成立、ニクソン・ショックなどが挙げられますが、リップス氏はそれぞれについても「金」目線で解説を加えています。
まずFRBの誕生についてですが、同氏はこれを古典的金本位制が終焉するターニングポイントと捉え、F・ルーズベルトニューディール政策がこれに止めを刺したという論調で、当時の状況を説明しています。

FRBの誕生と同時に古典的金本位制が終焉した。古典的金本位制にさした最初の暗い影は、1913年にアメリカ議会を猛スピードで通過して成立した連邦準備法である。時の合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンの署名によって、アメリカの中央銀行にあたる連邦準備制度理事会FRBが誕生したのだった。
そのすぐ後の1914年8月に第一次世界大戦が始まる。戦争勃発後、ものの数週間で列挙政府は金本位制を放棄してしまう。戦費を調達するには、赤字国債に頼らなければならず、それだけの国債を吸収するには、金の準備高と関係なく紙幣を増刷できるようにしておかなくてはならなかったからである。
金本位制が終わりを告げると、健全な金融政策は過去のものになってしまった。戦争に巻き込まれた国々は、戦争が長引き、拡大するにつれて戦時努力を言い訳に金融面でのあらゆる規律を無視していった(P35〜)。

ニューディール金本位制離脱
大不況下の1932年、フランクリン・デラノ・ルーズベルトが大統領に就任し、翌1933年に大統領に就任する。
この時、ルーズベルトが真に健全な通貨制度を確立していたならば、第二次世界大戦は間違いなく防ぐことができたであろう。そして二十世紀の経済史は、よほど異なった形をとっていたはずである。大不況は、連邦準備制度清算し、税率をゼロ近くまで引き下げ、真に健全な通貨制度を確立するために神が与えた絶好のチャンスだった。ところが悲しいことに大不況をもたらしたFRBの愚行はすべて忘れ去られ、ルーズベルトは大不況を克服するためという美名のもと、壮大な社会実験に乗り出すことになる。その中で、ケインズの影響を受けてか受けずしてか、ルーズベルトは健全な通貨体制を立て直すのとは正反対の道を歩んでしまったのだ。「ニューディール」、つまり契約の結びなおし、もしくはトランプの札の配りなおしと総称される一連のルーズベルト改革のうちには、通貨改革も含まれていた。1933年の金本位制破棄が、それである。
さらに、第一次大戦時に制定された対敵通商法の、世にほとんどしられていない条項をもとにして、金を保有することを禁止する法案が起草され、議会を猛スピードで通過した(P41〜)。

これ以降、合衆国を中心に各国の政府と中央銀行は「アンチ金政策」を展開します。同著では、「アンチ金政策」の具体例をいくつも挙げているのですが、その中から、1961年にアメリカとヨーロッパ主要七カ国が集まって創設された「金プール」と、1975年に開始された米国及びIMFの世界金市場における売り崩し、そして1999年のワシントン合意を簡単にまとめてみたいと思います。

金プール(1961〜1968年)
金プールとは、アメリカとヨーロッパ主要七カ国によって1961年に設置された金市場への協調介入に関する合意のことです。その内容は、アメリカおよび西欧の中央銀行が手持ちの金を拠出(プール)し、イングランド銀行がその代理人としてこれを用いてロンドン金市場で操作を行ない、金相場の安定をはかることによってドル不安を鎮静させようというもので、合計2.7億ドルの金がプールされました。
この金プールのおかげでロンドン金市場の金価格は、ブレトン=ウッズ体制の根幹である「1オンス=35ドル」を維持することができました。特に1962年のキューバ危機を契機にしたロンドン金市場で投機買いが起きますが、金プールを利用した市場介入により市場安定化に成功します。
金プールは何度か金余剰の底がつきかけますが、その度にタイミング良くソ連がおつりがくる位の大量の金売却を行います。例えば、上述のキューバ危機においてもイングランド銀行は、1962年10月22〜24日の三日間だけで6,000万ドルの市場介入を行ったのですが、キューバ危機沈静後にソ連の金売却により金プールは7,000万ドル分の金を取り戻すことに成功しています。ソ連の西側への金売却は、62年までは年間2億ドル台だったのに対して、63年にはいって緊急食糧輸入のため5億ドルに増大しました(64年も同程度の金売却があったと見込まれています)。当時の金プールはソ連からの金流出によって支えられていたと見ても良いのかも知れません。
結局、2.7億ドルの拠出によって始められた金プールは、1965年末の時点で13億ドルの黒字を出すことに成功し、この儲けは各国の拠出額に応じて山分けされました。ちなみに金プールの供出額は次の通りです。

  • アメリカ 1億3,500万ドル (50%)
  • 西ドイツ 3,000万ドル (11%)
  • イギリス 2,500万ドル (9%)
  • イタリア 2,500万ドル (9%)
  • フランス 2,500万ドル (9%)
  • スイス 1,000万ドル (4%)
  • オランダ 1,000万ドル (4%)
  • ベルギー 1,000万ドル (4%)

こうして一通りの稼いだ後、徐々に各国の足並みが乱れ始めます。まず、1967年7月にフランス銀行がこれ以上の金の提供を続けていけないとの意向を表明しました。実はフランスは1962年からすでに合衆国財務省から金を購入し始めており、1966年までにニューヨークからパリに合計30億ドル分の金を輸送していました。フランスとしては取るものは取ったということだったのでしょう。また、イギリスも1964年10月の総選挙で労働党が勝利して以来、ポンドに激しい売り圧力がかけられ、金の投機需要に火がつきます。1967年6月の中東戦争で再びポンド売り・金投機の傾向が強まり、同年11月にはポンド平価の切り下げに至り、ロンドン金市場の投機熱がいっそう高まります。これにより金プールからの流出が十億ドルの大台を突破します。そして、1968年3月に輪寸トンで緊急週末会議が開催され、金プールは廃止されることとなりました。1968年以降は、ロンドン金市場の相場は1オンス=35ドルから上昇を開始することになります。

アメリカ・IMFによる金市場での売り崩し(1975〜1980年)
1973年のオイルショックにより産油国オイルマネーが生まれ、産油国中央銀行(もしくはその他政府機関)が金の購入を開始します。同著によると、インドネシア、イラン、イラクリビアカタールならびオマーンなどすべての国家が金を買っていたそうです。オイルショックを契機に金価格は1オンス100ドル程度から150ドル前後まで高騰します。
一方、米国では1930年代から禁止されていた金の個人保有を1975年1月1日に解禁します。これを見据えてなのでしょうか、1974年11月にはさらに金相場が14.8%高騰し、1オンス180ドルを突破します。これに対して、米国財務省は、金保有自由化が発効する数日前の1974年12月から歴史的な金の売り崩しを開始しました。同著はこの売り崩しの狙いを次のように述べています。

1975年、アメリカはIMF主要加盟国の協力を得て、世界の金市場で売り崩しを開始した。それは規模、期間ともに空前のものであった。この売り崩しもの目的は、主要国の市民に紙幣は金よりも優れていることを納得させることであった。これが成功すれば、紙幣の過剰発行によるインフレーションが永久に続きうることが保証されるのである(P91〜)。

また、1975年8月には、先進十カ国とスイスは、自国並びにIMFの金準備を増加させないことを決定し、さらにIMFの金準備を5,000万オンス減少させ、そのうち2,500万オンスを続く4年間で売却することを決定しました。IMFの金競売は1976年6月2日から1980年5月7日まで続けられました。
これにより1976年8月には月平均1オンス109ドルまで金相場は下落するのですが、それから徐々に上昇し、1979年8月に行われたアメリ財務省の競売でドレスナー銀行がすべての割当に応札すると、金価格は1オンス400ドルを突破してしまいます。
結局、1979年10月16日、米国財務相は金の定期競売を中止すると発表し、その後も金相場は上昇を続け、1980年1月には金価格は850ドルと史上最高値をつけることになります。

ワシントン合意(1961〜1968年)
ワシントン合意とは、金価格が下落を続けていた1999年9月26日、ヨーロッパ中央銀行(ECB)およびヨーロッパ14カ国の中央銀行が、金が中央銀行にとって重要な準備資産であることを宣言し、以後5年間にわたり、保有金の売却量を年間400トン、計2,000トン以下とするとともに、貸し出し並びに取引等に制限を設けることにした合意です。同意国、合意国が保有する金準備は全世界の公的金準備のおよそ85%にのぼります。
1999年9月までは金相場は緩やかに下落を続けていました。これに対して、ワシントン合意が成立した1999年9月に金相場は一時的ではありますが反発を見せ15%以上相場が上昇します。
1999年5月の英国政府の保有金売却発表や6月のケルン・サミットにおけるIMFによる保有金売却計画など金売却宣伝が開始されました。IMF保有金売却は重債務貧困国の救済資金を確保することが目的でしたが、実際は金相場の下落により金輸出を主要産業としていた貧困国にマイナスの影響を与えてしまいます。IMFが債権放棄の資金確保のための金売却計画を提示したことを受けて、日本政府も、このケルン・サミットにおいて、およそ1兆円にのぼる日本政府自身の発展途上国への貸付金を、実質的に全額放棄する方針を表明しました。
ところが、その4ヵ月後の9月になって急遽、金売却方針を撤回し、ワシントン合意に至ります。先に紹介したメルマガでは、英国中央銀行IMF・米国が共同戦線をはって金相場を崩し、稀に見る安い相場で金購入を可能にしたとしています(その上、日本のODA債権国日本の債務放棄まで取り付けた)。たしかに1999年7月のロンドン金相場は250ドル近くまで低下しており、その後9月のワシントン合意を受けて10月には金価格が310ドルまで反発します。3ヶ月で20%以上の利回りです。中央銀行がここまで直接的に相場を操作できてしまう市場っていかがなものかと思います。本当に中央銀行ビジネスモデルは良くできたビジネスモデルです(常に進化を続けている点も恐るべしです)。

再び金本位制度と不換紙幣制度
以上、つらつらとアンチ金政策ないしは中央銀行による金相場操作について書いてきました。最後に、リップス氏の金本位制を指示するスタンスについて、ちょっとコメントを加えたいと思います。まず、リップス氏は金本位制を次のように賞賛しています。

今日の世界では、各国の政府が、それぞれの通貨に対する責任を有していることになっている。だが、一世紀にわたるインフレ時代を経た後で言えるのは、政府が通貨を運営する管理通貨制度が、無残にも失敗したということだけだ。不幸にして、政治に支配された通貨に安定した購買力を持たせる方法など、存在しないのである(P14)。

イギリス、アメリカのみならず、十九世紀の西洋世界は金本位制を唯一合理的な通貨制度として受け入れ、その考えに基づいて通貨の統合を、ひいては通商・金融の統合を成し遂げたのだった。戦争と暴力による世界帝国の建設やユートピア的な理想主義抜きでこのような偉業が達成されたことは、驚嘆すべきだろう。だからこそ、十九世紀の金本位制は文明世界が達成した最高の精華なのである。
金本位制のおかげで、国際貿易や国際投資などの、国境を越えた取引は、いたって簡単になった。また、普遍的に珍重される金を交換手段とすることによって、西洋の産業と資本が地球上の最果ての地域にまで広がり、いたるところで大昔からの偏見と迷信の束縛は打ち壊され、新しい生活と新しい福利の種が蒔かれ、人々の心と魂は自由になり、これまでに誰も見たことも聞いたこともない豊かさが生まれた。自由主義の輝かしい進歩が、互いに平和裡に協力する諸国の共同体へと、すべての国々を統合させることになった(P34)。

ひたすら金本位制を絶賛する同氏でありますが、金本位制が必ずしも庶民に幸せをもたらした訳ではありません。1870年代までは通貨制度のメインストリームは銀本位制もしくは複本位制(金・銀両建て)でした。これが1871年普仏戦争に勝利したプロイセンがフランスからの多額の賠償金をロンドンで金に換え、それを準備として「金本位制」に転換したあたりから流れが大きく変わってきた訳です。金本位制を採用した各国は軒並みデフレに苦しむことになりますが、こうした苦難を享受してまで金本位制度を採用する必要が各国にあったかどうかは甚だ疑問が残るところです。シュンペーターは『経済学の歴史』の中で、当時の主要各国が金本位制度を採用した理由を「純粋な金本位制を採用することが、健全な金融政策を象徴し、その国の『名誉』と『慎み深さ』を顕彰するように思われた」ためと述べています。国の「名誉」のためにデフレ等の苦難を享受してまで金本位制度に転換する必要性はどの国にもなかったと思われ、この背後に何かしらの陰謀を感じてしまいます。
実際に米国が金本位制度に転換したのも、1792年に制定された貨幣法が複本位制度から金本位制度へと修正された1873年のことでした。当時、金本位制への移行を意味するこの法案について真剣な議論が行われないまま、下院で110対13、上院でも36対14という圧倒的な多数で可決され、後にその意味するところを理解した議員から同法案は猛反発を受けていました。ジョン・ヘニンガー・レーガン(John Henninger Reagan, 1818年10月8日 - 1905年3月6日)上院議員は、当時のことを次のように言っています。

「歴史家は間違いなく1873年鋳造法を、人類が誕生して以来、立法府の犯した史上最大の犯罪であり、アメリカとヨーロッパの全人民の福祉に対して企てられた史上最悪の陰謀だったと記録するだろう」

結局、米国は金本位制度へと転換するわけですが、1890年のシャーマン法等の影響で金の流出が進み、1895年には金本位制の持続が本当に危ぶまれるほどの水準にまで金準備は低下してしまいました。その結果、モルガンとイギリスのロスチャイルドが協力して、3億5,000万オンスの金塊をアメリカ政府のために集め、それと交換に、アメリカ政府がモルガンに6,500万ドル相当の国債を引き渡すことになりました。
金本位制度を採用させて、金準備のために借金漬けにするという流れは、日本と全く一緒です。日本においても井上潤之助が1920年代に金本位制度採用(しかも旧平価)に向けてひた走り、1930年の金解禁に向けて、モルガン銀行から1億5千万円の借金を新たにしたりしていました。
つまり、アンチ金のプロパガンダを繰り広げ不換紙幣制度を広めた陰謀勢力がある一方で、ひたすら金を押し付け金本位制により覇権を狙った陰謀勢力もあったと考えます(イングランド銀行総裁のノーマンやモルガン商会のラモント等が20世紀初頭に金本位を各国に“押し付けて”きたことは以前にこのブログでも紹介しました*1

リップス氏の『いまなぜ金復活なのか』には、このほかにもスイスやドイツにおける金疑惑について触れた章があり、これも面白かったので、また改めてとりまとめてみたいと思います。