地球最後の日のための種子(2)

さて、ここまでは本ブログの序章という位置付けで、ここからが本題の「グローバル人事政策」です。

本著の主人公であるベント・スコウマンは、もともとCIMMYTと呼ばれる国際トウモロコシ・小麦改良センターで数十年も同組織を率いてきました。そのスコウマンが2003年の3月にデンマーク女王からナイト爵位を授与する知らせを受け、翌月の4月に15年間務めてきたCIMMYTを解雇され、そして5月にはスウェーデンの「ノルディック・ジーンバンク」の所長に就任します。

2003年11月3日、スコウマンは非常な名誉である「植物遺伝資源におけるフランク・N・マイヤー賞」をアメリカ作物学協会から授与された。2003年3月2日はデンマーク女王のマルグレーテ二世から親書を拝受した。人類に対して障害尽くしてきた努力を称え、ナイト爵位「ダンネブロ勲章」を授与する旨をしたためた通知だった。女王は叙勲のために妹君のベネディクテ王女をメキシコに派遣し、大パーティが開かれた。4月28日、ベント・スコウマンは解雇された。彼はその取りに解雇された三十数名の一人で・・・(略)。それからほんの数日たった五月のある日、スコウマンは、故郷デンマークから海を隔てた対岸、スウェーデンのアルナルプにあった「ノルディック・ジーンバンク」の所長に採用された。(略)スコウマンは借り物のタキシードを着込んでコペンハーゲンに赴き、女王に拝謁してナイト爵叙勲の儀式を完結させたあと、古なじみの国で新たな生活を始めた。(略)その後の数年間、CIMMYTの縮小と再建は続いた。(P170)

もともとCIMMYTはリストラ対象の組織だったのですが、それでもスコウマンの解雇は、業界関係者の間で驚きにニュースだったようです。

現在「ノルディック遺伝資源センター」の植物部門の部長を務めているモーテン・ラスミュッセンは、・・・(略)・・・「1990年代末のメキシコで組織再編が始まり、熟練科学者たちが解雇され始めた時、ヨーロッパの植物育種界は、CIMMYTの小麦育成プログラムが本質的に崩壊してしまったものと感じました。なぜそんなことが起こっていたのかは全く分かりませんでした。理解できなかったんです。あれほどすばらしい仕事をしていたのですから。(略)とはいえ、そのおかげでスコウマンを得ることができたのだから、僕らにとっては大きな収穫になったわけです・・・(略)」 (P174)

スコウマンが所長を務める「ノルディック・ジーンバンク」はスウェーデンのアルナプルにあります。そして、デンマーク女王であるマルグレーテ2世は、スウェーデン王の血を引いており、このグローバル人事には、デンマーク王室もひとつ絡んでいるのだと思います(マルグレーテ2世の母イングリッドスウェーデン王グスタフ6世アドルフの娘)。

それでは、スコウマンが抜擢された「ノルディック・ジーンバンク」とはどのような組織なのでしょうか。同著から一連の記述を引用します。

2003年にベント・スコウマンが所長に就任した時「ノルディック・ジーンバンク」と呼ばれていた期間は、今では「ノルディック遺伝資源センター(略称:NordGen)」と改称されている。(略)北欧閣僚理事会により設立されたこの期間は、北欧の遺伝資源を守り、遺伝資源管理における専門知識を他の多くの諸国と共有するための協調努力を代表している。(P174)

この新しく就任した「ノルディック・ジーンバンク」におけるスコウマンのミッションは、旧ソ連の影響が強かった四地域での遺伝資源の収集でした。

「ノルディック・ジーンバンク」は、ずっと以前から四つの主要な地政学的地域で遺伝資源プログラムを育てようと努力してきた。四地域とは、バルト海沿岸諸国、コーカサス地方中央アジア、東アフリカ(ブルンジエリトリアエチオピア、ケニヤ、マダガスカルルワンダスーダンウガンダ)である。 (P177)

彼らは、旧ソ連陣営で最大の遺伝情報の蓄積をほこる「ヴィヴァロフ研究所」にターゲットを定めます。この「ヴィヴァロフ研究所」を切り崩すために最適な人材としてスコウマンが抜擢されたようです。

  • ソ連支配下では、連邦に属す共和国のあらゆる植物遺伝資源は、レニングラードにある-世界最古かつ最大の植物コレクション、「ヴァヴィロフ研究所」に集められていた。(略)ニコライ・ヴィヴァロフと彼の後継者たちが行った収集探索すべて、保全されたコレクションのすべては、今や、世界中の人々のための歴史的バックアップになっていた。(P178)
  • ロシア政府は、「ヴィヴァロフ研究所」に、市の中心地から移転するようにと圧力をかけていたが、歴史の詰まった本拠地を手放すに忍びがたかった研究所の幹部たちは、当局のプレッシャーを頑としてはねつけていた。(P178)
  • ベント・スコウマンは、「ヴィヴァロフ研究所」が材船問題を抱えていること、そしてソ連政府が崩壊した今、西側の同量の支援を必要としていることを、はるか以前からCIMMYTの上司たちに報告していた。(P179)

いきなりここにある遺伝資源を奪取する訳にはいかないので、旧ソ連の解体を通じて、1)遺伝資源の祖国への還流、2)還流した祖国での遺伝資源の奪取、を図ります。

まずは、バルト三国です。既にスコウマンが所長に就任する前から色々と仕掛けていたようです。逆に言うと、スコウマンが来る前は、大きな障壁にぶつかり、活動が停滞していたということもできそうです。これをクリアするために、スコウマンが抜擢されたという見方も可能性としてはアリなんだと思います。

  • 「ノルディック・ジーンバンク」、「乾燥地域国際農業研究センター」、CIMMYT、米国国際開発庁、そしてドイツ、オランダ、オーストラリア、スウェーデン各国政府は、「ヴィヴァロフ研究所」の苦境を慮って援助の手を差し伸べようとした同志の一部だ。(略)スコウマンは、ロシア人プレーヤーの多くを知っていた。(略)けれども、バルト海沿岸諸国のジーンバンカーとの面識はあまりなかった。そこでスコウマンは、「ノルディック・ジーンバンク」のIT部長ダーグ・テリエ・エンドレセンとともに2004年、ラトビアのリガ、サラスピルス、ドベレ、エストニアのヨゲヴァ、タルトゥ、ポリ、リトアニアのドットニュヴァを訪れ、各地の科学者たちに、「ノルディック・ジーンバンク」に無償のメンバーとして参加し、遺伝資源コレクションに協力するよう働きかけた。(P180)
  • スコウマンが来る前、「ノルディック・ジーンバンク」の幹部はすばやい外交術を展開して、「ノルディック・ジーンバンク」、「ヴィヴァロフ研究所」、バルト海沿岸三か国との間に、植物遺伝資源の保全に関して互いに協力し合うという覚書を取り交わしていた。(P180)
  • 新たに独立した諸国は、生物多様性条約に従い、そして心の底からの望みに従い、種子をロシアから取り戻したがっていた。自分たちの国独自のジーンバンクを設立したかったのだ。「ノルディック・ジーンバンク」は、ロシアから戻される種子が保管できるようにと、バルト海沿岸諸国に冷凍設備と乾燥設備を無償供与した・・・(以下、略)。(P181)
  • 「ヴィヴァロフ研究所」の科学者たちには賛辞をささげてしかるべきだ、とエンドレセンは言う。(略)「バルト海沿岸諸国に種子標本を返却することにおいて、彼らは最終的に誠心誠意努力してくれたのだから」と。(P181)

スコウマンの登用による遺伝資源の収集は、バルト三国だけでなく、中央アジアコーカサス地方、東アフリカでも成功を収めたようです。

  • スコウマンは、「ヴィヴァロフ研究所」から種子を入手して、中央南アジア諸国の良好な増殖施設に運ぶことにより、・・・(以下、略)。(P182)
  • 2004年12月の出張で、スコウマンはあるカザフスタンの国立シードバンクの設計に関して助言した。(略)「彼(スコウマン)のスタンスは、巨額の運営費を必要とする高価な“遺伝資源宮殿”から離れて・・・ノルディック・ジーンバンクのような、より効率的なセンターを目指すべきだというものだった」(P183)
  • 乾燥地域国際農業研究センターとオーストラリア政府が率先して種子銀行の再建を行っていたコーカサスでは、スコウマンはスウェーデンから資金を取り付けることを通じて支援を行った。(P183)
  • スコウマンの指導のもと、ウガンダのアデベ・デミッシーによって、東アフリカ地域における植物遺伝資源の生息域外保全への地域的取り組みが当事者間で合意された。(P184)

そして、西側と東側の遺伝資源を一通り手に収めた後、それを確実に格納するための基地として、“地球最後の日のための貯蔵庫”が設立されることになるのです。

ちょっと長くなったので、一度、ここで区切りたいと思います。