2030年世界はこう変わる

ブログを更新するのは2年半ぶりになります。しばらくの間、過去と未来を行き来しながら、これまでの世界、これからの世界を考えてみたいと思います。

これからの世界を考えるにあたり、米国国家情報会議発行の「2030年世界はこう変わる」を題材にしたいと思います。同書の位置づけについて、序章で立花隆氏が以下のようにまとめています。

これは一般大衆向けの読み物ではない。政府の政策文章でもない。アメリカの国家戦略の解説書でもない。アメリカの国家戦略を策定する者、ならびに、アメリカの国家戦略に関心を持つ者が基本的に頭においておくべき、近未来(15〜20年後)の世界のトレンドが書かれている。

まえがきでは、世界が変化するスピードが加速化していることを挙げ、以下の四点を述べています。

  1. 2030年前に中国やインドを含むアジアが世界をリードする
  2. 2030年まえに世界中の多くの国では中間所得層が主流になる
  3. 世界の人口が都市部に集中する
  4. テクノロジーの変化のペースが加速化する

本書は、第1章で「2030年の世界」を決定する4つの構造変化として、「個人の力の拡大」、「権力の拡散」、「人口構成の変化」、「食料・水・エネルギー問題の連鎖」を取り上げます。

メガトレンド1 個人の力の拡大

  • 貧困層5割(5億人)減る?
  • 台頭する新・中間所得者層
  • 購買力が衰えていく米国と日本
  • なくならない男女格差
  • 広がる「外部」との交流
  • 人類は、より健康に
  • イデオロギーの衝突」が不安材料

メガトレンド2 権力の拡散

  • 中国の覇権は短命?
  • 抜かれる先進国
  • 前例無き「覇権国家ゼロ」の時代へ

メガトレンド3 人口構成の変化

  • 進む高齢化
  • 縮む若者社会
  • 移民は諸刃の剣?
  • 都市化する世界

メガトレンド4 食料・水・エネルギー問題の連鎖

  • 食料、水、そして気候変動
  • エネルギー不足懸念は後退
  • 米国はエネルギー独立国へ
  • 再生可能エネルギーは不発

続いて、第2章では、世界の流れを変える6つの要素として、「危機を頻発する世界」、「変化に乗り遅れる「国家の統治力」」、「高まる「大国」衝突の可能性」、「広がる地域紛争」、「最新技術の影響力」、「変わる米国の役割」を取り上げます。

ゲーム・チェンジャー1 危機を頻発する世界

  • 負債が減少している先進国は3つだけ
  • 最も不安な国・日本
  • 失速する中国経済
  • インドの躍進

ゲーム・チェンジャー2 変化に乗り遅れる「国家の統治力」

  • 独裁から民主主義に移行中の国家は不安定
  • IT活用で統治力アップ?
  • 国連安保理世界銀行は「最新版」にアップデート?

ゲーム・チェンジャー3 高まる「大国」衝突の可能性

  • 国内紛争は減少傾向に
  • 高まる国家間紛争の可能性
  • 中国とインドが対立?
  • 米国vs中国
  • 水資源をめぐる争い

ゲーム・チェンジャー4 広がる地域紛争

  • 中東−民主化イスラム教の関係
  • 南アジア−3つのシナリオ
  • 東アジア−4つのシナリオ
  • 欧州−3つのシナリオ

ゲーム・チェンジャー5 最新技術の影響力

  • 情報技術
  • 機械化と生産技術
  • 資源管理技術
  • 医療技術

ゲーム・チェンジャー6 変わる米国の役割

  • 「覇権国」から「トップ集団の1位」に
  • 弱まる基礎体力

以上の「2030年の世界」を決定する4つの構造変化と世界の流れを変える6つの要素を踏まえて、2030年の世界について4つのシナリオをオルタナティブ・ワールドとして描きます。

2030年のシナリオ1 欧米没落型
2030年のシナリオ2 米中協調型
2030年のシナリオ3 格差支配型
2030年のシナリオ4 非政府主導型

これからメガトレンド、ゲーム・チェンジャー、オルタナティブ・ワールドを順に取りまとめてみたいと思います。

エネルギー基本計画(2)原発事故の影響

エネルギー基本計画(第二次改定)の「第3章.目標実現のための取組」では、第2章で掲げた2030年に向けた目標を実現するための各種取り組みが合計10の節にわたって述べられています。

第1節.資源確保・安定供給強化への総合的取組
第2節.自立的かつ環境調和的なエネルギー供給構造の実現
第3節.低炭素型成長を可能とするエネルギー需要構造の実現
第4節.新たなエネルギー社会の実現
第5節.革新的なエネルギー技術の開発・普及拡大
第6節.エネルギー・環境分野における国際展開の推進
第7節.エネルギー国際協力の強化
第8節.エネルギー産業構造の改革に向けて
第9節.国民との相互理解の促進と人材の育成
第10節.地方公共団体、事業者、非営利組織の役割分担、国民の努力等

資源開発
まずは、「第1節.資源確保・安定供給強化への総合的取組」からみていきましょう。同節の冒頭で、「化石燃料の自主開発資源比率を、2030 年に倍増(現状約26%)させるとの目標の実現のため、国産を含む石油及び天然ガスを合わせた自主開発比率を40%以上(現状は約20%)、石炭の自主開発比率を60%以上(現状約40%)に引き上げることを目指す」としています。

自主開発資源の必要性について、2008年3月に閣議決定された「資源確保指針」から引用します。

近年、資源価格の高騰や資源ナショナリズムの高まりを背景に、資源産出国による自国資源の国家管理の強化が顕著となっている。
資源産出国において、その探鉱及び開発に係る権益が国又は国営企業により独占され、あるいは外国資本に対する参入規制が強化される事例が増加している。このような場合においては、本邦企業が探鉱又は開発に係る鉱区を取得するに際し、国営企業とパートナーシップを構築することを含め、当該資源産出国の政府又は国営企業と交渉することがより一層必要となる。このような政府又は国営企業との交渉には、より多くの場合において、当該事業を遂行する民間企業等に加え、政府が直接参加することが求められる。
また、開発・操業段階において、開発・操業の事業遂行が民間企業に委ねられていても、ロイヤリティや税の引き上げ、輸出・開発規制、付帯条件の義務付けなど、資源産出国の政府の関与が強化される事例が増加している。このような場合においては、契約の着実な履行を確保するため、当該政府に対し、多国間又は二国間の国際ルールに整合的な対応を要請することが政府に求められる。

ただし、2010年2月に失ったサウジアラビアのカフジ油田の採掘権をカバーする大型油田として期待されていたイランのアザデガン油田の権益を2010年10月に手放すなど、自主開発比率の増大はなかなかうまくいっていないというのが実情です。

エネルギー基本計画では、具体的な取り組みとして、石油・天然ガスの安定供給確保のために、「資源国との二国間関係の強化」、「我が国企業による上流権益獲得に対する支援」、「市場安定化に向けた取組」を挙げています。また、海洋エネルギー・鉱物資源開発の強化として、メタンハイドレードについて「平成30 年度(2018 年度)を目途とした商業化の実現に向けて、陸上及び海域での産出試験の推進等により、我が国の生産技術の研究実証を踏まえた技術の整備を行う」としています。一方、石炭に関しては、日本企業が持つクリーンコール技術の供与を通じて、産炭国との互恵関係の構築を目指すものとされています。

今後、天然ガスLNG)の役割がこれまで以上に大きくなることが予想されます。LNGに関しては、調達先の多様化に加えて、現在の原油リンクのフォーミュラーの是非に関する議論が必要になってくると思われます。

第1節では、エネルギーの安定供給源確保以外にも、「国内における石油製品サプライチェーンの維持」や「緊急時対応能力の充実」など、今回の震災で問題になったテーマを取り上げているのですが、これらに関するコメントは別の機会に譲りたいと思います。

電源政策
さて、続く「第2節.自立的かつ環境調和的なエネルギー供給構造の実現」では、「1.再生可能エネルギーの導入拡大」、「2.原子力発電の推進」、「3.化石燃料の高度利用」、「4.電力・ガスの供給システムの強化」が語られています。

再生可能エネルギー
まず、再生可能エネルギーに関しては、「2020年までに一次エネルギー供給に占める再生可能エネルギーの割合について10%に達することを目指す」とされています。2009年8月に示された「長期エネルギー需給見通し(再計算)」では、2020年の一次エネルギー供給における再生可能エネルギーの割合は約9%(水力を含む)、総発電量に占める再生可能エネルギー起源の電力比率は約13.5%でした(水力を含む)。欧米諸国に比べるとこの目標値は低いですが、太陽光発電や太陽熱発電、風力発電の賦存量の差を考えると、安易に欧米並みの水準にすべきということはできません。かつて麻生元総理は、温室効果ガス2005年比▲15%削減を達成するための国民負担は、世帯あたり月額約6千円と発表したこともあり、電源の経済性も考慮しなければなりません。

原子力
さて、続いては原子力発電です。エネルギー基本計画では、原子力発電に関して次のように述べていました。

原子力は供給安定性と経済性に優れた準国産エネルギーであり、また、発電過程においてCO2 を排出しない低炭素電源である。このため、供給安定性、環境適合性、経済効率性の3E を同時に満たす中長期的な基幹エネルギーとして、安全の確保を大前提に、国民の理解・信頼を得つつ、需要動向を踏まえた新増設の推進・設備利用率の向上などにより、原子力発電を積極的に推進する。また、使用済燃料を再処理し、回収されるプルトニウム・ウラン等を有効利用する核燃料サイクルは、原子力発電の優位性をさらに高めるものであり、「中長期的にブレない」確固たる国家戦略として、引き続き、着実に推進する。その際、「まずは国が第一歩を踏み出す」姿勢で、関係機関との協力・連携の下に、国が前面に立って取り組む。
具体的には、今後の原子力発電の推進に向け、各事業者から届出がある電力供給計画を踏まえつつ、国と事業者等とが連携してその取組を進め、下記の目標の実現を目指す。
まず、2020 年までに、9基の原子力発電所の新増設を行うとともに、設備利用率約85%を目指す(現状:54 基稼働、設備利用率:(2008 年度)約60%、(1998年度)約84%)。さらに、2030 年までに、少なくとも14 基以上の原子力発電所の新増設を行うとともに、設備利用率約90%を目指していく。これらの実現により、水力等に加え、原子力を含むゼロ・エミッション電源比率を、2020 年までに50%以上、2030 年までに約70%とすることを目指す。

2009年8月に発表された「長期エネルギー需給見通し(再計算)」における2005年度の原子力発電の実績は、年度末設備容量が4,958万kW、発電電力量が3,048億kWhでした。設備率は70.2%です。一方、2020年度の見通しは、年度末設備容量が6,015万kW、発電電力量が4,345億kWhで、設備率は82.5%でした。設備容量は、1,057万kW増加し、設備率が12.3ポイント改善するという見通しです。2006年3月に北陸電力の志賀2号(120.6万kW)、2009年12月に北海道電力の泊3号(91.2万kW)が運転開始しているので、増加分1,057万kWのうち211.5万kWはすでに現実化していることになり、差分は845.5万kWということになります。

まず、現時点の供給計画に挙げられた原子力発電の新増設計画は、合計で14基、1930.8万kWです。中国電力の島根3号はほぼ完成しており、2012年3月に運転開始の予定、電源開発の大間も2014年の運転開始に向けて2008年5月に着工しています。今後の電源政策を考えるにあたり、これら原子力発電所の新増設をどう見るかが一つのポイントとなります。

一方、原子力発電所の高経年化ももう一つの問題となります。福島第一の1号機は今年の3月26日に設計寿命の40年を迎えました。これに対して、原子力安全・保安院は今年の2月7日に10年間の運転継続を認可しています。

原子力発電所の高経年化対策については、運転開始後30年間を経過した原子力発電プラントは、「高経年化対策に関する報告書」を提出することとなっており、10年ごとに定期安全レビュー行うことになっています。概要は、原子力安全基盤機構のサイトをご覧ください。

1970年代に運転開始した原子力発電所は、2020年までに運転開始40年を迎えることになります。これら原子力発電所の合計は18基、1,340.6万kWとなります。日本原子力発電敦賀1号(35.7万kW)、関西電力の美浜1号(34万kW)、東京電力の福島第一1号(46万kW)は既に40年を経過しています。1970年代は原子力発電所の建設ラッシュだったため、来年以降もほぼ毎年のように複数の原子力発電所が運転開始40年目を迎えます。

仮に2020年までに運転開始40年目の原子力発電所がリタイアし、島根3号(137.3万kW)と大間(138.3万kW)を除く新増設計画が実現しなかった場合、2020年時点の原子力発電所の総容量は、3,819.7万kW(38基)となります。「長期エネルギー需給見通し(再計算)」の想定値4,958万kWに対して、1,138.3万kW少なくなります。また、設備率の向上も容易に見込めないため、仮に2020年時点の設備率を70%とすると、38基の原子力発電所の発電電力量は、2,342億kWhとなります。「長期エネルギー需給見通し(再計算)」の想定値4,345億kWhに対して、2,003億kWh少なくなります。

原子力発電の新増設が計画通りに行かず、高齢化した原発が順次リタイアした場合、2020年時点で約2,000億kWhの不足が生じると考えて良いでしょう。脱原発の議論は、この2,000億kWhの穴をどのようにして埋めるのか、という議論と表裏一体であり、次のエネルギー基本計画を策定するにあたり、最大の論点となるでしょう。

エネルギー基本計画 (1)2030年目標

2011年4月4日、経済産業省は、3年ごとに策定しているエネルギー基本計画について、次期計画を1年程度前倒しし、早ければ24年3月末までにも策定することを発表しました。これまでの原子力を軸としていたエネルギー政策を抜本的に見直すことになりそうです。

エネルギー基本計画改訂を1年前倒し策定
2011.4.4

 東日本大震災で被災した東京電力福島第1原子力発電所放射能漏れ事故を受け、経済産業省は4日、3年ごとに策定しているエネルギー基本計画について、次期計画を予定の平成25年より1年程度前倒しし、早ければ24年3月末までにも策定する方針を固めた。原発の新設に理解を得にくくなったことから、原子力を軸としていたエネルギー政策の根本的な練り直しが不可欠と判断した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110404/plc11040420390016-n1.htm

エネルギー基本計画は、エネルギー政策基本法に基づき政府が策定するもので、「安定供給の確保」、「環境への適合」、「市場原理の活用」というエネルギー政策の基本方針に則り、エネルギー政策の基本的な方向性を示したものです。2003年10月の策定後、2007年3月に第一次改定を行いました。その後のエネルギーを取り巻く環境変化を踏まえ、2010年6月に第二次改定を行いました。

以下では、2010年6月に公表されたエネルギー基本計画(第二次改定)の概要を整理したいと思います。

エネルギー基本計画は、「第1章.基本的視点」、「第2章.2030 年に目指すべき姿と政策の方向性」、「第3章.目標実現のための取組」の三章で構成されています。

まず、「第1章.基本的視点」では、エネルギー政策を推進する際の基本的視点をとりまとめています。これは震災後も大きくは変わらない視点だと思われます。

エネルギーは国民生活や経済活動の基盤である。エネルギー政策の基本は、エネルギーの安定供給の確保(energy security)、環境への適合(environment)及びこれらを十分考慮した上での市場機能を活用した経済効率性(economic efficiency)の3E の実現を図ることである。
また、我が国が国際競争力を有するエネルギー関連の産業・技術・システムを、強みとして育成・普及していく必要がある。エネルギー政策と我が国の成長戦略とを一体的に推進しなければならない。
さらに、エネルギー政策には、安全と国民理解を大前提としつつ、社会システムや産業構造の改革を実現する視点が不可欠である。

続いて、「第2章.2030 年に目指すべき姿と政策の方向性」は、「第1 節.2030 年に向けた目標」、「第2節.エネルギー源のベストミックスの確保」、「第3節.政策手法のあり方」の三節から構成されています。以下では、第1節に掲げられた2030年に向けた目標を簡単に俯瞰してみます。

まず、供給サイドに関しては、1)自主エネルギー比率、2)ゼロ・エミッション電源比率について2030年の定量目標を定めています。具体的には、現状約38%の自主エネルギー比率を2030年度に70%とし、また、現状34%のゼロ・エミッション電源比率を2030年度に70%とする目標を掲げています。

1.資源小国である我が国の実情を踏まえつつ、エネルギー安全保障を抜本的に強化するため、エネルギー自給率(現状18%)及び化石燃料の自主開発比率(現状約26%)をそれぞれ倍増させる。これらにより、自主エネルギー比率を約70%(現状約38%)とする。
2.電源構成に占めるゼロ・エミッション電源(原子力及び再生可能エネルギー由来)の比率を約70%(2020 年には約50%以上)とする。(現状34%)

自主エネルギー比率は、エネルギー自給率と分母は同一だが、分子に自主開発権益からの化石燃料の引取量を加算したものです。基本的には、国産エネルギー(再生可能エネルギー等)及び準国産エネルギー(原子力)の増加に力点を置き、自主開発比率は40%の引き上げが目標として掲げられました(現状は約20%)。ただ、純国産エネルギー(原子力)の比率が落ち、代替エネルギーとして天然ガスの比率があがると、この自主エネルギー比率、自主開発比率の目標達成は、従来の延長線上では、かなり厳しいと言わざるをえません。

また、2009年8月に発表された「長期エネルギー需給見通し(再計算)」では、2030年の総発電量9,646億kWhに対して、原子力発電が4,695億kWh(48.7%)、新エネルギー等が907億kWh(9.4%)、水力が889億kWh(9.2%)、地熱が75億kWh(0.8%)となり、合計で約68%となる計算でした。つまり、ゼロ・エミッション電源の7割を原子力に期待していた訳ですが、福島第一の事故により、このゼロ・エミッション電源比率の目標から再検討する必要がでてきました。

一方、需要サイドに関しては、温暖化ガスの排出目標を踏まえて、家庭部門についてCO2発生量を50%削減するという定量目標を掲げました。

3.「暮らし」(家庭部門)のエネルギー消費から発生するCO2 を半減させる。
4.産業部門では、世界最高のエネルギー利用効率の維持・強化を図る。

上記の「長期エネルギー需給見通し(再計算)」は、経済成長率を1.3%と想定し、2007年に原油換算で4億800万klだった最終エネルギー消費を、本格普及が想定される最先端技術を最大限導入することにより、2020年時点で3億7,500万kl(▲9.2%)、2030年時点で3億4,600万kl(▲16.9%)まで抑制するとしています。震災後のエネルギー基本計画においては、原子力発電の抜けた穴を供給サイドだけで補うことは難しいため、改めて需要サイドでのエネルギー消費量の削減を考えることになると思われますが、需要サイドも従来の延長線上では容易に解は出ないと思われます。

次回からは、「第3章.目標実現のための取組」について、個別に見ていきたいと思います。

金を巡る物語

(2006年12月執筆)

遅ればせながらフェルディナント・リップス氏著作の『いまなぜ金復活なのか』を読みました。リップス氏は1931年スイスに生まれ、チューリヒロスチャイルド銀行(Rothschild Bank Zurich AG)の設立に参画、マネージング・ディレクターを務めたという人です。金投資の世界で「金の教皇(Pope of Gold)」の異名をとった人とのことです。
これまで近現代の金融史を眺め、その中で銀本位制・複本位制から金本位制金本位制から金為替本位制、そして基軸通貨ドルの金からの離脱といった流れを見てきたわけですが、一貫して「金」がその物語の中で重要な地位を占めてきました。この「金」について、同著で描かれた金の物語を簡単にご紹介したいと思います。

金本位制度と不換紙幣制度の対立
筆者フェルディナント・リップスは、基軸通貨国であるアメリカ合衆国を中心に各国の政府と中央銀行は、金準備という束縛を受けない不換紙幣制度(ペーパーマネー)を擁護し、アンチ金のプロパガンダを展開してきたとしています。

・・・1971年にはブレトン=ウッズ体制、つまり金ドル本位制が廃止され、以来世界の主要国の通過はみな金の裏付から切り離されてしまいました。国家は自由に通貨を発行できるようになり、「政府の信用」という幻想を「裏付」とした不換紙幣が世界中に蔓延するようになったのです。基軸通貨の発行国であるアメリカは、際限なくドルを発行していますが、そのドル紙幣の実質的価値は下落し続けているのです。
ところが、各国の政府と中央銀行は、自国の通貨の実質的価値が下落していることが露見するのを防ぐために、金の価格を操作するという道を選びました。そうして金から通貨としての機能を完全に奪い去り、紙幣だけが本物のお金であるという信仰を広めようとしているのです。まさに、各国政府・中央銀行は金に対する戦争、「ゴールド・ウォー」を仕掛けているというわけです。そうすれば、金融政策のデタラメさが覆い隠されるとでも信じているのでしょう。ところが結果は、いくつもの通貨危機、経済危機、そして戦争でした(P2〜)。

金本位離脱・金平価切上げ以来、アメリカは「アンチ金政策」を実施してきた。1974年末には金の保有自体は合法化されたが、それ以後も人々がドルよりも金を保有することを好むようになるのを防ぐために、アンチ金政策、特にアンチ金プロパガンダが続けられてきた。今日に至るまで、アメリカ政府は紙幣発行の裏付として金は必要ないという幻想を広めようとし続けてきたのである(P43〜)。

ドルというペーパーマネーのターニングポイントとして、FRBの誕生、ブレトン=ウッズ体制の成立、ニクソン・ショックなどが挙げられますが、リップス氏はそれぞれについても「金」目線で解説を加えています。
まずFRBの誕生についてですが、同氏はこれを古典的金本位制が終焉するターニングポイントと捉え、F・ルーズベルトニューディール政策がこれに止めを刺したという論調で、当時の状況を説明しています。

FRBの誕生と同時に古典的金本位制が終焉した。古典的金本位制にさした最初の暗い影は、1913年にアメリカ議会を猛スピードで通過して成立した連邦準備法である。時の合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンの署名によって、アメリカの中央銀行にあたる連邦準備制度理事会FRBが誕生したのだった。
そのすぐ後の1914年8月に第一次世界大戦が始まる。戦争勃発後、ものの数週間で列挙政府は金本位制を放棄してしまう。戦費を調達するには、赤字国債に頼らなければならず、それだけの国債を吸収するには、金の準備高と関係なく紙幣を増刷できるようにしておかなくてはならなかったからである。
金本位制が終わりを告げると、健全な金融政策は過去のものになってしまった。戦争に巻き込まれた国々は、戦争が長引き、拡大するにつれて戦時努力を言い訳に金融面でのあらゆる規律を無視していった(P35〜)。

ニューディール金本位制離脱
大不況下の1932年、フランクリン・デラノ・ルーズベルトが大統領に就任し、翌1933年に大統領に就任する。
この時、ルーズベルトが真に健全な通貨制度を確立していたならば、第二次世界大戦は間違いなく防ぐことができたであろう。そして二十世紀の経済史は、よほど異なった形をとっていたはずである。大不況は、連邦準備制度清算し、税率をゼロ近くまで引き下げ、真に健全な通貨制度を確立するために神が与えた絶好のチャンスだった。ところが悲しいことに大不況をもたらしたFRBの愚行はすべて忘れ去られ、ルーズベルトは大不況を克服するためという美名のもと、壮大な社会実験に乗り出すことになる。その中で、ケインズの影響を受けてか受けずしてか、ルーズベルトは健全な通貨体制を立て直すのとは正反対の道を歩んでしまったのだ。「ニューディール」、つまり契約の結びなおし、もしくはトランプの札の配りなおしと総称される一連のルーズベルト改革のうちには、通貨改革も含まれていた。1933年の金本位制破棄が、それである。
さらに、第一次大戦時に制定された対敵通商法の、世にほとんどしられていない条項をもとにして、金を保有することを禁止する法案が起草され、議会を猛スピードで通過した(P41〜)。

これ以降、合衆国を中心に各国の政府と中央銀行は「アンチ金政策」を展開します。同著では、「アンチ金政策」の具体例をいくつも挙げているのですが、その中から、1961年にアメリカとヨーロッパ主要七カ国が集まって創設された「金プール」と、1975年に開始された米国及びIMFの世界金市場における売り崩し、そして1999年のワシントン合意を簡単にまとめてみたいと思います。

金プール(1961〜1968年)
金プールとは、アメリカとヨーロッパ主要七カ国によって1961年に設置された金市場への協調介入に関する合意のことです。その内容は、アメリカおよび西欧の中央銀行が手持ちの金を拠出(プール)し、イングランド銀行がその代理人としてこれを用いてロンドン金市場で操作を行ない、金相場の安定をはかることによってドル不安を鎮静させようというもので、合計2.7億ドルの金がプールされました。
この金プールのおかげでロンドン金市場の金価格は、ブレトン=ウッズ体制の根幹である「1オンス=35ドル」を維持することができました。特に1962年のキューバ危機を契機にしたロンドン金市場で投機買いが起きますが、金プールを利用した市場介入により市場安定化に成功します。
金プールは何度か金余剰の底がつきかけますが、その度にタイミング良くソ連がおつりがくる位の大量の金売却を行います。例えば、上述のキューバ危機においてもイングランド銀行は、1962年10月22〜24日の三日間だけで6,000万ドルの市場介入を行ったのですが、キューバ危機沈静後にソ連の金売却により金プールは7,000万ドル分の金を取り戻すことに成功しています。ソ連の西側への金売却は、62年までは年間2億ドル台だったのに対して、63年にはいって緊急食糧輸入のため5億ドルに増大しました(64年も同程度の金売却があったと見込まれています)。当時の金プールはソ連からの金流出によって支えられていたと見ても良いのかも知れません。
結局、2.7億ドルの拠出によって始められた金プールは、1965年末の時点で13億ドルの黒字を出すことに成功し、この儲けは各国の拠出額に応じて山分けされました。ちなみに金プールの供出額は次の通りです。

  • アメリカ 1億3,500万ドル (50%)
  • 西ドイツ 3,000万ドル (11%)
  • イギリス 2,500万ドル (9%)
  • イタリア 2,500万ドル (9%)
  • フランス 2,500万ドル (9%)
  • スイス 1,000万ドル (4%)
  • オランダ 1,000万ドル (4%)
  • ベルギー 1,000万ドル (4%)

こうして一通りの稼いだ後、徐々に各国の足並みが乱れ始めます。まず、1967年7月にフランス銀行がこれ以上の金の提供を続けていけないとの意向を表明しました。実はフランスは1962年からすでに合衆国財務省から金を購入し始めており、1966年までにニューヨークからパリに合計30億ドル分の金を輸送していました。フランスとしては取るものは取ったということだったのでしょう。また、イギリスも1964年10月の総選挙で労働党が勝利して以来、ポンドに激しい売り圧力がかけられ、金の投機需要に火がつきます。1967年6月の中東戦争で再びポンド売り・金投機の傾向が強まり、同年11月にはポンド平価の切り下げに至り、ロンドン金市場の投機熱がいっそう高まります。これにより金プールからの流出が十億ドルの大台を突破します。そして、1968年3月に輪寸トンで緊急週末会議が開催され、金プールは廃止されることとなりました。1968年以降は、ロンドン金市場の相場は1オンス=35ドルから上昇を開始することになります。

アメリカ・IMFによる金市場での売り崩し(1975〜1980年)
1973年のオイルショックにより産油国オイルマネーが生まれ、産油国中央銀行(もしくはその他政府機関)が金の購入を開始します。同著によると、インドネシア、イラン、イラクリビアカタールならびオマーンなどすべての国家が金を買っていたそうです。オイルショックを契機に金価格は1オンス100ドル程度から150ドル前後まで高騰します。
一方、米国では1930年代から禁止されていた金の個人保有を1975年1月1日に解禁します。これを見据えてなのでしょうか、1974年11月にはさらに金相場が14.8%高騰し、1オンス180ドルを突破します。これに対して、米国財務省は、金保有自由化が発効する数日前の1974年12月から歴史的な金の売り崩しを開始しました。同著はこの売り崩しの狙いを次のように述べています。

1975年、アメリカはIMF主要加盟国の協力を得て、世界の金市場で売り崩しを開始した。それは規模、期間ともに空前のものであった。この売り崩しもの目的は、主要国の市民に紙幣は金よりも優れていることを納得させることであった。これが成功すれば、紙幣の過剰発行によるインフレーションが永久に続きうることが保証されるのである(P91〜)。

また、1975年8月には、先進十カ国とスイスは、自国並びにIMFの金準備を増加させないことを決定し、さらにIMFの金準備を5,000万オンス減少させ、そのうち2,500万オンスを続く4年間で売却することを決定しました。IMFの金競売は1976年6月2日から1980年5月7日まで続けられました。
これにより1976年8月には月平均1オンス109ドルまで金相場は下落するのですが、それから徐々に上昇し、1979年8月に行われたアメリ財務省の競売でドレスナー銀行がすべての割当に応札すると、金価格は1オンス400ドルを突破してしまいます。
結局、1979年10月16日、米国財務相は金の定期競売を中止すると発表し、その後も金相場は上昇を続け、1980年1月には金価格は850ドルと史上最高値をつけることになります。

ワシントン合意(1961〜1968年)
ワシントン合意とは、金価格が下落を続けていた1999年9月26日、ヨーロッパ中央銀行(ECB)およびヨーロッパ14カ国の中央銀行が、金が中央銀行にとって重要な準備資産であることを宣言し、以後5年間にわたり、保有金の売却量を年間400トン、計2,000トン以下とするとともに、貸し出し並びに取引等に制限を設けることにした合意です。同意国、合意国が保有する金準備は全世界の公的金準備のおよそ85%にのぼります。
1999年9月までは金相場は緩やかに下落を続けていました。これに対して、ワシントン合意が成立した1999年9月に金相場は一時的ではありますが反発を見せ15%以上相場が上昇します。
1999年5月の英国政府の保有金売却発表や6月のケルン・サミットにおけるIMFによる保有金売却計画など金売却宣伝が開始されました。IMF保有金売却は重債務貧困国の救済資金を確保することが目的でしたが、実際は金相場の下落により金輸出を主要産業としていた貧困国にマイナスの影響を与えてしまいます。IMFが債権放棄の資金確保のための金売却計画を提示したことを受けて、日本政府も、このケルン・サミットにおいて、およそ1兆円にのぼる日本政府自身の発展途上国への貸付金を、実質的に全額放棄する方針を表明しました。
ところが、その4ヵ月後の9月になって急遽、金売却方針を撤回し、ワシントン合意に至ります。先に紹介したメルマガでは、英国中央銀行IMF・米国が共同戦線をはって金相場を崩し、稀に見る安い相場で金購入を可能にしたとしています(その上、日本のODA債権国日本の債務放棄まで取り付けた)。たしかに1999年7月のロンドン金相場は250ドル近くまで低下しており、その後9月のワシントン合意を受けて10月には金価格が310ドルまで反発します。3ヶ月で20%以上の利回りです。中央銀行がここまで直接的に相場を操作できてしまう市場っていかがなものかと思います。本当に中央銀行ビジネスモデルは良くできたビジネスモデルです(常に進化を続けている点も恐るべしです)。

再び金本位制度と不換紙幣制度
以上、つらつらとアンチ金政策ないしは中央銀行による金相場操作について書いてきました。最後に、リップス氏の金本位制を指示するスタンスについて、ちょっとコメントを加えたいと思います。まず、リップス氏は金本位制を次のように賞賛しています。

今日の世界では、各国の政府が、それぞれの通貨に対する責任を有していることになっている。だが、一世紀にわたるインフレ時代を経た後で言えるのは、政府が通貨を運営する管理通貨制度が、無残にも失敗したということだけだ。不幸にして、政治に支配された通貨に安定した購買力を持たせる方法など、存在しないのである(P14)。

イギリス、アメリカのみならず、十九世紀の西洋世界は金本位制を唯一合理的な通貨制度として受け入れ、その考えに基づいて通貨の統合を、ひいては通商・金融の統合を成し遂げたのだった。戦争と暴力による世界帝国の建設やユートピア的な理想主義抜きでこのような偉業が達成されたことは、驚嘆すべきだろう。だからこそ、十九世紀の金本位制は文明世界が達成した最高の精華なのである。
金本位制のおかげで、国際貿易や国際投資などの、国境を越えた取引は、いたって簡単になった。また、普遍的に珍重される金を交換手段とすることによって、西洋の産業と資本が地球上の最果ての地域にまで広がり、いたるところで大昔からの偏見と迷信の束縛は打ち壊され、新しい生活と新しい福利の種が蒔かれ、人々の心と魂は自由になり、これまでに誰も見たことも聞いたこともない豊かさが生まれた。自由主義の輝かしい進歩が、互いに平和裡に協力する諸国の共同体へと、すべての国々を統合させることになった(P34)。

ひたすら金本位制を絶賛する同氏でありますが、金本位制が必ずしも庶民に幸せをもたらした訳ではありません。1870年代までは通貨制度のメインストリームは銀本位制もしくは複本位制(金・銀両建て)でした。これが1871年普仏戦争に勝利したプロイセンがフランスからの多額の賠償金をロンドンで金に換え、それを準備として「金本位制」に転換したあたりから流れが大きく変わってきた訳です。金本位制を採用した各国は軒並みデフレに苦しむことになりますが、こうした苦難を享受してまで金本位制度を採用する必要が各国にあったかどうかは甚だ疑問が残るところです。シュンペーターは『経済学の歴史』の中で、当時の主要各国が金本位制度を採用した理由を「純粋な金本位制を採用することが、健全な金融政策を象徴し、その国の『名誉』と『慎み深さ』を顕彰するように思われた」ためと述べています。国の「名誉」のためにデフレ等の苦難を享受してまで金本位制度に転換する必要性はどの国にもなかったと思われ、この背後に何かしらの陰謀を感じてしまいます。
実際に米国が金本位制度に転換したのも、1792年に制定された貨幣法が複本位制度から金本位制度へと修正された1873年のことでした。当時、金本位制への移行を意味するこの法案について真剣な議論が行われないまま、下院で110対13、上院でも36対14という圧倒的な多数で可決され、後にその意味するところを理解した議員から同法案は猛反発を受けていました。ジョン・ヘニンガー・レーガン(John Henninger Reagan, 1818年10月8日 - 1905年3月6日)上院議員は、当時のことを次のように言っています。

「歴史家は間違いなく1873年鋳造法を、人類が誕生して以来、立法府の犯した史上最大の犯罪であり、アメリカとヨーロッパの全人民の福祉に対して企てられた史上最悪の陰謀だったと記録するだろう」

結局、米国は金本位制度へと転換するわけですが、1890年のシャーマン法等の影響で金の流出が進み、1895年には金本位制の持続が本当に危ぶまれるほどの水準にまで金準備は低下してしまいました。その結果、モルガンとイギリスのロスチャイルドが協力して、3億5,000万オンスの金塊をアメリカ政府のために集め、それと交換に、アメリカ政府がモルガンに6,500万ドル相当の国債を引き渡すことになりました。
金本位制度を採用させて、金準備のために借金漬けにするという流れは、日本と全く一緒です。日本においても井上潤之助が1920年代に金本位制度採用(しかも旧平価)に向けてひた走り、1930年の金解禁に向けて、モルガン銀行から1億5千万円の借金を新たにしたりしていました。
つまり、アンチ金のプロパガンダを繰り広げ不換紙幣制度を広めた陰謀勢力がある一方で、ひたすら金を押し付け金本位制により覇権を狙った陰謀勢力もあったと考えます(イングランド銀行総裁のノーマンやモルガン商会のラモント等が20世紀初頭に金本位を各国に“押し付けて”きたことは以前にこのブログでも紹介しました*1

リップス氏の『いまなぜ金復活なのか』には、このほかにもスイスやドイツにおける金疑惑について触れた章があり、これも面白かったので、また改めてとりまとめてみたいと思います。

カドゥーリ家とモカッタ家(2)モカッタ家

ネイサン・ロスチャイルドモカッタ家
ロスチャイルド商会創設者のマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1743-1812年)の三男ネイサン・ロスチャイルド(1777-1836年)が1804年に27歳でイギリス・ロスチャイルド商会を創設したとき、ロンドン・シティは数々の銀行家たちが跋扈しており、中でもベアリング兄弟は東インド貿易を通じて700万ポンドを超える資産を抱えるヨーロッパ随一の商人として君臨していました。
後発のネイサン・ロスチャイルドは、金塊取引の独占を通じて、ベアリング兄弟に対抗しました。広瀬隆氏の『赤い楯』は、次のように記しています。

十九世紀の初頭、ネイサン・ロスチャイルドが築き上げようとした金塊の独占形態は、ベアリング家が手当たり次第にありとあらゆる商品を扱う取引のなかで、逆にその一切の急所をロスチャイルド家が握るものであった。金銀がなければ買付けは不能になる。こうしてバイロンの詩句に、意味深い次の一節が謳われるまでになった。

ユダヤロスチャイルドと手を結ぶ、キリスト教徒のベアリング

シティで新顔のネイサンが金塊取引を独占するに至ったのは、コーエン家を介して金塊ブローカーであるモカッタ家と縁戚関係になることができたためでした。1806年、ネイサンはイギリスのユダヤ人富豪リーヴァイ・コーエンの娘ハンナ(1783年-1850年)と結婚します。ネイサンとハンナが結婚して六年後にあたる1812年に、ハンナの妹ジュディス(1784-1862)は、モカッタ家系の母レイチェル(1762-1841)を持つモーゼス・モンテフィオーレ(1784-1885)と結婚しました。こうして、ネイサン・ロスチャイルドは、コーエン家を介してモカッタ家系のモーゼス・モンテフィオーレと義理の兄弟関係を結ぶことになりました。では、このモカッタ家とは一体どのような歴史をもつ閨閥なのでしょうか。

モカッタ家の生い立ち
モカッタ家は、もともとポルトガルの出自で(『赤い楯』では「スペインで活動していた」とあります)、ダイヤモンドや金銀の貿易で成功した一族でした。1492年のユダヤ人追放を受けて、ネーデルラントへ移り住み、その後、1657年にクロムウェルが英国へのユダヤ人移住を許可したのを契機に、モカッタ家は英国へ移住します。モカッタ家のロンドンでの活躍は、モーゼス・モカッタ(-1693)が1671年に、ロンドンの有力な金匠銀行家であったエドワード・バックウェルと取引を開始したことから始まります。モーゼスの死後、後を継いだアブラハムモカッタ(-1754)は、1710年に王立証券取引所の会員資格を取得し、銀のブローカーとして頭角を現します。その後、イングランド銀行に海外の金塊取引の筆頭ブローカーに指名されました。1754年にアブラハムが死去すると、モカッタ家の事業は、養子のモーゼス・マトスと孫のアブラハムモカッタ(-1891)が相続します。
一時期、銀やダイヤモンドのディーラーであったアレクサンダー・キースラーが共同経営者となりますが、1779年にキースラーが死去すると、モカッタ家と一体となって事業を経営していたゴールドスミス家の名を冠して、モカッタ・ゴールドスミス商会と名を変えます。ゴールドスミス家は、アーロン・ゴールドスミス(-1782)の次男アッシャー・ゴールドスミスが共同経営者となりました。その後、モカッタ家とゴールドスミス家は足並みをそろえて事業を経営しますが、アブラハムモカッタとアッシャーの孫にあたるフレデリック・デビッド・ゴールドスミス(1812-1866)が1864年に引退すると、85年間続いた両家の提携関係が解消されてしまいます。

モカッタ・ゴールドスミス商会のその後
提携関係解消後、モカッタ家やゴールドスミス家と縁戚ではないヘクター・ヘイ卿がモカッタ・ゴールドスミス商会を率いていましたが、1900年、再び両家の子孫がモカッタ・ゴールドスミス商会に参画します。その後、1957年に同社はハンブローズ銀行に買収され、モカッタ家のエドガーとジョック(-1976)は代表取締役として同社に残ります。1973年、モカッタ・ゴールドスミス商会は、ハンブローズ銀行からスタンダード・チャータード銀行へ売却され、その3年後の1976年、同事業に携わった最後のモカッタ家の人物であるエドワード・ジョック・モカッタが死去します。1992年に同社はスタンダード・チャータード銀行の完全子会社となりますが、1997年にカナダの五大銀行の一つであるノバスコシア銀行に売却され、Scotia Mocattaと名を変えて現在に至ります。

モカッタ家の栄枯盛衰?
CLPを傘下に抱えるカドゥーリ財閥の総裁であるマイケル・カドゥーリの祖父にあたるエリ・カドゥーリ(1867-1922)が妻に迎えたのは、モカッタ家のローラでした。長男のローレンスが生まれたのが1899年なので、エリとローラが結婚したのは1890年代のことでしょう。この頃のモカッタ家は、モカッタ・ゴールドスミス商会の経営から一時手を引いていた時期にあたります。
モカッタ・ゴールドスミス商会は、ロンドン・ロスチャイルド銀行、シャープス&ピクスレー、ジョンソン・マッセイ、サミュエル・モンタギュー商会と並んで五大金塊銀行と称されたよう、20世紀に入ってもスタンダード・チャータード銀行の下、その存在感を世に示してきましたが、「モカッタ家」自体はあまり表に出てこなくなったように思います。
モカッタ・ゴールドスミス商会を名乗るようになってから約30年後の1810年、ネイサン・ロスチャイルドのライバルだったベアリング家の総帥フランシス・ベアリングがこの世を去ります。また、同年、モカッタ・ゴールドスミス商会の共同経営者であるアッシャー・ゴールドスミスの弟であるアブラハム・ゴールドスミスが自殺してしまいます。この2年前に、アッシャーの兄であるベンジャミン・ゴールドスミスも自殺していたため、ロンドン・シティにおけるベアリングとゴールドスミスの影響力は低下し、その分、ネイサン・ロスチャイルドが無敵の王者としてその存在感をますます高めたのでした。

結局のところ、モカッタ家はロスチャイルド家に飲み込まれてしまったのでしょうか、それともロスチャイルドの「赤い楯」の影へと隠れてしまっただけなのでしょうか。真実がどちらなのか、私にはわかりませんが、アジアの電力会社ですら国際金融資本の歴史の一部となっていることを思い知る良いきっかけになりました。

カドゥーリ家とモカッタ家(1)カドゥーリ家

百万ドルの夜景を支える香港財閥
アジアのパワーマーケットは、この十数年で急拡大することが見込まれており、IEAの試算によると、2020年のアジアの発電容量は、2000 年時点の約2倍になると予想されています。実際に、中国の発電容量は、この数年、5,000万〜6,000万kWのペースで拡大しており、これは東京電力一社分(6,430万kW)にほぼ相当します。
これまでアジアにおける電力会社の海外事業と言えば、IPP(Independent Power Producer)と呼ばれる形態での発電事業がほとんどであり、AESやInternational Powerといった欧米系の発電事業者や電力会社がその中心を担ってきました。しかし、近年、これらの企業に代わりアジア系の企業、中でも香港系の電力会社が海外事業を急拡大させています。
香港の百万ドルの夜景は、CLP(China and Electric Power)と香港電力(Hong Kong Electric)という二社によって支えられてきました。両社は、SOC(スキーム・オブ・コントロール)という制度の下で13.5%の利益を政府によって保証されていますが、2008年に現在のSOCが満期を迎え、次期SOCの下では利益保証の範囲が大幅に狭められることが予想されています。これに伴い、CLPと香港電力は、海外に成長源を求めて事業を積極拡大しています。
香港電力は、香港島とラマ島をフランチャイズとする垂直統合型の電力会社であり、ラマ島火力発電所342万kWを抱え、約55万軒のユーザーに電気を供給しています。一方、CLPは、九龍半島と新界をフランチャイズとする垂直統合型の電気事業者であり、香港域内に約660万kWの発電所を抱え、約200万軒のユーザーに電気を供給しています。両社とも海外事業を積極化しており、中国、インド、東南アジア、オーストラリアなど各国で発電事業(IPP)を展開し、一部の国では小売事業にも参入しています。
これからもアジアのパワーマーケットの新境地を開拓することが予想されるCLPや香港電力ですが、特筆すべきは、その株主です。CLPの株主はカドゥーリ(Kadoorie)財閥というユダヤ系財閥であり、香港電力はアジアの大富豪・李嘉誠が率いる長江実業グループに属します。カドゥーリ財閥は、CLPの最大株主であるとともに、傘下にペニンシュラ・ホテルを有する香港上海ホテルの株主・経営者でもあります。1949年に中華人民共和国が成立して以来、社名に「上海」を掲げつつも上海にホテルを保有してこなかった香港上海ホテルは、2005年に上海の旧英国領事館の地に上海ペニンシュラ・ホテルの建設を発表し、50年以上の時を経て上海に帰郷することになりました。カドゥーリ家の生い立ちは、19世紀半ばの上海に遡らなければなりません。

ユダヤ財閥が開拓した上海
1842年、アヘン戦争終結時に締結された南京条約による開港で、上海はひなびた漁村から一夜にして大都会へと変貌します。1842年に20万人だった上海の人口は、1900年前後には5倍の100万人になり、1930年までに300万人にまで膨れ上がりました。この上海を起点に中国ビジネスに巨大な影響力を持った二大商社が、ジャーディン・マセソン商会とサッスーン商会です。
アヘン貿易の元締めとなるサッスーン商会の創業者であるセファーディック系ユダヤ人デビッド・サッスーン(David Sassoon;1792-1864)は、バグダッドの地方長官の下で主席財務官として働くサッスーン・ベン・サリの子として1792年に生を授かります。サッスーン家は、代々、主席財務官の地位と同時にユダヤの族長(シェイク)の地位を継承してきましたが、18世紀後半からユダヤ教徒に対する圧迫が強まり、1826年に族長の地位を引き継いだデビッド・サッスーンは、1829年にバクダッドを脱出します。バスラ、ブシェルを経て、当時40歳のデビッド・サッスーンは1832年ボンベイへ到着。一族をボンベイに集め、サッスーン商会を設立し、ボンベイでの活動を本格化します。ここからサッスーン財閥が始まります。
当時のビジネスモデルは、英国・インド・中国の三国間で商品を取り回す所謂「三角貿易」モデルであり、南京条約締結後の1844年、デビッド・サッスーンは、三角貿易の一角をなす中国事業の足元を固めるため、次男のイリアス・サッスーン(Elias Sassoon;1820-1880)を上海に派遣し、1845年に上海支店を設立します。インドと中国の両国に強力な基盤を持ったサッスーン商会は、アヘン貿易のトップに君臨し、1870〜1880年代にはインドアヘン輸入の70%を独占していたと言われています。創業者であるデビッド・サッスーンは 1864年に72歳でこの世を去りますが、後を継いだ長子アルバート(1818-1896)はサッスーン財閥をさらに発展させ、息子エドワード(1856 -1912)の妻としてアリーン・ロスチャイルドを迎え、その地位をますます確かなものにしました。
一方、一族の中国事業を任されていた次男のイリアスは、長男のアルバートが本家のサッスーン商会を引き継ぐことになったため、1872年に独立して上海に新・サッスーン商会を設立します。この新・サッスーン商会は、兄アルバートが経営する本家サッスーン商会と相互に協力しながらアヘン貿易を拡大し、息子のヤコブ(Jacob;1843-1916)が後を継いだ1880年以降も、不動産投資等を通じてサッスーン財閥の地位をより強固なものとしました。
上海のサッスーン商会の生みの親であるイリアス・サッスーンがこの世を去った1880年、サッスーン一族と同じくバグダッド出身のセファーディック系ユダヤ人であるカドゥーリ一族がサッスーン商会の社員として上海の地に足を踏み入れます。

カドゥーリ財閥の生い立ち
現在のカドゥーリ財閥の総裁であるマイケル・カドゥーリ(Michael Kadoorie;1941-)の祖父にあたるエリ・カドゥーリ(Elly Kadoorie;1967-1922)が二歳年上の兄のエリス・カドゥーリ(Ellis Kadoorie;1965-1922)とともに、インドのボンベイを離れ、サッスーン商会の社員として上海の地に足を踏み入れたのは1880年のことでした。当時、兄エリスは15歳、弟エリはまだ13歳でした。
エリス・エリ兄弟は、バグダードに七人兄弟として生まれ、1870年にインド・カルカッタのサッスーン商会に入社した長兄のEzekielに請われて、上海の新・サッスーン商会(Elias David Sassoon & Co.)に入社します。上海の創業者であるイリアスが死去したのが1880年3月21日であり、カドゥーリ兄弟が上海の地に降り立ったのが2ヵ月後の5月 20日だったことから、経営の代替わりのタイミングでそれなりに戦力になることを期待されて送り込まれたホープだったのかもしれません。
その後、カドゥーリ兄弟は、数年で財を成し、エリ・カドゥーリは兄エリスから100ドルを借りて“Benjamin, Kelly & Potts”という証券会社を設立します。社名に使用されたKellyという名は、カドゥーリ一族が上海上陸後に一貫して用いていた偽名であり、エリ・カドゥーリはカドゥーリの名を伏せたままこの証券会社を介して、1890年3月までに、香港上海ホテルの前身である香港ホテルの株式25%の取得に成功します。当時、エリ・カドゥーリは23歳、13歳で初めて上海の地に足を踏み入れてからわずか10年で香港ホテルを手に入れてしまった訳です(香港上海ホテルの社史によれば、エリ・カドゥーリは、Benjamin, Kelly & Pottsの半分を所有していたということなので、共同出資者がいるはずなのですが、なかなか見つかりません)。
さて、サッスーン一族がロスチャイルド家閨閥を結んだのと同様に、カドゥーリ一族も欧州の金融資本家と結びつきます。エリ・カドゥーリは、モカッタ(Mocattas)家よりローラ(Laura Mocattas)を妻に迎えます)。このモカッタ家は、ゴールドスミス家やロスチャイルド家と並び称される英国の名門のようで、1657年に約370年間禁止されてきたユダヤ人の英国移住がクロムウェルによって解禁され、英国で復権を果たした名門だそうです。ある文献によれば、モカッタ家の由来は、スペインのレコンキスタに遡るとのこと。だとすると、スペインから追放されて欧州に留まったモカッタ家が、スペインからバグダードに逃れたカドゥーリ家と三世紀半の年月を経て極東の地で再び繋がったということになります。壮大なラブロマンスというよりも、どんなに時を経ても風化しないユダヤコミュニティの結びつきの強さが際立ちます(彼らにとっては三世紀半という年月ですら、たいした年月ではないのでしょうが)。
ちなみに、このモカッタ家は16世紀にエンリケ航海王子とともに大航海時代を演出した一家で、一家を代表するMoses MOCATTAは1643年に生まれ、その子孫がロンドンに移り住んだとのこと。名誉革命でイギリスを乗っ取った一味ですね。モカッタ・ゴールドシュミット商会はロスチャイルドと結びついているので、カドゥーリ家も壮大な閨閥の中に組み込まれていたようです。

日本の教育史(1)江藤新平

今日は、東京大学の初代学長となった加藤弘之と、加藤とともに日本の教育制度の先鞭をつけた江藤新平について、まとめてみたいと思います。

初代学長・加藤弘之
以前に東京大学の起源が大学南校と大学東校にあることをお話しましたが、両校が合流して1877年(明治10年)に東京大学が設立された際に、初代学長となったのが蕃書調所の教官も務めていた加藤弘之でした。
加藤弘之は、出石藩兵庫県)出身の蘭学者で、学界においては、東京大学総理、帝国大学総長、帝国学士委員長などを務め、官僚としては、文部大丞(1871年-)、外務大丞(1871年-)などを歴任したあと、元老院議員、貴族院議員(1890年-)、宮中顧問官(1895年-)、枢密顧問官(1906年-)などを務めた学界・官界の大御所です。1873年には、福沢諭吉森有礼西周中村正直西村茂樹津田真道らと、明六社を結成しています。

江藤新平と教育改革
加藤弘之は、1871年に文部大丞(今の文部省局長といったところ)に任命され、法制局制度局で一緒に働いたことがある江藤新平を文部大臣に推薦し、江藤とともに教育制度改革を実施します。
江戸時代に教育の中心だったのは漢学(朱子学)でしたが、明治維新により天皇とともに京都からやってきた皇学所の国学派が勢力を伸ばし、漢学と国学の間で激しい勢力争いが行われました。明治維新と同時に設立された大学校(教育機関と教育行政機関が合わさった行政組織)が勢力争いの舞台となったのですが、無益な争いを続ける国学・漢学を見限った新政府の指導者たちによって大学校はすぐに廃止されます(このときに分校として「大学南校」と「大学東校」が残されました)。
こうして国学・漢学の勢力争いにより遅れてしまった教育制度に対して、改革の担い手として加藤弘之が起用されます。江藤・加藤コンビは、わずか半月の間に、日本の教育を国学・漢学ではなく洋学中心のレールに乗せることに成功します。当時の状況を加藤が語った一節を引用します。

「それから江藤が太政官に申し出して、そういう改革をしようということになったと見えて、それもまるで一両日の中に極まってしまった。今日の様なものでない、そうして今度は大学教授というものを言いつけるのにも国別で分課するということではなく、漢学者皇学者は大抵省いて、おもに酔う学者が言い付けられた。(略)江藤の見る所では国学も漢学も固より大切であるけれども、新しい学問というものを、欧羅巴から取ってこなければならぬものであるということが、分かって居った。」

半月ばかりで教育制度の大転換を実現できたのは、もともと教育の洋学化が明治政府の規定路線だったからでしょう。まず初めに教育の洋学化の妨げになる国学派と漢学派を争わせ、両者を一掃した後、その空白地帯に洋学派の学者を送り込む。相変わらずうまいやり方です。これは学界に限らず、官界でも同じことが起こっています。この時期に国民総教育を始めようという学制の準備中だったのですが、この学制を中心になって作っていったのは箕作麟祥や岩佐純など洋学者たちでした。彼らは加藤の同僚や下僚、教え子たちで、加藤が敷いたレールに乗って仕事をしていたのでした。

江藤と加藤の伸張
このように教育制度改革という重要テーマを担当した江藤と加藤は、その後、それぞれの道で勢いを増していきます。
江藤は1872年に司法省が設置されると初代司法卿に任命され、司法制度の整備を進めつつ、官吏の汚職追及を推し進めます。特に山県有朋井上馨など長州勢力を追い詰めた山城屋事件や尾去沢銅山事件が有名です。
山城屋事件とは、元奇兵隊の山城屋和助が山県有朋率いる陸軍と癒着し、公金の横流しをしていた事件です。江藤の追及により山城屋は陸軍省にて切腹自殺をします。山県有朋も山城屋切腹の4ヶ月前に陸軍中将・近衛都督の辞任を余儀なくされました。
一方、尾去沢銅山事件は、後に三井の大番頭と称される井上馨を辞職寸前まで追い詰めた事件です。当時大蔵大輔であった井上馨は、旧南部藩の商人村井茂兵衛から、尾去沢銅山を詐欺すれすれの手口で強奪しました。そして村井家から没収した尾去沢銅山を井上は裏から手をまわし、岡田平蔵という自分の家に出入りしている政商に破格の金額で銅山を払い下げ、結局最後に井上はその銅山を私有化しようとします。これに対して、江藤率いる司法省はこれを捜査し、井上の逮捕を請求するまでにこぎつけます(最終的には、長州閥の大将、木戸孝允がもみ消し、井上は辞職しただけで済みました)。
一方、加藤は1875年(明治8年)に『国体新論』を発表します。『国体新論』は、これまでの国学者流の国体論に対する真っ向からの批判でした。その一節を引用します。

「本邦において、国学者流と唱うる輩の論説は、真理に背反することはなはだしく、実に厭うべきもの多し。国学者流の輩、愛国の切なるより、しきりに皇統一系を呼称するは、まことに嘉すべしといえども、おしいかな、国家・君臣の真理を知らざるがために、ついに天下の国土は悉皆天皇の私有、億兆人民は悉皆天皇の臣僕なりとなし、したがいて種々牽強付会の妄説を唱え、およそ本邦に生まれたる人民はひたすら天皇の御心をもって心となし、天皇の御事とさえあれば、善悪邪正を論ぜず、ただ甘んじて勅令のままに遵従するを真誠の臣道なりと説き、これらの姿をもって、わが国体と目し、もって本邦の万国に卓越するゆえんなりというにいたれり。その見の陋劣なる、その説の野鄙なる、実に笑うべきものというべし。」

このように、加藤は、天皇の言葉もただ単に鵜呑みをする国学派を散々コケにします。天皇に対する加藤の姿勢は、「非義勅命は勅命に有らず」と語った大久保利通等と通ずるところがあります。当時はまだ天皇の神格化が進んでおらず、こうした天皇制に対する見方が普通にまかり通ったのです。
話が脱線しますが、加治氏の『幕末 維新の暗号』の中では、明治天皇のすり替え説が取り上げられています。「孝明天皇は、幕末の倒幕・佐幕両派の抗争過程で、岩倉具視伊藤博文ら長州志士等によって暗殺され、長州藩はその後、南朝光良親王の子孫(血統)である大室寅之祐を擁立し、孝明天皇を後継した睦仁親王(京都明治天皇)にすり替えた」という説です。
天皇の神格化が進むのは、1877年(明治10年)以降であり、1868年(明治2年)に起こった戊辰戦争では、薩長連合に対抗した奥羽越列藩同盟は『玉』として東武皇帝北白川宮能久親王)を擁しました。この時期は、薩長連合擁する明治天皇奥羽越列藩同盟擁する東武皇帝の二人の天皇が形式上擁立されていた訳です。明治天皇のすり替え説の是非はさておき、天皇制に対する当時の見方は、明治後期以降の神格化されたそれでもなく、現在のような“象徴”でもないものであったというのは記憶にとどめておく必要がありそうです。まさに『玉』という言葉がぴったりだと思います。
さらに余談ですが、西郷隆盛の号は「南洲」で、江藤新平の号も「南白」で、どちらも「南」を使っていました。南朝系統の大室寅之助を薩長が担いだという陰謀説が入り込む隙がこの辺にもあったりするわけです。

江藤と加藤の没落
このように、両者ともに己が道で勢力を伸張させていきました。広瀬隆氏の『持丸長者』の一節に以下のような記述があります。

ところが明治五年四月二十五日に佐賀藩江藤新平が司法卿に就任すると、かねてから政府内で政商と組んであやしげな行動に明け暮れる長州藩山縣有朋井上馨の犯罪行為を次々と指摘し始めた。もと奇兵隊の隊長として前原一誠とともに名を馳せた野村三千三が、いまは山城屋和助と称し、騎兵隊時代から進行ある陸軍大輔の山縣を介して、陸軍省からの預かり金をもとに生糸の輸出貿易に着手し、陸軍の御用達として巨富を懐にいれ、大政商となっていたからである。パリで売笑婦と戯れていた山城屋和助がやがて帰国し、十一月には、陸軍省に関する帳簿・書類を全て焼き捨て、陸軍省内で割腹自殺し、この山城屋和助事件が世間で大騒ぎとなって、よく明治六年四月に山縣有朋引責辞任に追い込まれた。

江藤新平の追及を逃れるために、明治六年後月には井上馨も大蔵大輔を辞任し、益田孝と渋沢栄一も大蔵省を辞任することとなった。ところが井上は大蔵大輔を辞任するやいなや、尾去沢に赴いて岡田平蔵と銅山を共同経営し始めたのである。これに起こった江藤新平が井上の犯罪をさらに追及しようとするが、政府の人間は一様に井上馨の追及に腰が引け、逆に孤立したのは絵等であり、潔癖な男は政府を見限って司法省をさらなければならなかった。

山縣有朋井上馨が失脚させられた1873年(明治6年)の10月にいわゆる明治六年政変が起きます。一般的には、征韓論を唱えた西郷、板垣、後藤、江藤、副島等が、これに反対する大久保、岩倉、木戸、伊藤等と対立して下野した事件として有名です。これに対して、大阪市立大学名誉教授の毛利教授は、明治六年政変について、長州派を中心とするグループが土佐・肥後派を追い落とすために仕組んだクーデターであったという説を唱えています。

従来の研究では「明治六年の政変」で西郷隆盛江藤新平が下野したのは征韓論という外交問題での対立が原因という見方が支配的だった。毛利はこの見方を批判し独自の説を展開した。毛利説では、政変は木戸孝允伊藤博文ら長州派を中心とするグループが土佐・肥後派を追い落とすために仕組んだクーデターであり、征韓論を巡って政府が分裂した事件ではないという。また西郷は公式の場で一度も朝鮮出兵を主張しておらず、むしろ砲艦外交を主張していた板垣退助を戒めるほどの道義外交(平和外交)論者であったという。この毛利の学説は歴史学界でも一定の支持を集めたが、批判も根強い。

たしかに、明治六年政変後によって不足した参議の席に、島津久光勝海舟等に加えて、若くして伊藤博文山縣有朋という長州閥が着任したことを踏まえると、長州クーデター説もうなずけるところがあります。特に、江藤新平によって失脚させられた山縣有朋は参議に返り咲き、同様に井上馨も大蔵省に復帰します。
その後、江藤新平は1874年(明治7年)に佐賀の乱にて不平士族に担がれ、大久保利通率いる政府軍に短期間で鎮圧されます。加治氏は、佐賀の乱大久保利通らによって江藤新平を亡き者にするための謀略であったとしています。江藤は、「ただ皇天后土の わが心を知るのみ」という辞世の句を残してこの世を去ります。
一方、加藤弘之は、『国体新論』を世に示した1875年(明治6年)から8年後の1884年(明治14年)に、突然郵便報知新聞に広告を出して、『国体新論』を自ら絶版したことを発表します。絶版の理由は、「今日より之を視るに謬見妄説往々少なからず、為に更新に甚だ害ある」と考えたからということです。
加藤が絶版を広告した明治14年は、明治十四年の政変が起きた年であり、薩長藩閥支配をよしとしない大隈重信以下の多数の政府高官勝ちが一斉に下野した年です。西郷等が下野した明治六年政変以降、佐賀の乱(明治7年)、萩の乱(明治9年)、西南戦争(明治10年)といった不平士族による反乱や、板垣等が民選議員設立の建白書を提示した明治7年以降に活発化した自由民権運動の盛り上がりなど、当時の政府はいつ転覆してもおかしくない状況でした。その背景には、現物財政から貨幣財政へ転換するなどドラスティックな構造改革によって引き起こされた社会の歪みが透けて見えてきます。
こうした政情不安を背景に、元元老院議官であった海江田信義等の脅迫にも近い批判を受けた加藤は、著作絶版を広告してまで自説の撤回を宣誓することになったのでした。明治14年にもなると、徐々に天皇の神格化が進みつつあり、これもひとつの背景だったと言えます。このように外部の圧力によって自説を撤回した加藤を、立花隆氏は厳しく批判しています。う〜ん、もし私が加藤の立場だったら、自説を貫き通せたでしょうか・・・。難しいところです。

以上、徒然なるままに江藤と加藤について書いてみましたが、本当に人生ってどう転ぶかわからないですね。少なくとも正しいことをすれば人生報われる、と断言するのは難しそうです。とは言うものの、やっぱり正しく生きて行きたいものです。


今日は、東京大学の初代学長となった加藤弘之と、加藤とともに日本の教育制度の先鞭をつけた江藤新平について、まとめてみたいと思います。

初代学長・加藤弘之
以前に東京大学の起源が大学南校と大学東校にあることをお話しましたが、両校が合流して1877年(明治10年)に東京大学が設立された際に、初代学長となったのが蕃書調所の教官も務めていた加藤弘之でした。
加藤弘之は、出石藩兵庫県)出身の蘭学者で、学界においては、東京大学総理、帝国大学総長、帝国学士委員長などを務め、官僚としては、文部大丞(1871年-)、外務大丞(1871年-)などを歴任したあと、元老院議員、貴族院議員(1890年-)、宮中顧問官(1895年-)、枢密顧問官(1906年-)などを務めた学界・官界の大御所です。1873年には、福沢諭吉森有礼西周中村正直西村茂樹津田真道らと、明六社を結成しています。

江藤新平と教育改革
加藤弘之は、1871年に文部大丞(今の文部省局長といったところ)に任命され、法制局制度局で一緒に働いたことがある江藤新平を文部大臣に推薦し、江藤とともに教育制度改革を実施します。
江戸時代に教育の中心だったのは漢学(朱子学)でしたが、明治維新により天皇とともに京都からやってきた皇学所の国学派が勢力を伸ばし、漢学と国学の間で激しい勢力争いが行われました。明治維新と同時に設立された大学校(教育機関と教育行政機関が合わさった行政組織)が勢力争いの舞台となったのですが、無益な争いを続ける国学・漢学を見限った新政府の指導者たちによって大学校はすぐに廃止されます(このときに分校として「大学南校」と「大学東校」が残されました)。
こうして国学・漢学の勢力争いにより遅れてしまった教育制度に対して、改革の担い手として加藤弘之が起用されます。江藤・加藤コンビは、わずか半月の間に、日本の教育を国学・漢学ではなく洋学中心のレールに乗せることに成功します。当時の状況を加藤が語った一節を引用します。

「それから江藤が太政官に申し出して、そういう改革をしようということになったと見えて、それもまるで一両日の中に極まってしまった。今日の様なものでない、そうして今度は大学教授というものを言いつけるのにも国別で分課するということではなく、漢学者皇学者は大抵省いて、おもに酔う学者が言い付けられた。(略)江藤の見る所では国学も漢学も固より大切であるけれども、新しい学問というものを、欧羅巴から取ってこなければならぬものであるということが、分かって居った。」

半月ばかりで教育制度の大転換を実現できたのは、もともと教育の洋学化が明治政府の規定路線だったからでしょう。まず初めに教育の洋学化の妨げになる国学派と漢学派を争わせ、両者を一掃した後、その空白地帯に洋学派の学者を送り込む。相変わらずうまいやり方です。これは学界に限らず、官界でも同じことが起こっています。この時期に国民総教育を始めようという学制の準備中だったのですが、この学制を中心になって作っていったのは箕作麟祥や岩佐純など洋学者たちでした。彼らは加藤の同僚や下僚、教え子たちで、加藤が敷いたレールに乗って仕事をしていたのでした。

江藤と加藤の伸張
このように教育制度改革という重要テーマを担当した江藤と加藤は、その後、それぞれの道で勢いを増していきます。
江藤は1872年に司法省が設置されると初代司法卿に任命され、司法制度の整備を進めつつ、官吏の汚職追及を推し進めます。特に山県有朋井上馨など長州勢力を追い詰めた山城屋事件や尾去沢銅山事件が有名です。
山城屋事件とは、元奇兵隊の山城屋和助が山県有朋率いる陸軍と癒着し、公金の横流しをしていた事件です。江藤の追及により山城屋は陸軍省にて切腹自殺をします。山県有朋も山城屋切腹の4ヶ月前に陸軍中将・近衛都督の辞任を余儀なくされました。
一方、尾去沢銅山事件は、後に三井の大番頭と称される井上馨を辞職寸前まで追い詰めた事件です。当時大蔵大輔であった井上馨は、旧南部藩の商人村井茂兵衛から、尾去沢銅山を詐欺すれすれの手口で強奪しました。そして村井家から没収した尾去沢銅山を井上は裏から手をまわし、岡田平蔵という自分の家に出入りしている政商に破格の金額で銅山を払い下げ、結局最後に井上はその銅山を私有化しようとします。これに対して、江藤率いる司法省はこれを捜査し、井上の逮捕を請求するまでにこぎつけます(最終的には、長州閥の大将、木戸孝允がもみ消し、井上は辞職しただけで済みました)。
一方、加藤は1875年(明治8年)に『国体新論』を発表します。『国体新論』は、これまでの国学者流の国体論に対する真っ向からの批判でした。その一節を引用します。

「本邦において、国学者流と唱うる輩の論説は、真理に背反することはなはだしく、実に厭うべきもの多し。国学者流の輩、愛国の切なるより、しきりに皇統一系を呼称するは、まことに嘉すべしといえども、おしいかな、国家・君臣の真理を知らざるがために、ついに天下の国土は悉皆天皇の私有、億兆人民は悉皆天皇の臣僕なりとなし、したがいて種々牽強付会の妄説を唱え、およそ本邦に生まれたる人民はひたすら天皇の御心をもって心となし、天皇の御事とさえあれば、善悪邪正を論ぜず、ただ甘んじて勅令のままに遵従するを真誠の臣道なりと説き、これらの姿をもって、わが国体と目し、もって本邦の万国に卓越するゆえんなりというにいたれり。その見の陋劣なる、その説の野鄙なる、実に笑うべきものというべし。」

このように、加藤は、天皇の言葉もただ単に鵜呑みをする国学派を散々コケにします。天皇に対する加藤の姿勢は、「非義勅命は勅命に有らず」と語った大久保利通等と通ずるところがあります。当時はまだ天皇の神格化が進んでおらず、こうした天皇制に対する見方が普通にまかり通ったのです。
話が脱線しますが、加治氏の『幕末 維新の暗号』の中では、明治天皇のすり替え説が取り上げられています。「孝明天皇は、幕末の倒幕・佐幕両派の抗争過程で、岩倉具視伊藤博文ら長州志士等によって暗殺され、長州藩はその後、南朝光良親王の子孫(血統)である大室寅之祐を擁立し、孝明天皇を後継した睦仁親王(京都明治天皇)にすり替えた」という説です。
天皇の神格化が進むのは、1877年(明治10年)以降であり、1868年(明治2年)に起こった戊辰戦争では、薩長連合に対抗した奥羽越列藩同盟は『玉』として東武皇帝北白川宮能久親王)を擁しました。この時期は、薩長連合擁する明治天皇奥羽越列藩同盟擁する東武皇帝の二人の天皇が形式上擁立されていた訳です。明治天皇のすり替え説の是非はさておき、天皇制に対する当時の見方は、明治後期以降の神格化されたそれでもなく、現在のような“象徴”でもないものであったというのは記憶にとどめておく必要がありそうです。まさに『玉』という言葉がぴったりだと思います。
さらに余談ですが、西郷隆盛の号は「南洲」で、江藤新平の号も「南白」で、どちらも「南」を使っていました。南朝系統の大室寅之助を薩長が担いだという陰謀説が入り込む隙がこの辺にもあったりするわけです。

江藤と加藤の没落
このように、両者ともに己が道で勢力を伸張させていきました。広瀬隆氏の『持丸長者』の一節に以下のような記述があります。

ところが明治五年四月二十五日に佐賀藩江藤新平が司法卿に就任すると、かねてから政府内で政商と組んであやしげな行動に明け暮れる長州藩山縣有朋井上馨の犯罪行為を次々と指摘し始めた。もと奇兵隊の隊長として前原一誠とともに名を馳せた野村三千三が、いまは山城屋和助と称し、騎兵隊時代から進行ある陸軍大輔の山縣を介して、陸軍省からの預かり金をもとに生糸の輸出貿易に着手し、陸軍の御用達として巨富を懐にいれ、大政商となっていたからである。パリで売笑婦と戯れていた山城屋和助がやがて帰国し、十一月には、陸軍省に関する帳簿・書類を全て焼き捨て、陸軍省内で割腹自殺し、この山城屋和助事件が世間で大騒ぎとなって、よく明治六年四月に山縣有朋引責辞任に追い込まれた。

江藤新平の追及を逃れるために、明治六年後月には井上馨も大蔵大輔を辞任し、益田孝と渋沢栄一も大蔵省を辞任することとなった。ところが井上は大蔵大輔を辞任するやいなや、尾去沢に赴いて岡田平蔵と銅山を共同経営し始めたのである。これに起こった江藤新平が井上の犯罪をさらに追及しようとするが、政府の人間は一様に井上馨の追及に腰が引け、逆に孤立したのは絵等であり、潔癖な男は政府を見限って司法省をさらなければならなかった。

山縣有朋井上馨が失脚させられた1873年(明治6年)の10月にいわゆる明治六年政変が起きます。一般的には、征韓論を唱えた西郷、板垣、後藤、江藤、副島等が、これに反対する大久保、岩倉、木戸、伊藤等と対立して下野した事件として有名です。これに対して、大阪市立大学名誉教授の毛利教授は、明治六年政変について、長州派を中心とするグループが土佐・肥後派を追い落とすために仕組んだクーデターであったという説を唱えています。

従来の研究では「明治六年の政変」で西郷隆盛江藤新平が下野したのは征韓論という外交問題での対立が原因という見方が支配的だった。毛利はこの見方を批判し独自の説を展開した。毛利説では、政変は木戸孝允伊藤博文ら長州派を中心とするグループが土佐・肥後派を追い落とすために仕組んだクーデターであり、征韓論を巡って政府が分裂した事件ではないという。また西郷は公式の場で一度も朝鮮出兵を主張しておらず、むしろ砲艦外交を主張していた板垣退助を戒めるほどの道義外交(平和外交)論者であったという。この毛利の学説は歴史学界でも一定の支持を集めたが、批判も根強い。

たしかに、明治六年政変後によって不足した参議の席に、島津久光勝海舟等に加えて、若くして伊藤博文山縣有朋という長州閥が着任したことを踏まえると、長州クーデター説もうなずけるところがあります。特に、江藤新平によって失脚させられた山縣有朋は参議に返り咲き、同様に井上馨も大蔵省に復帰します。
その後、江藤新平は1874年(明治7年)に佐賀の乱にて不平士族に担がれ、大久保利通率いる政府軍に短期間で鎮圧されます。加治氏は、佐賀の乱大久保利通らによって江藤新平を亡き者にするための謀略であったとしています。江藤は、「ただ皇天后土の わが心を知るのみ」という辞世の句を残してこの世を去ります。
一方、加藤弘之は、『国体新論』を世に示した1875年(明治6年)から8年後の1884年(明治14年)に、突然郵便報知新聞に広告を出して、『国体新論』を自ら絶版したことを発表します。絶版の理由は、「今日より之を視るに謬見妄説往々少なからず、為に更新に甚だ害ある」と考えたからということです。
加藤が絶版を広告した明治14年は、明治十四年の政変が起きた年であり、薩長藩閥支配をよしとしない大隈重信以下の多数の政府高官勝ちが一斉に下野した年です。西郷等が下野した明治六年政変以降、佐賀の乱(明治7年)、萩の乱(明治9年)、西南戦争(明治10年)といった不平士族による反乱や、板垣等が民選議員設立の建白書を提示した明治7年以降に活発化した自由民権運動の盛り上がりなど、当時の政府はいつ転覆してもおかしくない状況でした。その背景には、現物財政から貨幣財政へ転換するなどドラスティックな構造改革によって引き起こされた社会の歪みが透けて見えてきます。
こうした政情不安を背景に、元元老院議官であった海江田信義等の脅迫にも近い批判を受けた加藤は、著作絶版を広告してまで自説の撤回を宣誓することになったのでした。明治14年にもなると、徐々に天皇の神格化が進みつつあり、これもひとつの背景だったと言えます。このように外部の圧力によって自説を撤回した加藤を、立花隆氏は厳しく批判しています。う〜ん、もし私が加藤の立場だったら、自説を貫き通せたでしょうか・・・。難しいところです。

以上、徒然なるままに江藤と加藤について書いてみましたが、本当に人生ってどう転ぶかわからないですね。少なくとも正しいことをすれば人生報われる、と断言するのは難しそうです。とは言うものの、やっぱり正しく生きて行きたいものです。