カドゥーリ家とモカッタ家(2)モカッタ家

ネイサン・ロスチャイルドモカッタ家
ロスチャイルド商会創設者のマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1743-1812年)の三男ネイサン・ロスチャイルド(1777-1836年)が1804年に27歳でイギリス・ロスチャイルド商会を創設したとき、ロンドン・シティは数々の銀行家たちが跋扈しており、中でもベアリング兄弟は東インド貿易を通じて700万ポンドを超える資産を抱えるヨーロッパ随一の商人として君臨していました。
後発のネイサン・ロスチャイルドは、金塊取引の独占を通じて、ベアリング兄弟に対抗しました。広瀬隆氏の『赤い楯』は、次のように記しています。

十九世紀の初頭、ネイサン・ロスチャイルドが築き上げようとした金塊の独占形態は、ベアリング家が手当たり次第にありとあらゆる商品を扱う取引のなかで、逆にその一切の急所をロスチャイルド家が握るものであった。金銀がなければ買付けは不能になる。こうしてバイロンの詩句に、意味深い次の一節が謳われるまでになった。

ユダヤロスチャイルドと手を結ぶ、キリスト教徒のベアリング

シティで新顔のネイサンが金塊取引を独占するに至ったのは、コーエン家を介して金塊ブローカーであるモカッタ家と縁戚関係になることができたためでした。1806年、ネイサンはイギリスのユダヤ人富豪リーヴァイ・コーエンの娘ハンナ(1783年-1850年)と結婚します。ネイサンとハンナが結婚して六年後にあたる1812年に、ハンナの妹ジュディス(1784-1862)は、モカッタ家系の母レイチェル(1762-1841)を持つモーゼス・モンテフィオーレ(1784-1885)と結婚しました。こうして、ネイサン・ロスチャイルドは、コーエン家を介してモカッタ家系のモーゼス・モンテフィオーレと義理の兄弟関係を結ぶことになりました。では、このモカッタ家とは一体どのような歴史をもつ閨閥なのでしょうか。

モカッタ家の生い立ち
モカッタ家は、もともとポルトガルの出自で(『赤い楯』では「スペインで活動していた」とあります)、ダイヤモンドや金銀の貿易で成功した一族でした。1492年のユダヤ人追放を受けて、ネーデルラントへ移り住み、その後、1657年にクロムウェルが英国へのユダヤ人移住を許可したのを契機に、モカッタ家は英国へ移住します。モカッタ家のロンドンでの活躍は、モーゼス・モカッタ(-1693)が1671年に、ロンドンの有力な金匠銀行家であったエドワード・バックウェルと取引を開始したことから始まります。モーゼスの死後、後を継いだアブラハムモカッタ(-1754)は、1710年に王立証券取引所の会員資格を取得し、銀のブローカーとして頭角を現します。その後、イングランド銀行に海外の金塊取引の筆頭ブローカーに指名されました。1754年にアブラハムが死去すると、モカッタ家の事業は、養子のモーゼス・マトスと孫のアブラハムモカッタ(-1891)が相続します。
一時期、銀やダイヤモンドのディーラーであったアレクサンダー・キースラーが共同経営者となりますが、1779年にキースラーが死去すると、モカッタ家と一体となって事業を経営していたゴールドスミス家の名を冠して、モカッタ・ゴールドスミス商会と名を変えます。ゴールドスミス家は、アーロン・ゴールドスミス(-1782)の次男アッシャー・ゴールドスミスが共同経営者となりました。その後、モカッタ家とゴールドスミス家は足並みをそろえて事業を経営しますが、アブラハムモカッタとアッシャーの孫にあたるフレデリック・デビッド・ゴールドスミス(1812-1866)が1864年に引退すると、85年間続いた両家の提携関係が解消されてしまいます。

モカッタ・ゴールドスミス商会のその後
提携関係解消後、モカッタ家やゴールドスミス家と縁戚ではないヘクター・ヘイ卿がモカッタ・ゴールドスミス商会を率いていましたが、1900年、再び両家の子孫がモカッタ・ゴールドスミス商会に参画します。その後、1957年に同社はハンブローズ銀行に買収され、モカッタ家のエドガーとジョック(-1976)は代表取締役として同社に残ります。1973年、モカッタ・ゴールドスミス商会は、ハンブローズ銀行からスタンダード・チャータード銀行へ売却され、その3年後の1976年、同事業に携わった最後のモカッタ家の人物であるエドワード・ジョック・モカッタが死去します。1992年に同社はスタンダード・チャータード銀行の完全子会社となりますが、1997年にカナダの五大銀行の一つであるノバスコシア銀行に売却され、Scotia Mocattaと名を変えて現在に至ります。

モカッタ家の栄枯盛衰?
CLPを傘下に抱えるカドゥーリ財閥の総裁であるマイケル・カドゥーリの祖父にあたるエリ・カドゥーリ(1867-1922)が妻に迎えたのは、モカッタ家のローラでした。長男のローレンスが生まれたのが1899年なので、エリとローラが結婚したのは1890年代のことでしょう。この頃のモカッタ家は、モカッタ・ゴールドスミス商会の経営から一時手を引いていた時期にあたります。
モカッタ・ゴールドスミス商会は、ロンドン・ロスチャイルド銀行、シャープス&ピクスレー、ジョンソン・マッセイ、サミュエル・モンタギュー商会と並んで五大金塊銀行と称されたよう、20世紀に入ってもスタンダード・チャータード銀行の下、その存在感を世に示してきましたが、「モカッタ家」自体はあまり表に出てこなくなったように思います。
モカッタ・ゴールドスミス商会を名乗るようになってから約30年後の1810年、ネイサン・ロスチャイルドのライバルだったベアリング家の総帥フランシス・ベアリングがこの世を去ります。また、同年、モカッタ・ゴールドスミス商会の共同経営者であるアッシャー・ゴールドスミスの弟であるアブラハム・ゴールドスミスが自殺してしまいます。この2年前に、アッシャーの兄であるベンジャミン・ゴールドスミスも自殺していたため、ロンドン・シティにおけるベアリングとゴールドスミスの影響力は低下し、その分、ネイサン・ロスチャイルドが無敵の王者としてその存在感をますます高めたのでした。

結局のところ、モカッタ家はロスチャイルド家に飲み込まれてしまったのでしょうか、それともロスチャイルドの「赤い楯」の影へと隠れてしまっただけなのでしょうか。真実がどちらなのか、私にはわかりませんが、アジアの電力会社ですら国際金融資本の歴史の一部となっていることを思い知る良いきっかけになりました。