バチカン銀行 (3)1970年代〜アンブロジヤーノ銀行事件

イタリアにインテーザ・サンパオロ銀行(Intesa Sanpaolo)というメガバンクがあります。2007年にインテーザ銀行(Banca Intesa)とサンパオロIMI銀行(Sanpaolo IMI)が合併してインテーザ・サンパオロ銀行になり、2010年6月時点の総資産額は約6,500億ユーロ、ユーロ圏内では時価総額で第7位の銀行です。

このインテーザ銀行は、1998年にアンブロヴェネト銀行(Banco Ambroveneto)とカリプロ銀行(Cassa di Risparmio delle Provincie Lombarde)が合併してできた銀行です。1999年にイタリア商業銀行(Banca Commerciale Italiana)が同グループに加わり、IntesaBCiと名称を変更し、さらに2003年にインテーザ銀行と名称を変更しました。

このインテーザ銀行の母体となったアンブロヴェネト銀行は、1989年にヴェネト・カトリック銀行(Banca Cattolica del Veneto)と新生アンブロジヤーノ銀行(Nuovo Banco Ambrosiano)が合併してできた銀行でした。この新生アンブロジヤーノ銀行の前身であるアンブロジヤーノ銀行(Banco Ambrosiano)を巡って起きた事件が本日のテーマです。

上記の流れを簡単にまとめると以下のようになります。

  • アンブロジヤーノ銀行→新生アンブロジヤーノ銀行
  • 新生アンブロジヤーノ銀行+ヴェネト・カトリック銀行→アンブロヴェネト銀行
  • アンブロヴェネト銀行+カリプロ銀行+イタリア商業銀行→インテーザ銀行
  • インテーザ銀行+サンパオロIMI銀行→インテーザ・サンパオロ銀行

まずは、『バチカン株式会社』から、この「アンブロジヤーノ銀行事件」に関する記述を引用しましょう。

バチカン銀行の資金調達などを担っていたアンブロジヤーノ銀行の破たんについて、バチカンの責任が問われた事件。アンブロジヤーノ銀行は1898年、ミラノにて創設。カトリック金融界の主要な銀行の一つだった。1975年にロベロト・カルヴィが頭取に就任して以来、金融取引詐欺、マフィアとのつながり、秘密結社P2との関係といった際の舞台となった。カルヴィがおこなった不正な国際金融取引が引き金となって、1982年の夏に破綻した。負債額は1兆2,000億リラ。破たんの責任を問われた者の中にはバチカン銀行総裁のポール・マルチンスクもいた。破綻後、カルヴィはロンドンで不審死を遂げた。(P12)

バチカン銀行の総裁ポール・マルチンスクとアンブロジヤーノ銀行の頭取ロベロト・カルヴィを引き合わせたのは、ミケーレ・シンドーナ(1920−1986)というマフィア資金の運び屋でした。アンブロジヤーノ銀行事件に踏み込む前に、このミケーレ・シンドーナがどのような人物であったのかを紹介しましょう。

ミケーレ・シンドーナ

1920年シチリアで生まれたシンドーナは、インゼリッロ家やガンビーノ家などマフィアに認められつつあった1950年代後半に、バチカン銀行の秘書官を務めるイタリア名門スパーダ家の当主マッシモ・スパーダに出会います。そして、彼の手引きにより、1959年、後のパウロ6世であるミラノ大司教ジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニが老人ホーム・マンドニーナ開設のために必要としていた用地と、240万ドルの必要資金を工面することで、教皇庁との結びつきをいっきに強めました。

1960年には、マッシモ・スパーダの仲介により、シンドーナは、プリヴァータ・フィナンツィヤーリア銀行(Banca Privata Finanziaria)の株を大量に取得することに成功します。同銀行の初期の小規模株主には、バチカン銀行やウニヨーネ銀行の名前もありました。

1960年代は、シンドーナが破竹の勢いで出世した時期でした。『バチカン株式会社』から当時のシンドーナの記述を引用します。

シンドーナは、ドン・ヴィート・ジェノヴェーゼの血筋を引くイタリア系アメリカ仁のマフィアのボス、ジョー・アドニスの相談役になり、マフィア資金の洗浄ルートを構築した。また、かつてのバチカンが所有していたスイスの銀行フィンバンクを買収したりもした。シンドーナが金融取引で収めていた性向はアメリカでもさかんに報道されるようになり、アメリカ財界の名士デイヴィッド・M・ケネディーとの取引がはじまった。コンチネンタル・イリノイ銀行の頭取からのちにニクソン政権の財務大臣になった人物だった。(P22)

そして、1960年代後半、教皇パウロ6世は、このミケーレ・シンドーナとポール・マルチンスクにあるミッションを課します。それは、バチカンがイタリアに保有する株式をイタリア政府に気付かれないようイタリア国外へ持ち出す、というものでした。当時、バチカンは、1942年にムッソリーニが保証した免税措置に基づき、四半世紀にわたり課税を免れていました。ところが、バチカンの抵抗も空しく、1968年、ジョヴァンニ・レオーネ政権は教皇庁に対する課税に踏み切ります。現在の価値に換算すると、10億20万ユーロ異常の投資額に対して追徴金が課されたとのことです。こうした財政上の締め付けから逃れるために、パウロ6世は、イタリア国内に保有する全ての株式を、教皇庁の提携金融機関であるスイス銀行の地下金庫へ移動する決心をしたのです。

シンドーナによるバチカンの資産海外移転の記述を『バチカン株式会社』から引用しましょう。

シンドーナは〔資産海外移転のための〕金融取引に着手してまもなく、バチカン保有していた10億ドルの資産を抱える〔イタリア最大の開発会社〕ジェネラーレ不動産(SGI)の株式を手放し、その売却益を投じてルクセンブルクの金融機関株を取得している。これは、シンドーナが手を染めた果てしない金融錬金術の、最初の“施術例”だった。彼はイタリア国税庁を煙に巻くために、バチカン保有資産を次々と国外に移しては名義を変え、新たに株式を取得してはことごとく利益を上げた。さらには、イタリアのウニヨーネ銀行にあるバチカンの口座から根こそぎ預金を引き上げ、預金から2億5千万ドルほど着服し、残高をチューリッヒのアミンコル銀行に移すという荒業までやってのけた。(P24)

こうして教皇庁の財政顧問としての地位を得たシンドーナは、バチカンが株式を保有する金融機関と、プリヴァータ・イタリヤーナ銀行にある教皇庁の口座を利用して、マフィアの資金洗浄に手を貸したのでした。

プリヴァータ・イタリアーノ銀行事件
バチカンの資産海外移転を手掛けるさなか、シンドーナは、1971年に、一人の男をポール・マルチンスクに紹介します。アンブロジヤーノ銀行のロベルト・カルヴィです。マルチンスク、シンドーナ、カルヴィの三人組はミラノ証券取引所の株価操作で多額の利益を上げます。

マルチンスク、シンドーナ、カルヴィの三人組は、ミラノ証券取引所の株式市況に強い影響力を持ち、株価を操作できるまでになった。株価操作はバチカンが株式を保有する企業をつうじておこなわれたが、それらの企業も結局は転売され、シンドーナを経由してカルヴィの手にわたった。(中略)

このころ、〔三人組の投機的売買に伴う〕借入金や、価格を不当に吊り上げて転売を繰り返した株券が、カルヴィが頭取を務めるアンブロジヤーノ銀行の海外部門に集まるようになっていた。砂の城は遠からず崩れ落ちる運命にあった。

この三人組の失脚は、1974年のプリヴァータ・イタリヤーナ事件から始まりました。1974年4月のミラノ市場の暴落を契機に、シンドーナがそれまでに買収した銀行が連鎖的に破たんする事件が起こります。フランクリン・ナショナル銀行の損失が20億ドル、プリヴァータ・イタリヤーナ銀行の損失が3億ドル、スイスの銀行フィンバンクの外貨両替だけでも8,200万ドルの損失が出ました。これにより、バチカンは、5,000万ドルから2億5,000万ドルの損失を出しました。さらに、当時バチカン銀行の総務局長だったルイージ・メンニーニは逮捕され、パスポートをはく奪されました。破たん直後、ミラノ裁判所はシンドーナに対して逮捕令状を発行しましたが、シンドーナは、国外逃避して何とか逮捕を免れます。

こうしてシンドーナがこれまで果たしてきた役割は、アンブロジヤーノ銀行頭取のロベルト・カルヴィに引き継がれることになるのです。

アンブロジヤーノ銀行事件
アンブロジヤーノ銀行は、1896年にカトリック教徒のGiuseppe Toviniによってミラノで設立されました。Toviniの目的は、イタリアの非カトリック系銀行に対抗するカトリック銀行を設立することでした。その後、ピウス6世(位1922−1939)の甥であるフランコ・ラッティ(Franco Ratti)が会長を務めることもありました。このフランコ・ラッティは、クレスピ家のシルビオ・クレスピの娘アンジェラ・マリア・クレスピを妻に迎えています。

1971年、バチカン銀行の資金調達と資産運用となったアンブロジヤーノ銀行の頭取にロベルト・カルヴィが就任します。そして、1974年にシンドーナがイタリアで失脚した後、シンドーナの役割をカルヴィが引き継ぎ、バチカン銀行総統のマルチンクスの庇護の下バチカン銀行を経由したマフィア絡みのマネーロンダリングと不正融資を続けました。


ロベルト・カルヴィ(1920−1982)

しかし、カルヴィは、ニューヨークに逃れたシンドーナを裏切り、何とか延命を図ろうとしますが、1978年、ついにイタリア中央銀行がアンブロジヤーノ銀行の調査に踏み切ります。この調査の結果、アンブロジヤーノ銀行の膨大な借入金や無担保債権があぶりだされ、返済あるいは回収不能に陥る危険性が高いことが判明しました。アンブロジヤーノ銀行の破綻が間近に迫った1981年の8月、マルチンクスはカルヴィと協定を結びます。

マルチンクスとカルヴィはバチカンで顔を合わせた。〔大司教就任を翌月に控えた〕マルチンクスは、カルヴィにある誓約書を示し、署名させた。過去および未来の取引の全責任は、カルヴィにあるという誓約書だった。それと引き換えに、マルチンクスはバチカン銀行からの「資金提供確約書」をカルヴィにわたした。この確約書のおかげで、アンブロジヤーノ銀行は1982年6月30日まで、国外からの借入金に対する返済保証が可能になった。

しかし、1982年5月31日、イタリア中央銀行は、アンブロジヤーノ銀行が抱える13億ドルの負債について、焦げ付く可能性が高いことを通告します。そして、1982年8月6日、イタリアの財務大臣ベニヤミーノ・アンドレアッタは、アンブロジヤーノ銀行の清算手続きをはじめるよう命じます。同年8月に、ジョヴァンニ・バッゾーリ(Giovanni Bazoli)によってアンブロジヤーノ銀行は「新生アンブロジヤーノ銀行」として再建に向けて再出発しますが、旧アンブロジヤーノ銀行の債務を誰がどう継承するのかを巡って論争が続きました。

アンドレアッタ財務大臣は、アンブロジヤーノ銀行破綻時におけるバチカンの借入金を12億ドルと見積もっていました。仮にアンブロジヤーノ銀行破綻の責任がバチカンにあるとされた場合、バチカン銀行自身も財政危機に陥る可能性がありました。バチカン銀行がイタリア内外に保有する資産が差し押さえられ、バチカン銀行が破綻でもしたら、バチカン銀行に資産運用を委託していた「預金者」に対する莫大な被害が及ぶことは必至です(この「預金者」が重要なのですが、これは次回以降でご紹介します)。

そこで、バチカン銀行は、ぎりぎりの妥協案を提示します。1984年5月のことでした。この妥協案の一節を『バチカン株式会社』から引用します。

バチカン銀行はアンブロジヤーノ銀行の債権者である各銀行と全面解決を図るための和解にいたった。1984年5月25日、スイスのジュネーヴでおこなわれた会合で「取り決め」がなされた。バチカン銀行は「起きた事件とは無関係」であるとしつつも、「任意の援助金」として2億4,200万ドルを支払った。アンブロジヤーノ銀行のあらゆる負債を穴埋めする額だった。総裁マルチンクスとその秘書ドナート・デ・ボニスが署名したこの「取り組め」により、バチカン銀行は4,000億リラにのぼるアンブロジヤーノ銀行の債務を事実上、帳消しにしたのである。

こうしてアンブロジヤーノ銀行事件は、バチカン銀行により、事実関係が一切公開されないまま、アンブロジヤーノ銀行の債務を帳消しにすることで幕引きされたのでした。

実は、この物語の裏には、「P2スキャンダル」というイタリア政財界を揺るがす大事件が並行して発生していました。次回は、この「P2スキャンダル」をご紹介し、バチカン銀行に資産運用を任せていた「預金者」の実態を徐々に明らかにしていきたいと思います。