日本の教育史(1)江藤新平

今日は、東京大学の初代学長となった加藤弘之と、加藤とともに日本の教育制度の先鞭をつけた江藤新平について、まとめてみたいと思います。

初代学長・加藤弘之
以前に東京大学の起源が大学南校と大学東校にあることをお話しましたが、両校が合流して1877年(明治10年)に東京大学が設立された際に、初代学長となったのが蕃書調所の教官も務めていた加藤弘之でした。
加藤弘之は、出石藩兵庫県)出身の蘭学者で、学界においては、東京大学総理、帝国大学総長、帝国学士委員長などを務め、官僚としては、文部大丞(1871年-)、外務大丞(1871年-)などを歴任したあと、元老院議員、貴族院議員(1890年-)、宮中顧問官(1895年-)、枢密顧問官(1906年-)などを務めた学界・官界の大御所です。1873年には、福沢諭吉森有礼西周中村正直西村茂樹津田真道らと、明六社を結成しています。

江藤新平と教育改革
加藤弘之は、1871年に文部大丞(今の文部省局長といったところ)に任命され、法制局制度局で一緒に働いたことがある江藤新平を文部大臣に推薦し、江藤とともに教育制度改革を実施します。
江戸時代に教育の中心だったのは漢学(朱子学)でしたが、明治維新により天皇とともに京都からやってきた皇学所の国学派が勢力を伸ばし、漢学と国学の間で激しい勢力争いが行われました。明治維新と同時に設立された大学校(教育機関と教育行政機関が合わさった行政組織)が勢力争いの舞台となったのですが、無益な争いを続ける国学・漢学を見限った新政府の指導者たちによって大学校はすぐに廃止されます(このときに分校として「大学南校」と「大学東校」が残されました)。
こうして国学・漢学の勢力争いにより遅れてしまった教育制度に対して、改革の担い手として加藤弘之が起用されます。江藤・加藤コンビは、わずか半月の間に、日本の教育を国学・漢学ではなく洋学中心のレールに乗せることに成功します。当時の状況を加藤が語った一節を引用します。

「それから江藤が太政官に申し出して、そういう改革をしようということになったと見えて、それもまるで一両日の中に極まってしまった。今日の様なものでない、そうして今度は大学教授というものを言いつけるのにも国別で分課するということではなく、漢学者皇学者は大抵省いて、おもに酔う学者が言い付けられた。(略)江藤の見る所では国学も漢学も固より大切であるけれども、新しい学問というものを、欧羅巴から取ってこなければならぬものであるということが、分かって居った。」

半月ばかりで教育制度の大転換を実現できたのは、もともと教育の洋学化が明治政府の規定路線だったからでしょう。まず初めに教育の洋学化の妨げになる国学派と漢学派を争わせ、両者を一掃した後、その空白地帯に洋学派の学者を送り込む。相変わらずうまいやり方です。これは学界に限らず、官界でも同じことが起こっています。この時期に国民総教育を始めようという学制の準備中だったのですが、この学制を中心になって作っていったのは箕作麟祥や岩佐純など洋学者たちでした。彼らは加藤の同僚や下僚、教え子たちで、加藤が敷いたレールに乗って仕事をしていたのでした。

江藤と加藤の伸張
このように教育制度改革という重要テーマを担当した江藤と加藤は、その後、それぞれの道で勢いを増していきます。
江藤は1872年に司法省が設置されると初代司法卿に任命され、司法制度の整備を進めつつ、官吏の汚職追及を推し進めます。特に山県有朋井上馨など長州勢力を追い詰めた山城屋事件や尾去沢銅山事件が有名です。
山城屋事件とは、元奇兵隊の山城屋和助が山県有朋率いる陸軍と癒着し、公金の横流しをしていた事件です。江藤の追及により山城屋は陸軍省にて切腹自殺をします。山県有朋も山城屋切腹の4ヶ月前に陸軍中将・近衛都督の辞任を余儀なくされました。
一方、尾去沢銅山事件は、後に三井の大番頭と称される井上馨を辞職寸前まで追い詰めた事件です。当時大蔵大輔であった井上馨は、旧南部藩の商人村井茂兵衛から、尾去沢銅山を詐欺すれすれの手口で強奪しました。そして村井家から没収した尾去沢銅山を井上は裏から手をまわし、岡田平蔵という自分の家に出入りしている政商に破格の金額で銅山を払い下げ、結局最後に井上はその銅山を私有化しようとします。これに対して、江藤率いる司法省はこれを捜査し、井上の逮捕を請求するまでにこぎつけます(最終的には、長州閥の大将、木戸孝允がもみ消し、井上は辞職しただけで済みました)。
一方、加藤は1875年(明治8年)に『国体新論』を発表します。『国体新論』は、これまでの国学者流の国体論に対する真っ向からの批判でした。その一節を引用します。

「本邦において、国学者流と唱うる輩の論説は、真理に背反することはなはだしく、実に厭うべきもの多し。国学者流の輩、愛国の切なるより、しきりに皇統一系を呼称するは、まことに嘉すべしといえども、おしいかな、国家・君臣の真理を知らざるがために、ついに天下の国土は悉皆天皇の私有、億兆人民は悉皆天皇の臣僕なりとなし、したがいて種々牽強付会の妄説を唱え、およそ本邦に生まれたる人民はひたすら天皇の御心をもって心となし、天皇の御事とさえあれば、善悪邪正を論ぜず、ただ甘んじて勅令のままに遵従するを真誠の臣道なりと説き、これらの姿をもって、わが国体と目し、もって本邦の万国に卓越するゆえんなりというにいたれり。その見の陋劣なる、その説の野鄙なる、実に笑うべきものというべし。」

このように、加藤は、天皇の言葉もただ単に鵜呑みをする国学派を散々コケにします。天皇に対する加藤の姿勢は、「非義勅命は勅命に有らず」と語った大久保利通等と通ずるところがあります。当時はまだ天皇の神格化が進んでおらず、こうした天皇制に対する見方が普通にまかり通ったのです。
話が脱線しますが、加治氏の『幕末 維新の暗号』の中では、明治天皇のすり替え説が取り上げられています。「孝明天皇は、幕末の倒幕・佐幕両派の抗争過程で、岩倉具視伊藤博文ら長州志士等によって暗殺され、長州藩はその後、南朝光良親王の子孫(血統)である大室寅之祐を擁立し、孝明天皇を後継した睦仁親王(京都明治天皇)にすり替えた」という説です。
天皇の神格化が進むのは、1877年(明治10年)以降であり、1868年(明治2年)に起こった戊辰戦争では、薩長連合に対抗した奥羽越列藩同盟は『玉』として東武皇帝北白川宮能久親王)を擁しました。この時期は、薩長連合擁する明治天皇奥羽越列藩同盟擁する東武皇帝の二人の天皇が形式上擁立されていた訳です。明治天皇のすり替え説の是非はさておき、天皇制に対する当時の見方は、明治後期以降の神格化されたそれでもなく、現在のような“象徴”でもないものであったというのは記憶にとどめておく必要がありそうです。まさに『玉』という言葉がぴったりだと思います。
さらに余談ですが、西郷隆盛の号は「南洲」で、江藤新平の号も「南白」で、どちらも「南」を使っていました。南朝系統の大室寅之助を薩長が担いだという陰謀説が入り込む隙がこの辺にもあったりするわけです。

江藤と加藤の没落
このように、両者ともに己が道で勢力を伸張させていきました。広瀬隆氏の『持丸長者』の一節に以下のような記述があります。

ところが明治五年四月二十五日に佐賀藩江藤新平が司法卿に就任すると、かねてから政府内で政商と組んであやしげな行動に明け暮れる長州藩山縣有朋井上馨の犯罪行為を次々と指摘し始めた。もと奇兵隊の隊長として前原一誠とともに名を馳せた野村三千三が、いまは山城屋和助と称し、騎兵隊時代から進行ある陸軍大輔の山縣を介して、陸軍省からの預かり金をもとに生糸の輸出貿易に着手し、陸軍の御用達として巨富を懐にいれ、大政商となっていたからである。パリで売笑婦と戯れていた山城屋和助がやがて帰国し、十一月には、陸軍省に関する帳簿・書類を全て焼き捨て、陸軍省内で割腹自殺し、この山城屋和助事件が世間で大騒ぎとなって、よく明治六年四月に山縣有朋引責辞任に追い込まれた。

江藤新平の追及を逃れるために、明治六年後月には井上馨も大蔵大輔を辞任し、益田孝と渋沢栄一も大蔵省を辞任することとなった。ところが井上は大蔵大輔を辞任するやいなや、尾去沢に赴いて岡田平蔵と銅山を共同経営し始めたのである。これに起こった江藤新平が井上の犯罪をさらに追及しようとするが、政府の人間は一様に井上馨の追及に腰が引け、逆に孤立したのは絵等であり、潔癖な男は政府を見限って司法省をさらなければならなかった。

山縣有朋井上馨が失脚させられた1873年(明治6年)の10月にいわゆる明治六年政変が起きます。一般的には、征韓論を唱えた西郷、板垣、後藤、江藤、副島等が、これに反対する大久保、岩倉、木戸、伊藤等と対立して下野した事件として有名です。これに対して、大阪市立大学名誉教授の毛利教授は、明治六年政変について、長州派を中心とするグループが土佐・肥後派を追い落とすために仕組んだクーデターであったという説を唱えています。

従来の研究では「明治六年の政変」で西郷隆盛江藤新平が下野したのは征韓論という外交問題での対立が原因という見方が支配的だった。毛利はこの見方を批判し独自の説を展開した。毛利説では、政変は木戸孝允伊藤博文ら長州派を中心とするグループが土佐・肥後派を追い落とすために仕組んだクーデターであり、征韓論を巡って政府が分裂した事件ではないという。また西郷は公式の場で一度も朝鮮出兵を主張しておらず、むしろ砲艦外交を主張していた板垣退助を戒めるほどの道義外交(平和外交)論者であったという。この毛利の学説は歴史学界でも一定の支持を集めたが、批判も根強い。

たしかに、明治六年政変後によって不足した参議の席に、島津久光勝海舟等に加えて、若くして伊藤博文山縣有朋という長州閥が着任したことを踏まえると、長州クーデター説もうなずけるところがあります。特に、江藤新平によって失脚させられた山縣有朋は参議に返り咲き、同様に井上馨も大蔵省に復帰します。
その後、江藤新平は1874年(明治7年)に佐賀の乱にて不平士族に担がれ、大久保利通率いる政府軍に短期間で鎮圧されます。加治氏は、佐賀の乱大久保利通らによって江藤新平を亡き者にするための謀略であったとしています。江藤は、「ただ皇天后土の わが心を知るのみ」という辞世の句を残してこの世を去ります。
一方、加藤弘之は、『国体新論』を世に示した1875年(明治6年)から8年後の1884年(明治14年)に、突然郵便報知新聞に広告を出して、『国体新論』を自ら絶版したことを発表します。絶版の理由は、「今日より之を視るに謬見妄説往々少なからず、為に更新に甚だ害ある」と考えたからということです。
加藤が絶版を広告した明治14年は、明治十四年の政変が起きた年であり、薩長藩閥支配をよしとしない大隈重信以下の多数の政府高官勝ちが一斉に下野した年です。西郷等が下野した明治六年政変以降、佐賀の乱(明治7年)、萩の乱(明治9年)、西南戦争(明治10年)といった不平士族による反乱や、板垣等が民選議員設立の建白書を提示した明治7年以降に活発化した自由民権運動の盛り上がりなど、当時の政府はいつ転覆してもおかしくない状況でした。その背景には、現物財政から貨幣財政へ転換するなどドラスティックな構造改革によって引き起こされた社会の歪みが透けて見えてきます。
こうした政情不安を背景に、元元老院議官であった海江田信義等の脅迫にも近い批判を受けた加藤は、著作絶版を広告してまで自説の撤回を宣誓することになったのでした。明治14年にもなると、徐々に天皇の神格化が進みつつあり、これもひとつの背景だったと言えます。このように外部の圧力によって自説を撤回した加藤を、立花隆氏は厳しく批判しています。う〜ん、もし私が加藤の立場だったら、自説を貫き通せたでしょうか・・・。難しいところです。

以上、徒然なるままに江藤と加藤について書いてみましたが、本当に人生ってどう転ぶかわからないですね。少なくとも正しいことをすれば人生報われる、と断言するのは難しそうです。とは言うものの、やっぱり正しく生きて行きたいものです。


今日は、東京大学の初代学長となった加藤弘之と、加藤とともに日本の教育制度の先鞭をつけた江藤新平について、まとめてみたいと思います。

初代学長・加藤弘之
以前に東京大学の起源が大学南校と大学東校にあることをお話しましたが、両校が合流して1877年(明治10年)に東京大学が設立された際に、初代学長となったのが蕃書調所の教官も務めていた加藤弘之でした。
加藤弘之は、出石藩兵庫県)出身の蘭学者で、学界においては、東京大学総理、帝国大学総長、帝国学士委員長などを務め、官僚としては、文部大丞(1871年-)、外務大丞(1871年-)などを歴任したあと、元老院議員、貴族院議員(1890年-)、宮中顧問官(1895年-)、枢密顧問官(1906年-)などを務めた学界・官界の大御所です。1873年には、福沢諭吉森有礼西周中村正直西村茂樹津田真道らと、明六社を結成しています。

江藤新平と教育改革
加藤弘之は、1871年に文部大丞(今の文部省局長といったところ)に任命され、法制局制度局で一緒に働いたことがある江藤新平を文部大臣に推薦し、江藤とともに教育制度改革を実施します。
江戸時代に教育の中心だったのは漢学(朱子学)でしたが、明治維新により天皇とともに京都からやってきた皇学所の国学派が勢力を伸ばし、漢学と国学の間で激しい勢力争いが行われました。明治維新と同時に設立された大学校(教育機関と教育行政機関が合わさった行政組織)が勢力争いの舞台となったのですが、無益な争いを続ける国学・漢学を見限った新政府の指導者たちによって大学校はすぐに廃止されます(このときに分校として「大学南校」と「大学東校」が残されました)。
こうして国学・漢学の勢力争いにより遅れてしまった教育制度に対して、改革の担い手として加藤弘之が起用されます。江藤・加藤コンビは、わずか半月の間に、日本の教育を国学・漢学ではなく洋学中心のレールに乗せることに成功します。当時の状況を加藤が語った一節を引用します。

「それから江藤が太政官に申し出して、そういう改革をしようということになったと見えて、それもまるで一両日の中に極まってしまった。今日の様なものでない、そうして今度は大学教授というものを言いつけるのにも国別で分課するということではなく、漢学者皇学者は大抵省いて、おもに酔う学者が言い付けられた。(略)江藤の見る所では国学も漢学も固より大切であるけれども、新しい学問というものを、欧羅巴から取ってこなければならぬものであるということが、分かって居った。」

半月ばかりで教育制度の大転換を実現できたのは、もともと教育の洋学化が明治政府の規定路線だったからでしょう。まず初めに教育の洋学化の妨げになる国学派と漢学派を争わせ、両者を一掃した後、その空白地帯に洋学派の学者を送り込む。相変わらずうまいやり方です。これは学界に限らず、官界でも同じことが起こっています。この時期に国民総教育を始めようという学制の準備中だったのですが、この学制を中心になって作っていったのは箕作麟祥や岩佐純など洋学者たちでした。彼らは加藤の同僚や下僚、教え子たちで、加藤が敷いたレールに乗って仕事をしていたのでした。

江藤と加藤の伸張
このように教育制度改革という重要テーマを担当した江藤と加藤は、その後、それぞれの道で勢いを増していきます。
江藤は1872年に司法省が設置されると初代司法卿に任命され、司法制度の整備を進めつつ、官吏の汚職追及を推し進めます。特に山県有朋井上馨など長州勢力を追い詰めた山城屋事件や尾去沢銅山事件が有名です。
山城屋事件とは、元奇兵隊の山城屋和助が山県有朋率いる陸軍と癒着し、公金の横流しをしていた事件です。江藤の追及により山城屋は陸軍省にて切腹自殺をします。山県有朋も山城屋切腹の4ヶ月前に陸軍中将・近衛都督の辞任を余儀なくされました。
一方、尾去沢銅山事件は、後に三井の大番頭と称される井上馨を辞職寸前まで追い詰めた事件です。当時大蔵大輔であった井上馨は、旧南部藩の商人村井茂兵衛から、尾去沢銅山を詐欺すれすれの手口で強奪しました。そして村井家から没収した尾去沢銅山を井上は裏から手をまわし、岡田平蔵という自分の家に出入りしている政商に破格の金額で銅山を払い下げ、結局最後に井上はその銅山を私有化しようとします。これに対して、江藤率いる司法省はこれを捜査し、井上の逮捕を請求するまでにこぎつけます(最終的には、長州閥の大将、木戸孝允がもみ消し、井上は辞職しただけで済みました)。
一方、加藤は1875年(明治8年)に『国体新論』を発表します。『国体新論』は、これまでの国学者流の国体論に対する真っ向からの批判でした。その一節を引用します。

「本邦において、国学者流と唱うる輩の論説は、真理に背反することはなはだしく、実に厭うべきもの多し。国学者流の輩、愛国の切なるより、しきりに皇統一系を呼称するは、まことに嘉すべしといえども、おしいかな、国家・君臣の真理を知らざるがために、ついに天下の国土は悉皆天皇の私有、億兆人民は悉皆天皇の臣僕なりとなし、したがいて種々牽強付会の妄説を唱え、およそ本邦に生まれたる人民はひたすら天皇の御心をもって心となし、天皇の御事とさえあれば、善悪邪正を論ぜず、ただ甘んじて勅令のままに遵従するを真誠の臣道なりと説き、これらの姿をもって、わが国体と目し、もって本邦の万国に卓越するゆえんなりというにいたれり。その見の陋劣なる、その説の野鄙なる、実に笑うべきものというべし。」

このように、加藤は、天皇の言葉もただ単に鵜呑みをする国学派を散々コケにします。天皇に対する加藤の姿勢は、「非義勅命は勅命に有らず」と語った大久保利通等と通ずるところがあります。当時はまだ天皇の神格化が進んでおらず、こうした天皇制に対する見方が普通にまかり通ったのです。
話が脱線しますが、加治氏の『幕末 維新の暗号』の中では、明治天皇のすり替え説が取り上げられています。「孝明天皇は、幕末の倒幕・佐幕両派の抗争過程で、岩倉具視伊藤博文ら長州志士等によって暗殺され、長州藩はその後、南朝光良親王の子孫(血統)である大室寅之祐を擁立し、孝明天皇を後継した睦仁親王(京都明治天皇)にすり替えた」という説です。
天皇の神格化が進むのは、1877年(明治10年)以降であり、1868年(明治2年)に起こった戊辰戦争では、薩長連合に対抗した奥羽越列藩同盟は『玉』として東武皇帝北白川宮能久親王)を擁しました。この時期は、薩長連合擁する明治天皇奥羽越列藩同盟擁する東武皇帝の二人の天皇が形式上擁立されていた訳です。明治天皇のすり替え説の是非はさておき、天皇制に対する当時の見方は、明治後期以降の神格化されたそれでもなく、現在のような“象徴”でもないものであったというのは記憶にとどめておく必要がありそうです。まさに『玉』という言葉がぴったりだと思います。
さらに余談ですが、西郷隆盛の号は「南洲」で、江藤新平の号も「南白」で、どちらも「南」を使っていました。南朝系統の大室寅之助を薩長が担いだという陰謀説が入り込む隙がこの辺にもあったりするわけです。

江藤と加藤の没落
このように、両者ともに己が道で勢力を伸張させていきました。広瀬隆氏の『持丸長者』の一節に以下のような記述があります。

ところが明治五年四月二十五日に佐賀藩江藤新平が司法卿に就任すると、かねてから政府内で政商と組んであやしげな行動に明け暮れる長州藩山縣有朋井上馨の犯罪行為を次々と指摘し始めた。もと奇兵隊の隊長として前原一誠とともに名を馳せた野村三千三が、いまは山城屋和助と称し、騎兵隊時代から進行ある陸軍大輔の山縣を介して、陸軍省からの預かり金をもとに生糸の輸出貿易に着手し、陸軍の御用達として巨富を懐にいれ、大政商となっていたからである。パリで売笑婦と戯れていた山城屋和助がやがて帰国し、十一月には、陸軍省に関する帳簿・書類を全て焼き捨て、陸軍省内で割腹自殺し、この山城屋和助事件が世間で大騒ぎとなって、よく明治六年四月に山縣有朋引責辞任に追い込まれた。

江藤新平の追及を逃れるために、明治六年後月には井上馨も大蔵大輔を辞任し、益田孝と渋沢栄一も大蔵省を辞任することとなった。ところが井上は大蔵大輔を辞任するやいなや、尾去沢に赴いて岡田平蔵と銅山を共同経営し始めたのである。これに起こった江藤新平が井上の犯罪をさらに追及しようとするが、政府の人間は一様に井上馨の追及に腰が引け、逆に孤立したのは絵等であり、潔癖な男は政府を見限って司法省をさらなければならなかった。

山縣有朋井上馨が失脚させられた1873年(明治6年)の10月にいわゆる明治六年政変が起きます。一般的には、征韓論を唱えた西郷、板垣、後藤、江藤、副島等が、これに反対する大久保、岩倉、木戸、伊藤等と対立して下野した事件として有名です。これに対して、大阪市立大学名誉教授の毛利教授は、明治六年政変について、長州派を中心とするグループが土佐・肥後派を追い落とすために仕組んだクーデターであったという説を唱えています。

従来の研究では「明治六年の政変」で西郷隆盛江藤新平が下野したのは征韓論という外交問題での対立が原因という見方が支配的だった。毛利はこの見方を批判し独自の説を展開した。毛利説では、政変は木戸孝允伊藤博文ら長州派を中心とするグループが土佐・肥後派を追い落とすために仕組んだクーデターであり、征韓論を巡って政府が分裂した事件ではないという。また西郷は公式の場で一度も朝鮮出兵を主張しておらず、むしろ砲艦外交を主張していた板垣退助を戒めるほどの道義外交(平和外交)論者であったという。この毛利の学説は歴史学界でも一定の支持を集めたが、批判も根強い。

たしかに、明治六年政変後によって不足した参議の席に、島津久光勝海舟等に加えて、若くして伊藤博文山縣有朋という長州閥が着任したことを踏まえると、長州クーデター説もうなずけるところがあります。特に、江藤新平によって失脚させられた山縣有朋は参議に返り咲き、同様に井上馨も大蔵省に復帰します。
その後、江藤新平は1874年(明治7年)に佐賀の乱にて不平士族に担がれ、大久保利通率いる政府軍に短期間で鎮圧されます。加治氏は、佐賀の乱大久保利通らによって江藤新平を亡き者にするための謀略であったとしています。江藤は、「ただ皇天后土の わが心を知るのみ」という辞世の句を残してこの世を去ります。
一方、加藤弘之は、『国体新論』を世に示した1875年(明治6年)から8年後の1884年(明治14年)に、突然郵便報知新聞に広告を出して、『国体新論』を自ら絶版したことを発表します。絶版の理由は、「今日より之を視るに謬見妄説往々少なからず、為に更新に甚だ害ある」と考えたからということです。
加藤が絶版を広告した明治14年は、明治十四年の政変が起きた年であり、薩長藩閥支配をよしとしない大隈重信以下の多数の政府高官勝ちが一斉に下野した年です。西郷等が下野した明治六年政変以降、佐賀の乱(明治7年)、萩の乱(明治9年)、西南戦争(明治10年)といった不平士族による反乱や、板垣等が民選議員設立の建白書を提示した明治7年以降に活発化した自由民権運動の盛り上がりなど、当時の政府はいつ転覆してもおかしくない状況でした。その背景には、現物財政から貨幣財政へ転換するなどドラスティックな構造改革によって引き起こされた社会の歪みが透けて見えてきます。
こうした政情不安を背景に、元元老院議官であった海江田信義等の脅迫にも近い批判を受けた加藤は、著作絶版を広告してまで自説の撤回を宣誓することになったのでした。明治14年にもなると、徐々に天皇の神格化が進みつつあり、これもひとつの背景だったと言えます。このように外部の圧力によって自説を撤回した加藤を、立花隆氏は厳しく批判しています。う〜ん、もし私が加藤の立場だったら、自説を貫き通せたでしょうか・・・。難しいところです。

以上、徒然なるままに江藤と加藤について書いてみましたが、本当に人生ってどう転ぶかわからないですね。少なくとも正しいことをすれば人生報われる、と断言するのは難しそうです。とは言うものの、やっぱり正しく生きて行きたいものです。