日本の金融史(1)幕末の幣制と明治政府の国債発行

バチカン銀行の続きを書くまとまった時間がなかなかとれないので、自分の頭の整理のために「旧MATRIX」から日本の金融史についてバラバラと書いたモノを一部修正しながら転記していきたいと思います。まずは、幕末の貨幣制度から明治政府による初の国債発行までを。

幕末の幣制
幕末の幣制は極めて混乱しており、財政危機に際して改鋳が行われ、改鋳差金(シニョレッジ)が幕府の歳入の三分の二を越えた時期もありました。シニョレッジの獲得を目的として改鋳が行われたため、金貨と銀貨の交換比率は銀高の方向で改鋳され、当時のロンドン市場における金銀比率が1:15程度であったのに対して、1859年(安政6年)の国内金銀比率は1:5.24という銀高になっていました。
日米修好通商条約に基づき神奈川・長崎・函館が1859年(安政6年)に開港されると、日本に銀を持ち込み海外に金(小判)を持ち出すという裁定取引が行われ、大量の金貨が海外に流出してしまいます。これに対して、幕府は開国と同時に銀貨の価値を3分の1に下げる改鋳計画を用意していたのですが、アメリカ公使ハリス等の外交官や外国商人の強い抗議により断念せざるを得ませんでした。そこで、金銀比価を国際相場に合わせるため、逆に金貨の価値を引き下げるよう1860年に改鋳し、これでやっと金の海外流出が止まります。
本位貨幣の純金含有率が3分の1に引き下げられたので、大幅なインフレーションが発生します。開港から1868年までの間、年率13.2%のインフレ率だったそうです。

明治維新政府による金本位制の採用
英国政府の影の働きにより1867年に誕生した明治政府が抱える課題の一つは、混乱した通貨制度の統一でした。当時は、江戸幕府が鋳造してきた多様な金貨、銀貨、海外から流入した洋銀、各藩が幕府の許可を得て発行した藩札など、さまざまな貨幣が流通していました。
明治政府は、1871年明治4年)に金本位制を採用し、アメリカ1ドル金貨に相当する一円金貨を本位貨幣とする新貨条例を交付しました。実際は、貿易壱円銀も開港場において無制限の通用力を付与したため、実態的には金本位制ではなく、金銀複本位制だったと考えた方が良いです。
新貨条例における金本位制の採用については、伊藤博文が主導したと一般的には伝えられていますが、実際は渋澤栄一ゴーストライターになっていたようです。金本位制やセントラル・バンクとしての日本銀行設立の立役者は、渋澤栄一松方正義であるが、いずれもフランスの影響を強く受けていました。明治政府の金融システムは、フランス系金融資本家が渋澤栄一松方正義をエージェントとして具体化したと見ています。

明治政府初の外資金融機関からの借り入れ
明治政府の外国からの最初の借入れは、旧幕府の借入金の担保を解除するために行われました。1868年3月に徳川幕府は、フランスのソシエテ・ジェネラルから、横浜と横須賀の製鉄所を担保に、期間7ヶ月、金利10%の条件で、洋銀50万ドルを借り入れていました。この担保を解除するために、明治政府は1868年9月に、ソシエテ・ジェネラルへの償還資金である洋銀50万ドルをイギリスのオリエンタルバンク(Oriental Bank Corporation)の横浜支店長ロバートソンから融資を受けて、担保を解除しました。ソシエテ・ジェネラルに横浜と横須賀の製鉄所を没収されそうになった明治政府が英公使パークスに相談をもちかけ、紹介されたのがこのオリエンタルバンクです。オリエンタルバンクは明治初期に政府御用達のお抱え銀行として、国債に関する決済事務や募集事務を担っていました。オリエンタルバンクの代理人には、グラバーの名も挙がっており、その影響力が伺えます。三井はこのオリエンタル銀行の融資によって破産を免れたという過去を持ちます。

明治政府による初の国債発行
1869年(明治2年)、明治政府は東京・京都、東京・横浜、京都・神戸、琵琶湖・敦賀間の鉄道敷設を決定し、伊達宗城大隈重信伊藤博文に300万ポンド調達の全件を委任します。1869年12月、明治政府は、上記の資金調達のため当時37歳のホレシオ・ネルソン・レイ(Horatio Nelson Lay)を外国人アドバイザーとして雇いました。ホレシオ・ネルソン・レイは、アロ−戦争(1856-60年)の遠征軍司令官であったエルギン伯ジェームズ・ブルースの通訳を務めた人物です。このエルギン伯ジェームズ・ブルースは、1858年に日英通商条約を締結させたでイギリスの植民地行政官でした。

明治政府とレイは、関税収入と鉄道営業収益を担保に金利12%で100万ポンドを借り入れる契約をします。明治政府から権限を付与されたレイによって、パリのエマイル・エルランジェ(Emile Erlanger)商会が国債を引受け、シュローダー商会が募集取り扱いを行う公募債として国債が発行されることになりました。当時のシュローダー商会は、J・ヘンリー・シュローダー・カンパニーの下、単なる英独系マーチャント会社から、シティーを代表する有力マーチャント・バンクヘと大きく発展した時期にありました。

1870年4月、ロンドン証券取引所で日本帝国政府の100万ポンド海関税公債の目論見書が公表されます。明治政府は、この資金調達を通じて私利を得ようとしていたレイをクビにし、公債払込金の受け取り等の代理店として、ソシエテ・ジェネラルによる担保没収の回避に一役買ったオリエンタルバンクを指定したのでした。

初の国債を引き受けたエマイル・エルランジェ商会は、アメリカの南北戦争時に南部同盟政府が発行したコットン・ボンドを引き受けたことで有名なパリのマーチャントバンクでした。シュローダー商会は、このコットン・ボンドについてもエルランジェ商会とパートナー関係にあったようです。

1850〜60年代、英仏政府は植民地政策で対策しながらも、金融の世界では国籍を問わずに繋がっていたようです。