地球最後の日のための種子(1)

一年半ぶりにちゃんとブログを書いてみようと思います。テーマは、遺伝資源です。最近、『地球最後の日のための種子』を読んだので、この本を出所として、思うところをまとめてみたいと思います。個人的に注目しているのは、本著の中心人物であるベント・スコウマンが「何者かの意思によって」グローバルな人事ローテーションに組み込まれていく過程を記しているところです。

まずは、同著の概要をお伝えするために、日経新聞の書評を引用します。

地球最後の日のための種子 スーザン・ドウォーキン著 農業革命に懸けた科学者に光*1
2010/10/3付

ノルウェースバールバル諸島。北極圏の凍土の地下に巨大な種子貯蔵庫がある。世界から集めた何百万種もの作物の種子が眠る。人類が壊滅的な災厄に襲われた後も、生き残った人々が農業を続けられるようつくられた。

この「地球最後の日のための貯蔵庫」建設を構想した男、ベント・スコウマンの生涯を軸に、第2次世界大戦後の農業革命の時代を生きた科学者たちを描いた科学ノンフィクションである。

以下、略。

同著の中には、農業分野における財団の役割、戦略物資としての農産物、農薬メーカーの暗躍、などが方々に記載されています。今回のブログのテーマは、「グローバルな人事政策」に焦点を当てたいので、簡単にそれぞれの概要を紹介します。

まず、同著を通じて、ロックフェラー財団ゲイツ財団が登場し、財団がこの領域で大きな役割を果たしてきたことをうかがい知ることができます。

  • 1940年、フランクリン・デラノ・ルーズベルト政権の副大統領となった直後、ヘンリー・ウォレスは公務でメキシコを訪れた。(中略)メキシコ農民の苦境に心動かされたウォレスは、アメリカに戻ったあと、ロックフェラー財団に連絡をとり、メキシコのトウモロコシと小麦の収量を向上させることを目的として現地と共同作業ができないかどうか検討するように依頼した。(中略)1943年に、ロックフェラー財団の「メキシコ農業支援プログラム」が発足した。(P26)
  • 「国際農業研究協議グループ」のもとにある11か所のセンターでは、遺伝資源コレクションが維持されている。(中略)同グループに属する最初のセンターは、1960年にフォード財団とロックフェラー財団とフィリピン政府が合同で設立した「国際稲研究所」だった。その次がCIMMYTで、これは、前述の「メキシコ農業支援プログラム」を引き継ぐ形で、1966年にロックフェラー財団とメキシコ政府によって設立された。(P29)
  • 「グローバル作物多様性トラスト」は、目標額2億6,000万ドルの資金を集める努力を通して、「食糧農業植物遺伝資源に関する国際条約」を支えるコレクションを保全する各ジーンバンクにテコ入れを行っている。このトラストへの最大の資金供与団体はビル&メリンダ・ゲイツ財団だ。(P163)

また、今も実態は大きく変わらないのだと思いますが、(特に発展途上国に対して)農産物が戦略物資として扱われてきたことについても記述があります。戦略物資の意味合いは、単に輸出入を止めると相手国が困ってしまうという以上の意味合いを持っています。1960年代の旧ソ連の食糧難は、裏を返すと、旧ソ連から西側諸国への金の流出という形になって表れ、同時期のロンドン金市場の金プールは旧ソ連からの金流出によって実質的に支えられていました。従って、食糧問題は、国際金融システムとも深く結びついていたと考えます。結果論かもしれませんが。(詳細は、Matrixの「金を巡る物語り」をご覧ください*2)。

  • トルコでのベント・スコウマンの仕事の骨子は、ちょうとメキシコが春小麦の拠点になったように、トルコを小麦の生産および改良拠点にすることだった。(中略)トルコで新たな冬小麦の品種を育成するのは、トルコに似た気候のアフガニスタン、イラン、イラクパキスタンといった諸国で栽培できるようにするためだった。それにより、現地の人々を飢餓から救い、テロリズムへの傾斜を鎮静化させることも視野に入っていた。(P37-P38)
  • ようやく途上国は、遺伝資源には何らかの価値があり、それが海外の大企業に巨利をもたらしているという事実に気づきだした。有力な縁故を持つ現地の事業家、軍事的指導者、政治家たちは、こうした取引の分け前にあずかるようになった。(P87)
  • 1970年代、世界銀行が農業に対して行った財政支援は、約200億ドルの合計予算のおよそ30パーセントを占めていた。1980年代、この割合は16パーセントに減り、2005年には9パーセントに落ち込んでしまった。支援が減った原因の一つは、単に冷戦が終結したことにある。ソヴィエト連邦が崩壊した今、“公的な”資金供与に裏打ちされた農業開発計画の提供を通じて開発途上国の忠誠心を買うのは、もはやさほど重要なことではなくなったからだ。(P141)
  • アメリカとカナダは、1973年、ソ連に対し数百万トンの小麦を輸出した。ソ連との間の契約は主要な穀物会社といくらかの農業経営者を非常に豊かにした。(中略)ジェラルド・フォード政権下の農務長官で、口の悪いことで知られた大規模農業の推進者、アール・バッツは、彼が取り付けたロシアとの小麦輸出協定によって、アメリカの農業経済に新時代をもたらした。(P51)

また、遺伝資源のオープン化を目指すスコウマンと農薬メーカーの間の緊張関係もところどころに生々しい記述があります。

  • 農業生産物(特に種子)と生産プロセス(究極的には研究)の私有化は、“ライフサイエンス”を扱う多国籍企業の台頭と、食糧生産および供給を一握りの企業が独占しかねない危険な状況を生み出した。スコウマンは若い同僚たちに「気をつけないと、全世界の種子の供給は、たった四つの企業に握られてしまうぞ」とよく冗談めかして言っていた。(P14)
  • アメリカにおける特許法の変更により、民間セクターが特許を取得すべく研究に大量の資金を投入し、公共セクターで人材流出が起きていた。スコウマン自信、最も腕の立つトルコ人の同僚をBASFやモンサントといった企業に奪われた。(P40)
  • 民間企業は、大規模農業に膨大な利用価値をもたらす種類の遺伝子組み換え技術の草分けになりつつあった。彼らは除草剤に抵抗性のある種子を開発したのである。それにより、除草剤をまいても栽培作物を枯らさずに、雑草だけを駆除することができるようになった。これは種子の販売(毎年)と除草剤の販売の両方を手掛ける企業にとって、二重の儲けとなった。モンサント社の人気商品「ラウンドアップ」除草剤に抵抗性を持つ「ラウンドアップ・レディー」種子はその一例である。(P104)
  • 民間企業や、バイオ特許を不法に入手しようとする輩が、遺伝資源を狙っていたからである。こうした連中は、遺伝資源を入手するや、それを改編し(ほんのわずかな改変であることも大きな改変であることもあり、ときにはまったくそのままのこともある)、特許申請して販売してしまい、もともとの種子を育成したり守ったりしてきた人々は蚊帳の外に置かれてしまうのである。(P72)
  • 1980年に、アメリ連邦議会は「バイドール法」を可決。これにより大学の研究者たちは、たとえその開発費が国民の税金によって賄われたものであっても、開発した製品について特許を取得することができるようになった。(中略)「農民が種子を自由に接し合うように、かつて発明を自由に交換しあっていた大学研究者たちは、今や所有権を気にするようになってしまった」(中略)民間企業は大学の研究者たちを新たなビジネスパートナーとして歓迎し、かつてなく大学の研究に関与するようになった。当時連邦議会議員だったアル・ゴアは、モンサント社セントルイスにあるワシントン大学のバイオテクノロジー研究に2,350万ドルを寄付したことについて、今や「企業の許可を取り付けない限り、研究活動を行うことは不可能になってしまった」と言っている。(P133)
  • 裁判所もまた、1985年にトウモロコシに関する複数の特許を指示したことによって、生命科学の私有化を大きく進展させた。(中略)イギリス、オランダ資本の巨大油脂企業、ユニリーバ社は、油ヤシのクローンを作り、それを試験管のなかで増殖させる技術を開発した。その後同社は、油ヤシの木だけでなく、クローン技術についても特許を取得し、またたくまに、世界の植物油脂市場の三分の一を支配してしまった。(中略)生命科学分野で隙間産業を既に確立していた企業や先進的なアイデアを持つ企業、その両方を特徴とする企業も既に存在していたが、多国籍企業がこうした企業を吸収・買収しはじめた。(P134)
  • 企業は、資金が枯渇して弱り切ったCIMMYTが、その財宝への独占アクセス権を売りに出し始める時を虎視眈々と狙っていた。(P164)

少し長くなったので一度区切ります。