日本の金融史(6)1920年代の欧米金融機関と日本政府

1920年代の欧米金融機関と日本政府の関わりについて簡単にまとめてみました。まずは、日本と米国の関係を対中国政策を軸に説明します。

1900〜20年代の米国対中政策の概要
 1899〜1913年は、共和党大統領が三人続きます。1899年のヘイ・ノートによる中国に対する門戸開放宣言をはじめとして、1908年の国務省極東部設立、1912年の中国に対する六カ国借款団の設立など、米国政府は、ウォール街の金融資本家と歩調を合せた中国への展開を図っていました。しかし、1913年にウィルソンが大統領に就任し、民主党政権が成立してから、政権はウォール街の中国事業の支援から手を引いてしまいます(1913年の国債借款団への支持取り消し)。
 ところが、辛亥革命(1911年)を契機に1913年に正式に発足した中華民国袁世凱初代大総統)に対して、日本が対華二十一箇条要求(1915 年)、西原借款(1917年)など一連の対中国施策を展開し、ウィルソン政権も次第に日本への警戒感を強めるようになりました。その結果、1916年あたりから米国政府は再び国際借款団への復帰を模索するようになり、1918年に新借款団構想を提示するようになります。
 ここで提示された構想に対して日本は、西原借款を含む日本の既得権を脅かすものと捉え、受け入れ拒否の立場をとっていました。これに対し、米国政府は、モルガン商会のパートナーであったラモントに日本政府との新借款構想の交渉を一任し、1920年、ラモントの交渉が功を奏し日本を含む新四国借款団が成立することとなります。

第一次大戦後の外資流入
第一次大戦により欧米各国の目がアジアから逸れている間に、日本は、1915年の対華二十一箇条要求や1917年の西原借款など中国進出を積極的に展開します。
これに対して危機感を強めた米国は、上述のように、ウィルソン就任以来の方針を変更し、改めて中国における新借款団の設置を訴えるようになりました。その結果、1920年に新四国借款団が成立し、中国政府に対するすべての借款が新国際借款団のもとで行われることとなります。
日本は、このように中国における単独借款の機会を手放す一方で、欧米諸国とのパートナーシップを促進し、外国資本の対日投資を積極的に享受することになります。
日本政府が「二十一箇条要求」や「西原借款」といった対中強硬路線を放棄し新四国借款団に加盟し、またワシントン会議1921年)で海軍軍縮を承諾し、九カ国条約(中国の主権、独立、領土保全の保証等をうたった条約)を締結したことで、欧米金融界は日本を「ワシントン体制」の一員とみなし、投資対象国として認知するようになります。
その結果、1923年を境に英米からの対日資本流入が急増します。

  • 1923年 東洋拓殖会社米貨社債をナショナル・シティ・バンクが引き受け
  • 1924年 関東大震災の復興のための政府公債をモルガンが中心となった英米銀行団が引き受け
  • 1924年 東京・横浜両市の市債をモルガン商会が引き受け
  • 1928年 東京電燈米貨社債と東洋拓殖会社米貨社債発行

大正十二年(1923年)に関東大震災を経験し、大正十四年(1925年)期限の外債借り換えを迎えた日本にとって、こうした英米金融機関の対日投資は、渡りに船でだった訳ですがが、これにより日本の金融政策は、欧米系金融資本家の影響を少なからず受けるようになったのでした。

欧米金融資本家の思想と金本位制
1920年代の国際金融資本家の関心事項は、第一次大戦により乱れた国際金融秩序をいかに回復するかということでした。
1920年代の国際金融秩序を牽引したのは、ニューヨーク連銀総裁のベンジャミン・ストロングとイングランド銀行総裁のモンタギュー・ノーマン、そしてモルガン商会のトーマス・ラモントでした。
彼らは、第一次世界大戦後の国際金融秩序を創造するためには英米中央銀行及び主要民間企業による国債借款がベースになると考ました(実際に、唯一国際支援が可能であった米国が政府主導の資本援助を行う可能性はほとんどなかったため、国際金融秩序を回復するためには民間金融機関の力に頼らざるを得なかったという背景があります)。
こうした民間企業による資金援助を推進するためには、民間金融機関の投資リスクを軽減するための仕組みが必要であり、ストロングやノーマンはこの仕組みとして金本位制度を強烈にプッシュしました。つまり、第一次大戦後の英米の主要民間銀行による国債借款をベースにした国際金融秩序を創造するために、主要国の金本位制の復帰が前提条件になると考えたのです(金本位制を維持している限りは、為替レートも安定し、放漫財政も抑制されるからです)。
ただし、この考えには二つのリスクが存在しました。一つは金本位制という仕組み自体が内包するリスクです。つまり、世界的金本位制の下では為替レートの固定化を結果としてもたらし、海外で起こった出来事が為替レートを通じて国内物価をかく乱してしまうというリスクです(国外事情→為替レートの変動→国内物価の変動)。もう一つのリスクは、当時の世界の金の四分の一がアメリカに集中しているという事象に起因するリスクです。当時のアメリカ連銀は金の対外流出を防止する政策を展開していたため、他国が金本位制に復帰したとしても十分な金準備を確保できるか否かがアメリカ連銀の胸先三寸で決まってしまうというリスクがありました。この点について、1920年代にこれら国際金融資本家と見解を対立させたケインズが『貨幣改革論』の中で次のように述べてます(ケインズは、国際金融資本家に対する不信というよりも、ポピュリストの政治圧力により連銀の政策がぶれてしまうことを危惧していました)。

「現在における世界の金の分配を見れば分かるように、金本位制の復活は、われわれが物価水準のコントロール景気循環の調整とをアメリカの連邦準備銀行制度に引き渡すことを意味する。もっとも親密で、信義をわきまえた関係が連銀とイングランド銀行との間に存在しているからといっても、より大きな影響力を持つのは連銀である。連銀がイングランド銀行の行動を無視することはできよう。だが、イングランド銀行が連銀の行動を無視したならば、それは時に寄れば、大規模な金の流入に繋がり、また時によれば、大規模な金の流出につながるだろう」

こうした国際金融エリートの考えを受け止め、日本の金融政策を主導してきたのが井上準之助であり、三井財閥団琢磨でした(両名とも血盟団事件で殺害されてしまいます)。彼らは、中国大陸への軍事的な拡張を企てる政治勢力に対抗し、合理的なビジネスの計算に基づいた国際協調主義を日本に広めようとしていました。
ストロング、ノーマン、ラモントら金融エリートは、英米の主要民間銀行による国際借款をエサにして主要国の金本位制に迫り、1920年代の日本も彼らの圧力に晒され続けていました。結局は、モルガン財閥と強い結びつきを持っていた井上準之助が、昭和5年(1930年)に金解禁に踏み切ることになります。この続きは、昭和金融史として整理したいと思います。