日本の金融史(7)金融恐慌・昭和恐慌

昭和に入ってから恐慌が続きます。まず昭和2年(1927年)に金融恐慌を迎え、昭和5年(1930年)の金解禁を背景に昭和恐慌(昭和5・6年,1930-31年)が起き、昭和7年(1932年)に再び金兌換が停止されるに至ります。
昭和初期の急速な軍国主義の勢力拡大の背景には、こうした経済恐慌による社会不安の高まりが存在しました。思想史的な観点から昭和史を別途振返りたいと思っていますが、今回は経済(特に金融)に焦点をあてて、昭和初期を整理してみたいと思います。

金融恐慌(昭和2年〔1927年〕)
衆議院予算委員会で片岡蔵相が、「現に今日正午頃において東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」という失言をしたことを契機に、各地で取り付け騒ぎが発生し、連鎖的に中井銀行、左右田銀行、八十四銀行、中沢銀行、村井銀行が休業を余儀なくされます。
さらに、台湾銀行鈴木商店への融資を打ち切ったことで鈴木商店が倒産し、うまく事態解決を図れなかった若槻内閣が1928年に総辞職し、代わって成立した田中義一内閣が、高橋是清を蔵相に任命して金融恐慌の解決を図ることになりました(日銀総裁井上準之助が再任します)。
金融恐慌のきっかけは片岡蔵相の失言でしたが、実質的な背景は、旧平価での金解禁を目指した緊縮的な金融・財政政策と、旧平価での金解禁を見込んだ円買い投機による円高とデフレの進行でした。

金解禁(昭和5年〔1930年〕)
昭和4年(1929年)7月にライオン宰相と呼ばれた浜口雄幸が内閣総理に就任します。浜口首相は、「金本位制(金輸出解禁)への復帰」を最大の経済政策として、井上準之助を蔵相に任命し、8月に金解禁と緊縮財政に対する国民の理解を得るために、1300万枚の宣伝ビラとラジオ放送を使い、大々的なプロモーションを行いました。
国民の圧倒的な支持を受けて、昭和5年(1930年)1月に、金解禁が実施されました。 浜口首相は、自身満々、1月21日、衆議院を解散して、国民に信を問います。浜口内閣(民政党)は、圧倒的な支持を受け、273議席を獲得し、反対派の政友会は、わずか174議席に落ち込みました。


浜口雄幸

昭和恐慌(昭和5・6年〔1930〜31年〕)
しかし、金解禁によりデフレが一層深刻化します。下記の経済指標は、昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年)の一年間の変化率です。
   名目経済成長率 –9.6%
   消費者物価 -10.8%
   株価 -29.4%
   地価 -21.4%
デフレがここまで深刻化したのは、1)旧平価に基づく為替相場の高騰、2)緊縮財政、3)消費節約の国民的大運動、4)海外物価の下落(1929年の世界恐慌)といった複数の要因が絡み合っていました。
さらに、金解禁により金準備が激減します。すでに、1929年7月の金解禁の前から金解禁を必至とみた内外の銀行による為替投機が始まっていました(当時の為替レートは100円=43ドル50セント)。金解禁が実施されると、100円=49ドル85セントの固定制となり、円は14%以上切り上げられました。そこで、円買いを進めていた投機筋は、円売り、ドル買いの利食いを実施し、1930年1月〜6月の間、2億3000万円の正貨が流失してしまいました。
これに加えて、1931年にイギリスの金本位制離脱と満州事変という二大事件が起こり、投機筋は、次は日本の離脱が必至と読みます。離脱すれば、円レートは暴落して、莫大な差益を得ることができるので、内外の銀行はドル買いのために正金銀行に殺到します。1930年7月31日から、1931年12月12 日までのドル買いの内訳は次のとおりです。
  ナショナル・シティ銀行 2億7300万円
  住友銀行        6400万円
  三井銀行        5600万円
  三菱銀行        5300万円
  香港上海銀行      4000万円
  三井物産        4000万円
  朝鮮銀行        3400万円
  三井信託銀行      1300万円
  その他         1億8700万円
  合計          7億6000万円
これに対して井上準之助は、円売り・ドル買いのポジションを取っていた上記の資本家を一網打尽にするため、円建ての借り入れを必要とする資本家に対して高金利政策で対抗しました(つまり、ドルの先物買いの契約解除〔解け合い〕を狙ったのです)。
しかし、1931年12月15日を解け合いの最終期限と宣告して高金利政策を続けた井上準之助の目論見は、その二日前の12月13日に成立した犬養政権の金輸出再禁止によってはかなくも崩れ去ることになりました。
国内ではドル買いで大きな稼ぎを得た三井財閥に非難の声が集まりましたが、もっとも稼いだのはナショナル・シティ銀行でした(ナショナル・シティ銀行は現在のCitybankの前身で、ロックフェラー、モルガン系列の銀行でした)。
もともと井上準之助はモルガン財閥(ラモント)と深いつながりを持っていたのですが、この頃には井上準之助と国際金融エリートの関係は冷え切ってしまっていたようです(これについては後日、改めて整理したいと思います)。

金輸出・兌換停止(昭和6・7年〔1931〜32年〕)
結局、昭和6年(1931年)12月、犬養内閣の成立にともなって高橋是清が蔵相に就任すると、直ちに金輸出が再禁止され、翌1932(昭和7)年1月には「銀行券の金貨兌換停止に関する勅令」の公布施行により、金兌換が停止され、日本は金本位体制から離脱することになりました。

第一次大戦後(1919年)から金兌換の停止(1932年)の間に、重大な経済恐慌が4回発生しました。一回目は大正バブルの崩壊(1919〜20年)、二回目は震災恐慌(1923年)、三回目と四回目は上述した金融恐慌(1927年)と昭和恐慌(1930〜31年)です。このいずれの経済恐慌についても井上準之助は(良くも悪くも)大きな役割を果たしていました。大正バブル崩壊時と金融恐慌時は日銀総裁であり、震災恐慌及び昭和恐慌時には蔵相を務めていました。彼はモルガン財閥とのコネクションを持ち、日本の金融政策をリードしてきた訳ですが、これについては、後日改めて詳細を整理してみたいと思います。