日本の金融史(5)大正バブル

今回は、大正時代(1912-1926)の金融史です。まずは、大正バブルがはじけるまでのお話です。

第一次大戦の戦争景気(1914〜1918)

 第一次大戦前の日本経済は対外債務の累積により、財政破綻への道をまっしぐらに進んでいました。そもそもの問題の始まりは、高橋是清日露戦争のときに募集した約10億円の外債です。この巨額な対外債務を負った後も、日本は借金に次ぐ借金を重ね、やがて金利の支払いまでも借金に頼らなければならない泥沼に陥ります。

 しかし、第一次大戦により、局外にいた日本は経済的な利益を享受し、28億円という外貨を獲得することで、間一髪、財政破綻を回避することに成功しました。また、総力戦を行った国による軍需需要に加えて、各国が輸出ができなくなった商品の代替需要の増加により輸出が大幅に伸び、これに加えて、戦争のさかなに日本船舶が重宝されたため、貿易外収支の黒字も増えました。井上準之助は、『戦後に於けるわが国の経済及び金融』の中で次のように述べています。

「貿易で14億円、貿易外で14億円、合計28億円という金が、大正四年(1915年)から大正七年(1918年)までの間に入った。この28億円という金が、すなわちその後の経済界をつくった唯一の原動力であります。したがって、その後の財界の状況は、みなこの28億円という外国貿易及び貿易外の受取勘定から生まれているのであります。煎じ詰めるところ、この28億円という金が日本の受取勘定にまわったということが、すべての経済界の力であります」

大正バブル(1919〜1920)
 第一次大戦の戦争景気により、高インフレが訪れます。日銀の物価指数でみると、戦前の大正三年(1914年)7月を100とした指数は、戦争の終わる大正七年(1918年)10月には285にまで上がりました。戦時中は戦争終了時に戦争景気も終了するとの警戒感がありましたが、戦争が終わっても好況が続いたため、戦後になると景気や株価が過熱気味になりました。

 景気の過熱は、貿易収支の悪化という副作用をもたらします。井上準之助は、同著の中で次のように述べています。

大正九年の一月になりましても、世は非常に盛んな時代でありました。しかしながらそのときに一番著しい現象は、日本経済の好景気のために輸入の注文が非常な巨額にあったのであります。ちょうど、大正八年の八月ごろからこの注文が月々にずんずん増えていくのでありまして、したがって輸入もまだあまり減りませんけれども、結局大いなる輸入超過をきたすことは分かっておったのであります」

 大正バブルは、大正九年1920年)三月十五日の株価暴落により崩壊しました。井上準之助は、同著の中で、当時の状況を次のように述べています。

大正九年三月十五日にいたって、株式取引所の株が非常な暴落をきたしたのであります。(略)大正七年の休戦のときの反動もその範囲は広かったのでありますが、それでも大正八年後の空景気を受けたあとの大正九年の状態とは非常に違っておりました。大正九年のときは、日本全国一時暗黒になったのであります。それでどうであったかというと、すべての取引所というものはみな停止しました。株式取引所を初め、売買する市場というものは、すべて閉鎖してしまいました。それから綿糸とか、生糸とか、地方の機業とかいうものは、みな仕事をやめて閉鎖して、数十日の間は何もせず、ただ呆然として天も仰がなかったかもしれませんが、下をうつむいて情けない顔をしておったわけであります」

高インフレと大正バブル崩壊の背景(ストップ・アンド・ゴー)
第一次大戦の勃発により主要各国で金本位制が停止されたため、日本は、従来金を媒体に設定してきた公定為替レートを直接米ドルとの為替レートを設定するようになります(変動為替相場制を採用しなかった)。

戦時中は、米ドルとの為替レートを維持しながら、外貨を稼いできた民間の円需要に応じるため、日本政府は円の供給を増加します。この貨幣供給量の増大が高インフレを引き起こす大きな要因となりました。

しかし、1919年あたりから今度は輸入超過による民間の米ドル需要が高まったため、米ドルとの為替レートを維持するため、日本政府が在外正貨(米国の市場で運用されている政府資産)を回し、市場から円を吸収するようになります。この結果、国内の貨幣供給量が縮小し、信用収縮がおこり、バブル崩壊へと繋がったのでした。

このように、日本は、経済成長が輸入超過を生み、それが外貨準備と貨幣供給量の収縮を招いて、経済成長を終わらせるというサイクル(ストップ・アンド・ゴー)に陥っていました。