日本の金融史(11)ドッジライン&吉田茂の家系

今回は、ドッジラインまでの戦後の日本について簡単に整理してみました。最後におまけで吉田茂の家系についてちょっと書いています。

戦後インフレ
戦後の日本は激しいインフレに襲われました。1935年の卸売物価水準を基準とすると、終戦時には3.5倍、24年には208倍を記録したそうです。対ドルの為替レートの推移を見ると、こんな感じになります。
  1871年明治4年)  1ドル=1円 (新貨条例創設時)
  1897年(明治30年) 1ドル=2円 (金本位制採用時)
  1930年(昭和5年) 1ドル=2円 (金本位制復活:旧平価)
  1932年(昭和7年) 1ドル=5円程度 (高橋財政下における変動為替制)
  1941年(昭和16年) 1ドル=4.25円 (太平洋戦争開戦時)
  1945年(昭和20年) 1ドル=15円 (GHQ占領政策下の当初交換レート)
  1949年(昭和24年) 1ドル=360円 (ドッジライン)
戦時中に円の価値は、3分の1から4分の1に低下し、さらに戦後の数年間で20分の1以上に価値が減少したことになります(ちなみに、第一次大戦後のドイツに訪れたハイパーインフレは、1年間で対ドルレートで7ケタ以上も下落するインフレでした)。
これに対して政府は、1946年(昭和21年)2月、金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布して、5円以上の日本銀行券を強制的に金融機関に預けさせた上で預金封鎖を行い、生活費や事業費などに限って新たな銀行券による払い出しのみを認めるというインフレ抑制のための強硬手段に出ます。
それでも上記の為替レートの推移をみてもわかるように、インフレ抑制は一時的なものにとどまり、インフレは加速度的に進んでいきました。その最大の理由は、マネーサプライ増大の背景にある財政赤字の削減が、遅々として進まなかったからです。

財政・金融政策の三点セット
当時の日本がどのような財政・金融政策をとっていたかというと、?積極財政・金融政策により需要を刺激しつつ、?傾斜配分方式により資源制約を回避し、?国際収支の不均衡については複数為替レートにより対向する、という三点セットにより成り立っていました。
もう少し丁寧に説明すると、第一次吉田内閣の大蔵大臣である石橋湛山は、人手も設備も余っている日本には大胆に資金を投入して生産活動を活性化すべきだと考えていました。こうした考えに基づいて復興金融金庫が作られます。こうした膨張政策が先に述べたインフレの要因となっています。
とは言うものの、いくら資金を注ぎ込んでも、生産活動に必要な原材料がなければ生産できず、日本は常に資源制約の壁に悩まされます。そこで、石炭と鉄鋼という重要物資の生産に重点を置いた「傾斜生産方式」という産業政策が実施されます。この資金の流れをコントロールしたのが復興金融金庫です。
さらに、資源制約とは別に、日本にはもう一つの制約がありました。それは国際収支の制約です。輸出産業が活性化し、国内が潤ってくると、次第に輸入が増えてきます。輸入が増えるということは円を外貨(ドル)に両替する需要が増える訳で、これは円安ドル高をもたらします。その結果、固定為替相場制度を採用している日本政府は、為替レートを維持するために市場から円を吸収する必要がでてきます。そして、国内の貨幣供給量が縮小し、信用収縮がおこり、バブル崩壊へというシナリオに繋がる訳です。大正バブルの崩壊はこうしたメカニズムで発生しました。これに対して、吉田政権は、輸出を推進しつつ、輸入を抑制するような為替レートを採用します。輸出商品と輸入商品とで別々の為替レートを設定したわけです。実質上の政府による輸出補助金であり、差額を補助するために、復金の支援という形、つまり紙幣の増額という形で輸出産業をバックアップしていたのです。

ドッジライン
こうした財政・金融政策を採用している日本に、1949年2月、日本の経済運営を監督するためにデトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジが来日し、3月7日に新方針(ドッジライン)を宣言します。先に述べた三点セットの全面否定です。三点セットのそれぞれに対応して説明すると、?緊縮財政・金融政策を採用し、?復興金融公庫を通じたばら撒きを止め、?単一為替レートを採用せよ、という方針です。これにより、緊縮財政・金融政策が採用され、デフレ不況に陥りかけますが、朝鮮特需によりこのデフレ状態は長く続かずに済みました。
1ドル=360円はこの時に決められたわけですが、これはその前年の1948年に来日したヤング調整団の勧告が基礎になっています。ヤング博士は、当時の日本の輸出、輸入産業を詳細に分析し、日本の輸出数量の約8割が維持される程度の相場として1ドル=300円という数字をはじいていました。これに当時の極東情勢を鑑みた米国の手心が加わって、1ドル=360円に着地したと思われます(一説には、円=Circle=360°みたいな話もありますが、いくらなんでもねぇ)。

吉田茂吉田健三・渡辺謙
さて、話は代わりますが、この時期に総理を務めていたのは吉田茂でした(間に片山内閣、芦田内閣を挟みますが)。この吉田茂は幼少の頃に養子に出され、吉田健三の養子となります。吉田茂はロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったそうですが、この養父も欧米エスタブリッシュメントと深い関係を持っていました。
吉田健三は、1864年、16歳の時、家を出て大阪で医学、長崎で英学を学んだのち、1866年英国軍艦に便乗して欧州に遊学した後、明治元年に帰国します。「英一番館」ことジャーディン・マセソン商会に入り、番頭をふりだしに、のち独立し、さまざまな事業を手がけ、横浜で1、2を争う富豪となりました。このジャーディン・マセソン商会こそ明治維新のスポンサーだった訳で、幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーは、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店を設立し、各種工作活動を行っていました。
吉田健三の父である渡辺謙七もちょっと気になって調べて見たところ、この人もどうやらジャーディン・マセソン商会で番頭をやっていたようです。渡辺謙七は、もともと福井藩士だったのですが、福井藩を脱藩して横浜へきて、ジャーディン・マセソン商会に入社し、その後、回船問屋になったそうです。ちょっと古い新聞記事なのですが、面白い内容なので引用します。新聞記者が白幡という住職にインタビューをしたものです

浄土宗新聞(1978年10月10日2面)
http://press.jodo.or.jp/newspaper/1973/197310_79_2-3.pdf

― 横浜の仏教、久保山から初めてこちらへ伺ったんですが、光明寺さんに限らずこの久保山は大きなお寺がズラリ並んでいますね。
白幡 その昔横浜市吋には寺というものが全くなかったのです。この光明寺の縁起にしても鎌倉光 明寺の吉水法主が現在のダウンタウン初音町に小さな説教所を作った。その掘っ立て小屋を借りるのが一日三銭だっだそうですよ。
― 三銭ですか。
白幡 その後宮下俊達上人がきて亡くなった吉水上人のあとをついで説教や信者まわりをせっせと やったんです。そんな信者のなかで渡辺謙七という人がいましてね。この人は福井の藩士だったが 脱藩して横浜へきた。英国商館の番頭になった。さらにそのあとは回船問屋。この人の子供さんが吉円健三
― ああ前の吉日総理の親ごさんですね。
白幡 そうです。茂さんはここに養子にきたんです。そんなこんなしているうちに久保山に市民墓地ができることになった。では寺も建立しましょうと、この吉田健三さんと、彼と奥さんどうしが 姉妹の上郎幸八という貴族院議員の人がお金を出し合ってくれて、この光明寺ができあがりました
― 全く明治以後の近世になってからの創立なんですね。
白幡 そうなんですよ。だから光明寺山号も吉田の吉と上郎(こうろ)の上を取って吉上山。
― キッコウサンですか。
白幡 この庫裡も関東大震災でつぶれてしまったため、小田原にあったご用邸を払い下げて頂いたものです。
―ご用邸ですか。なるほど特別な言い方だと思いました。このノキ出しなんかねえ.それにしてもお寺と言えば、大半がその昔のお大各をスポンサーとしたものだが、横浜は全く事情が異なりますしね。
白幡 この久保山には各宗十四カ寺ありますが、みんな明治以後にできにものばかりです。
―当然横浜仏教界の中心ですね。
白幡 仏青運動も戦後の昭和十一年から活発にやっています。
―歴史的に考えでもこの土地は居留地なぞがあってキリスト教が明治とどもに乗りこんできた。下町はみんなキリスト教だったはずですよね。
白幡 そうなんです。外人墓地を中心にしてね。仏教はこの久保山から興こりました。そして結局は下町もすべて仏教徒になってしまったのです。こんな面白い話があるんです。昭和、二十四年のこと横浜における社会運動の物故者たちの慰霊祭を行ないだいと、荒畑寒村や藤森成吉らがこの光朋寺へ申し入れてきた。ただしお経は読んでくれなくていい。インターの歌で、というんです。それは困る、と寺では突き放しました。結局向こうさんが折れて、仏教儀式による追悼法要。それが三年に一度づつですが、現在まで続いていましてね。
― 久保山と言えばここの火葬場でしたかね、絞首刑になった戦犯の人々を焼いたところは。
白幡 そうなんです。うちの境内に大きな石碑が立っています。面白いのは碑の裏に璽かれだ順番ですがね。
− じかに拝見してきましょう(境内に出てみた。なるほど門のすぐ横に巨大な石碑があった。被処刑者名簿がずらり裏に彫りつけてある。トップは陸軍大尉由利敬。さがしてゆくと首相東条英機は二十六番目だった。陸軍准尉柴野定雄の次である。以下に土肥原賢二松井石根板垣征四郎広田弘毅らのお歴々である。権門高官の人々が庶民にまじって名をつらねる。極楽へいって初めて彼らも真の月宙を得た感じだ。もっともこの順番は火葬傷でダビに付された順であった)
白幡 こちらの慰霊法要は毎年やっております。 (以下、略)

渡辺謙七が福井藩を脱藩してジャーディン・マセソン商会に入社し、その息子の吉田健三もジャーディン・マセソン商会して財を築く。そして吉田健三が資金提供した光明寺が立つ久保山の火葬場で戦犯が火葬され、その息子の吉田茂が戦後日本を率いていく・・・、なんだかものすごい因果を感じてしまいます。