英蘭の金融史(2)国王の私債(Crown Debt)

これから数回に分けて、イギリスの国債誕生を巡る歴史をまとめてみたいと思います。以下、富田氏の「国債の歴史」によるところが大半ですが、話の流れを円滑にするため、いくつか話しを付け足していますので、富田氏の歴史観を知りたい方は、是非、原典にあたっていただければと思います。

イギリスの国債は、名誉革命(1688年)に始まると言われていますが、国王自身の借り入れは、既にノルマン朝時代(1066年〜)から行われてきました。そこで、まずは名誉革命以前の国王の私債(Crown Debt)について整理をしてみたいと思います。

まず、ノルマン朝最後の国王ヘンリー1世(位1100〜1135年)の時代に初めて国庫(Exchequer)が国王の財務をつかさどる正式機関として登場しました。この時代はまだまだ近代国家の先駆けみたいなものですから、国庫という概念自体が目新しかった訳です。そして、この国庫の出現とともに借り入れ方法も進化して、国王は融資を受けた際に受領書として債務割り符(Tallies of Loans)と呼ばれる木製の貸付証明(借金証文)を発行するようになりました。
続くプランタジネット朝の国王ヘンリー2世(位1154〜1189年)は、徴税請負人が担当地区の税収を国王に前払いし、国王は税収の前受けと引き換えに徴税請負人に割符(Tallies of pro)を発行するという仕組みを採用しました。これは、国庫の側から見ると租税の先取りであり、請負人から見ると短期貸し出しを行ってその元利金の回収を税の徴収で行う権利を得るという契約になります。
プランタジネット朝三代目の国王であるジョン王(位1199〜1216年)は、その失政により封建貴族の権利を確認したマグナカルタを国王に承認させ、国王による課税には議会の同意が必要とされますが、当時はいまだ歳出と借入れについての議会の関与は極めて限定されていました。その後、エドワード3世(位1327〜1377年)がフランスの王位継承を主張して、百年戦争(1338〜1453年)に突入する訳ですが、当時の海外商人からの借入れについて「国債の歴史」は次のような説明をしています。

国王は海外の商人からも借金をした。すでに12世紀にはユダヤ人から借金していたが、Veitchによると、イタリアの商人たちが登場したことによって、資金調達先としてユダヤ商人の重要性が低下したので、エドワード1世はユダヤ人からの借り入れを返済しなかった。その後13〜14世紀にはフィレンツェの商人たちから借り入れたが、エドワードの三代の国王は、商人たちの盛衰を見計らって選択的にデフォルトし、商人たちを順次国外に追放した。

エドワード1世から3世までの治世は1272〜1377年ですから、ちょうど西欧・中欧の各地で商業が復興していた時期にあたります。金融資本家達も次なる商業の中心地へと移動を繰り返していた時期でしょうから、「選択的にデフォルト」された商人たちは、出遅れた間抜けな商人ということになるのでしょうか。

さて、百年戦争終結し、その後、ばら戦争という後継を巡る内乱を越えて、テューダー朝が成立します。テューダー朝の二代目国王ヘンリー8世(位1509〜1547年)は、1534年に首長令を発布し、自らをイギリス国教会の長とするとともに、ローマ・カトリック教会から離脱しました。これにより、これまで宗教上の理由から禁止されてきた借金に対する利子を解禁し、1545年に年10%という最高金利を定め、対フランス、対スコットランド戦費をロンドン市庁のアレンジでシティの富裕市民から借り入れました(ここでロンドン市庁が資金調達のアレンジャーになっていますが、エドワード1世の時代からロンドン市庁は国王と富裕市民の間にたって貸上事務を担当していたと「国債の歴史」には記されています。絶対王政時代前後のロンドン市庁の位置づけをいつか調べてみたいと思います)。
 テューダー朝最後の女王エリザベスは、対スペイン戦争の戦費をファイナンスするため、独占販売権の売却や関税を担保とした玉爾証書の発行に加え、海外からも借り入れを行いました。「国債の歴史」によると、当初はアントワープから年利10〜12%で借り入れていましたが、スペインとの関係が悪化した1564年以降は年利16%という高い金利を要求されたため、ハンブルグ、ケルン等の商人からも借りようとしたそうです。ただ、1588年にスペインの無敵艦隊を破った後、王領地の四分の一を75万ポンドで売却していたため、エリザベス1世の借金は小額に留まりました。国王は、身銭を投げ捨てて、戦争も行い、威信も保たねばならなかったのです(そして、その限界を迎えたときが、金融資本家の手に落ちてしまうときだったのです)。

名誉革命まで後一息です。エリザベス女王には子供がいなかったので、スコットランド王家のジェームズ6世がイングランドジェームズ1世(位1603〜1625年)として即位し、スチュアート朝が始まります。彼もなかなか気の毒で、即位した1603年時点で既に王領地からの収入は歳出全体の約半分を賄うに過ぎなくなっていました。また、王権神授説というブームにのって調子に乗ってしまい、王室の歳出を抑制することなく、議会の承認を得ずに強制的に借り入れを行った結果、議会による税の上納抵抗にあってしまい、国王私債のデフォルトが続出します。結局、資金繰りのため王領地の売却を繰り返し、1617年時点では王領力の収入は歳出の16%を占める程度まで縮小してしまいました(遠くからウィリアム3世を担いだ国際金融資本家の足音が聞こえてくるようです)。
ジェームズ1世に続くのは、清教徒革命によって処刑されてしまうチャールズ1世(位1625〜1649年)の治世に入ります。ジェームズ1世やチャールズ1世は、王領地の売却や強制借入れのほかに、官職の売却や独占権の売却により資金調達を行っていました。「国債の歴史」から官職の売却に関する記述を引用します。

官職や保護された特権の売却は、税収よりも確実な歳入確保の方法でもあった。貿易取引が2〜3の港で集中して行われたので徴税が容易であった関税を除いて、他の税の徴税は効率的には行えなかったと類推されるからである。
売官制度といわれる官職の売却は、フランソワ1世のフランスや、フェリーペ2世のスペインが積極的に用いた資金調達の方法であった。官職にはそれぞれの称号に応じた報酬が付与されており、毎年の報酬を利子と見ると、官職の売却は借金の変形といえる。官職の購入によって国王に融資し、国王は債務を報酬という形で返済してゆくのである。
Brewerによれば、この二代の国王は1603年から29年の間に商号の売却で少なくとも62万ポンドを調達したと述べている。しかし、売官は、官職の希釈化を意味する。準男爵baronet)の称号はジェームズ1世によって当初1,095ポンドで売り出されたが、次第に売却数が増大し、1622年には売却価格は220ポンドに下落した。そればかりか、官職の売却によって増大した貴族が上院議員として国王に新たな要求を始めた。

上記の「二代の国王」とは、ジェームズ1世とチャールズ1世のことです。売官制度で資金調達した62万ポンドは、当時の歳出の1.3倍にあたります。ほとんど叩き売り状態だったようです。イギリスで爵位を持っている古い貴族は、こうして爵位を購入したのかもしれません。歴代のイングランド国王を見ていて思うのは、何も「国王」なんかにならずに、金融資本家と同じように裏でおいしいところだけを持っていけば良かったのに、と思ってしまいます。自らの領地を切り売りして、気が付くと借金漬けにされ、国民に恨まれ、挙句の果てに処刑されてしまう国王までいて・・・。あえて表に出ないことが一番なのでしょう。

そろそろ、終わりにしたいと思います。クロムウェルの共和制が終わり、王政復古により、チャールズ2世(位1660〜1685年)、ジェームズ2世(位1685〜1688年)が続きます。チャーズル2世は、先に述べた前納割り符を用いて徴税請負人から税金を前借しました。さらに債務割り符を発行して、ゴールドスミス・バンカーからも借り入れをしました(当時、金匠(ゴールドスミス)は、財産の安全な預託先として市民の信頼を得て、清教徒革命後に銀行としての機能を発展させていました)。さらに、これに加えて、対オランダ戦争が勃発して以降、返済指定図書、信用指図書という二つの資金調達手段を新たに導入しました。1665年に発行された返済指図書は、裏書によって譲渡が可能であり、登録の順に従って返済されました。金利がついた返済指図書が法定されたことによって、イギリスで最初の譲渡可能な利付き短期証券が誕生したとみることができます。また、海軍省の部局などが物資の購入に際して、現金の代わりに支払指図書を発行しました。これをShawはイギリスで最初の政府紙幣(paper money)と呼び、Richardsは信用指図書(fiduciary orders)と名づけています。

やっと名誉革命前夜まで辿り着きました。この後、1688年11月5日にオレンジ公ウィリアムが、453隻に分乗した2.1万人の軍隊とともにイギリス南西部のデヴォン海岸に上陸します。国際金融資本家の国家のっとりの開始です。今日のところはここまでにしたいと思います。