英蘭の金融史(1)アムステルダム銀行

今回は、イングランド銀行のモデルとなったアムステルダム銀行を生んだネーデルラントを含む中世都市国家の公債について整理してみたいと思います。

十字軍以降、中世ヨーロッパは、イタリア都市国家を中心とする地中海貿易と、北部都市国家を中心とする北海貿易を中心に、商業活動が活性化しました。まずは、ジェノバヴェネチアを中心に中世イタリア都市国家の公債を見た後、北部ヨーロッパ都市国家の公債を紹介したいと思います。下記の大部分は、富田氏の『国債の歴史』に拠ります。

中世イタリア都市国家国債
ヨーロッパの国王たちは13世紀半ばまでに借入れを始めていましたが、それ以前からイタリアの都市国家は、「国債」の近代的な発行と流通の仕組みを作っていました。

ジェノバ
ジェノバ共和国では、戦争などによる一時的な支出増加をまかなうために、議会は借金の元利支払のための税収を、投資家の組成するシンジケート(compera)に預けていました。すでに1164年には、11人の投資家によって期間を11年に設定したシンジケートが組織されていたそうです。 1432年には12隻のガレー船を建造する費用を調達するために、議会は海事保険契約を対象とする課税権をシンジケートの担保に入れ、シンジケートは年 7%配当の出資証券を発行して資金を調達しました。
こうしたシンジケートを通じる資金調達は、既にイギリス国債史などでも紹介したように、中世に一般的に見られた徴税請負制度の一つの形態でしたが、ジェノバでは徴税請負権を出資証券として発行し、それで集めた資金を共同体が借り入れたことに特徴があります。
 この資金調達の方法は、21世紀の現在でも活用されている証券化の手法と同様の構造と見ることができます。資金調達を行うジェノバオリジネーター)が徴税権をシンジケート(SPC)に売却し、シンジケートはそれを担保に証券(ABS)を発行し、サービサーとして徴税と元利払を行っていたと見ることができる訳です。今になって日本で証券化スキームを使った金融サービスが流行っておりますが、国際金融資本グループは既に500年以上前からこのスキームを利用していたんですね。

ヴェネチア
1262年にヴェネチア議会は、既存の債務を一つの基金に整理し、債務の支払のために特定の物品税を担保に入れ、年5%の金利を支払うことを宣言しました(ラニエリ・ゼン(位1253〜1268年)がドージェ(元首)だった時代です。この後、ティエポロ家のロレンツォ・ティエポロ(位1268〜1275 年)がドージェに就任します)。投資家は従来の貸出債権の変わりに、年利5%で三月と九月に利払いが行われる基金(Monte)への出資証券を保有することとなった。
この方法は、フィレンツェでは1343年から、ジェノバでは1407年から採用され始めました。ジェノバでは、先に述べたシンジケートが資金調達のたびに設立されてきましたが、これらへの出資金は1453年までに一つの基金(Monti)に統合され、出資証券の売買は登記簿の所有名義を書き換えることで完了できるようになりました。これは、振り替え決済の仕組み(ブックエントリー・システム)と見ることができます。

こうしてイタリアの都市国家では、それぞれの都市の基金が債務支払いの担保にあてられた税を管理しました。そして、基金への出資証券の売買は、各都市の広場(piazza)でブローカーを介して活発に行われたそうです。

続いて、北部ヨーロッパの領邦・都市国家の公債に移ろうと思うのですが、その前に一つだけ。ヴェネチアでは、リアルト銀行という世界初の為替銀行が設立されていました。1344年に破綻してしまうのですが、このリアルト銀行を模倣して1609年にアムステルダムに作られた銀行が、この後で触れるアムステルダム銀行になります。13世紀のヴェネチアは、ダンドロ家やティエポロ家、モロシーニ家といった名門からドージェや議員が多く選ばれていましたが、 1300年前後のグラデニーゴの改革とそれに反発したクーデターの失敗によりティエポロ家はヴェネツィアから追放されてしまいます。こうした政権闘争に敗れて各地に散っていった貴族達が彼らの持つ金融知識を広めていったのでしょうか。想像が膨らみます。

北部ヨーロッパの領邦・諸都市の年金型債券
北部ヨーロッパの領邦・諸都市での資金調達は、ジェノバヴェネチアのシンジケートや基金への出資とは異なる方法で行われてきました。11世紀末からの十字軍遠征の際には、国王や貴族たちは土地を抵当に入れて遠征費用を調達しました。債権者にとって、土地担保融資は無担保融資よりは安全とみなされたが、債務返済が滞り債権者が抵当権を得ようとすると紛争が生じやすかったため、資金の賃借は、次にのべるように年金の売買という形をとるようになりました。
土地は、現金で売却される代わりに、その土地が生み出す収益を受け取り権利と交換され、また、借金の元利払のために、債権者に毎年一定額の支払を約束した年金を引き渡しました。この二つの取引を同時に行うと、先に述べた土地担保の借入れは、土地他生み出す収益を年金として債権者に引き渡すこと、つまり年金型債権(rentes)の発行という形をとって行われることになります。
こうして、ヨーロッパ北部の多くの領邦では、戦争に備えて要塞を作るために、あるいは皇帝、国王に上納するために、関税や物品税を担保に入れて年金型債券を発行していました。ドゥエー(Douai)やカレー(Calais)が1260年に最初の年金型債券を発行したことが知られており、この方法は、直ちにネーデルラントやラインラントの諸都市で採用されました。
15世紀のネーデルラントの諸都市では、これら公債の売買が簡単に行えるように、公債を管理するための銀行を設立しました。こうしてデフォルトリスクが低く、流動性にも飛んでいた年金型公債は、裕福な市民層の人気を集め、16世紀になるとアムステルダムでは一人当たりの年金型公債からの年間受取額に上限が設けられたほどだったそうです。

ネーデルラントの伸張
16世紀、神聖ローマ皇帝がカール5世だった時代にネーデルラントはその勢力を伸張しました。カール5世に代わりネーデルラントが債券発行を代替し、その代わりに課税権や歳出権限を獲得していきました。その過程を少し丁寧に追いかけてみます。
度重なる戦争を遂行し、戦費調達の必要性に迫られたカール5世は領邦であったネーデルラントの信用力を利用しようとしました。その方法は、債券発行を代行させることに始まりましたが、債券の信用力をいっそう高めるために、債務の元利償還のために帝国の税を領邦の議会に委譲し、さらには議会に新税の課税権と歳出権限を与えることになりました。
国王の債券発行を領邦に代行させる方法とは、皇帝が領邦の名前で債券を発行させ、調達させた資金を受け取り、領邦の議会は債務を返済するために皇帝が課し徴収した税を受け取り、それを債権者に年金として支払うというものでした。
1522年にカール5世の摂政は、ネーデルラント連邦の属州の議会に徴税権を委譲し、皇帝の保障によってではなく、委譲された税を担保に議会が債券を発行するように説得しました。 1542年に、ハプスブルク皇帝は長期の資金調達を行うために、ネーデルラントの議会にさらに譲歩します。これまでは債務の元利返済のためにだけ、皇帝の役人が管理していた税をネーデルラント連邦の属州の議会に委譲していましたが、議会に新税の導入も含めた徴税権とともに、歳出についての完全な裁量権も委譲しました。
これによって歳出入全般にわたる決定権の委譲を受けた議会は、債務返済のために恒久税を担保に充当することによって、デフォルトリスクを軽減し、より低い金利で資金が調達できるようになります。こうして、イギリスの国債誕生に直接の影響を与えたホラントの公債制度は、ハプスブルク王朝の支配下にあったスペイン領ネーデルラント連邦の属州であった時代に発展を遂げていきました。

アムステルダム銀行
16世紀の商業・金融の中心地であったアントワープとリヨンが1585年にスペイン軍に攻め落とされたため、その弾圧を逃れた商人たちとともに、為替の振出しや引受けなどの商慣行はホラントのアムステルダムに引き継がれ、ヴェネチアのリアルト銀行に倣った為替銀行が1609年に市の条例で設立されました。これがアムステルダム銀行(Wisselbank)です。
アムステルダム銀行(Wisselbank)は市内でただ一つの両替商として、貨幣制度の混乱を防ぐために、流通している悪化や外国通貨を標準的な計算単位であるグルデン(Gulden)に換算して預金として受け入れ、また払い戻しを行いました。こうして外国為替の決済に必要な安定した価値表示の機能を供給することによって、アムステルダムは仲介商業都市としての機能を高めていったのです。
この銀行は私人への当座貸越を禁止され、市やホラント州の財政も健全に運営されていたので、これらへの融資も小額でした。このため、預金に対して90%を越える現金と貴金属の支払準備を有していました。こうした高い信用を背景に、アムステルダムは国際的な金取引で支配的な地位を確立し、外国為替の割引が活発に行われ、ヨーロッパの多角的決済の中心地となった訳です。
アムステルダム取引所では、17世紀初めには1602年に設立された東インド会社の株式が主に取引されていましたが、18世紀までに貿易手形や債券が取引されるようになり、先物取引信用取引空売りなどさまざまな取引手法が開発されました。
これらの貿易、決済、証券業務にかかわる商人たちには大きな利益がもたらされ、資金の蓄積が進みます。そして、ネーデルラント連邦共和国内での低金利の進展とともに、18世紀のアムステルダム取引所では外国の債券が活発に取引されるようになりました。これらの中には、対外援助の一つの形態として連邦政府が保証した債権もありました(これについては後述します)。オランダの東・西インド会社の株式と社債や、連邦政府債、各州の公債に加えて、1719年にはイギリスをはじめ諸外国の債券と株式が上場され、1723年からは取引所月報にこれらの価格が掲載されていたそうです。上場銘柄数は、1747年には国内の株式と債券で28銘柄、外債16銘柄でだったのに対して、83年には国内物80銘柄に対し、外債は100銘柄に及んだとのことです。
イングランド銀行のモデルとしてアムステルダム銀行が挙げられることがありますが、アムステルダム銀行が果たした機能を見ると、特権会社として設立された初期のイングランド銀行とは随分と性格を異にするように思えます。イングランド銀行の公器としての側面を強調するために、為替銀行として機能を果たしたアムステルダム銀行を敢えてそのモデルとして取り上げてきたのかもしれません。

国家に対する信用供与
上記でも触れましたが、ネーデルラント連邦政府は、対外援助の一つとして外国の債券を保証することがありました。歴史的にみると、アムステルダムでの外国政府への資金供給は、まず兵器商人による代金の立替えに始まり、商品の輸入業者による取扱商品を担保とした債券の引受、そして税を担保とする国債の引受けに至りました。最後に、これを簡単に俯瞰して、終わりたいと思います。
まず、1618年に始まる三十年戦争では、対立するスウェーデンデンマークの双方がアムステルダムに艦船、兵器などの供給を仰いだので、オランダの兵器商人たちは関税収入、銅、王領地などを担保に代金を立替えて掛売りをしました。
続いて、1695年にオーストラリアによって最初の外債がアムステルダムで起債されます。この外債の引受業者は、オーストリアの専売品であったイドリア産水銀の総販売代理人で、彼のもとに前渡し金として水銀1,032樽が届けられ、以後、元利償還金として毎年800樽が送られることとされました。
こうして水銀や銅を担保とする公債が定着してくると、オーストリアはシレジアやベーメンの税収を担保にした公債の発行を行うようになります。オランダ連邦議会や州議会は、対外援助の一環として、これら外債に対する保証を付けるようになりました。