英蘭の金融史(3)イングランド銀行

続いて、名誉革命からイングランド銀行設立までについて取りまとめたいと思います。今回、国債について取りまとめようと思ったきっかけは、中央銀行の成り立ちをその裏側から眺めてみたいと思ったからであり、他の中央銀行のモデルケースであるイングランド銀行国債の関係に興味をもったためでした。以下、名誉革命の概要とそれに続くイングランド銀行の創設について取りまとめてみたいと思います。

名誉革命は、ジェームズ2世に世継ぎが生まれたことにより新教徒抑圧の可能性が高まったため、ホイッグとトーリーの両党が協力して、オラニエ公ウィレム3世をイングランドに招き、ジェームズ2世を退位させた革命と説明されます。既出の『国債の歴史』でも次のような説明がなされています。

1688年6月にジェームズ2世に男児が誕生したことで、事態は急変した。スチュアート体制が継続し、カトリックのフランスとの同盟が形成され、新教徒が抑圧されるかもしれないことを議会は恐れた。そして、トーリー、ホイッグ両党を代表する七人の貴族が、ホラントの総督でメアリーの夫君であるオレンジ公ウィリアムをイギリスに招請した。

ここで言っている「七人の貴族」とは誰を指しているのでしょうか。常備軍の司令官でありながら、早々に抵抗を放棄し、戦わずしてオランダ軍に投降したマールバラ公爵ジョン・チャーチルは、間違いなくその一人なんでしょう。私はまだ読んでいないのですが、ユースタス・マリンズ著作の『世界権力の構造の秘密』がこのあたりを詳しく書いているようです*1
イギリスに招請されたオレンジ公ウィリアム3世は、ネーデルラント独立戦争(1588〜1609年)の指導者ウィリアムのひ孫にあたり、ユトレヒト同盟の中心となったホラント州の総督でした。曽祖父にあたるウィレムは、指導者といっても名目的なもので、実際は金融資本家や有力商工業者に担がれた名門一家という位置づけだったと考えています。従って、名誉革命時も曽祖父と同様に、ウィリアム3世は、ネーデルラントアムステルダム)の金融資本家に担がれてイングランド入りしたのだと思われます。実際に、ウィリアム3世は、議会が要求することをそのまま容認し、教科書で誰しもが習う「権利の章典」が1689年に発布されます。彼の立場からすれば、もともと何の権利も持っていなかった外国(イングランド)でいくら権利を制限されても痛くも痒くもなく、天敵であるフランス王ルイ十四世との戦いで利用できるものはできるだけ利用しようという腹積もりだったのでしょう。実際に、ウィリアム3世は、ホラントの総督でもあったので国内問題には大きな関心を払わず、1694年に議会の多数派のリーダーを大臣に任命し、次第に大臣職が強化されていきます。
さて、ウィリアム3世は着任早々、フランスと九年戦争(1688〜1697年)を開始します。この戦争は、戦費の大部分が税収と短期借入金でまかなわれました。短期借入金は、議会が承認した新税からの先借りであり、それには四年から七年という課税期限が設定されており、しかも、この先借りによる税収は、限られた期間内に借入金の元利を支払うのに不十分なことがしばしばでした。ウィリアム3世は、シティのゴールドスミス・バンカーや商人から、時として30%もの高い金利で短期借入れを行って資金繰りを行っていました。ウィリアム3世自身は、どんなに国庫が痛んだとしても、もともと他人の国だった訳ですから特に困ったりはしなかったと思いますが、より恒久的に戦費を調達できる方法がこの時期に生み出されました。それがイングランド銀行です。『国債の歴史』からイングランド銀行に関する記述を引用します。

1694年には、九年戦争の財源調達法(トン税法)が成立し、150万ポンドを政府に融資する者に、一定額の利子と手数料の支払をトン税と新規の物品税によって保証した。イングランド銀行の創設は、この法律の第19条に盛り込まれた。国庫は同行から120万ポンドを借り入れ、残りの30万ポンドを終身年金で調達した。Hicksが、「この銀行の当初の目的はシティの貯蓄にルイ14世に対する戦費調達のための水路を穿つことにあった」と指摘しているのは、このためであろう。
イングランド銀行は、120万ポンドの資本金を公募し、同額を政府に長期融資した。政府は同行に対して毎年8%の金利を4,000ポンドの管理手数料を支払い、同行に資本金と同額まで署名(捺印)手形(Sealed Bill)を発行する特権を向こう12年間付与することとした。イングランド銀行が捺印した手形は裏書譲渡され、日歩2ペンス(年利3%)の持参人払いの約束手形、すなわち銀行券として機能した。政府はこの銀行券で120万ポンドの融資を受けた。
この法律は、1705年以降は1年の予告で政府が借入金の元本を返済すれば、これらの特権が消滅すると定めており、イングランド銀行は特権を守るために、政府による低利借換えの要請に応じていった。なお、捺印手形は、Richardsによると、1716年にイングランド銀行金利の付かない銀行券を発行するまで流通した。
また、この法律には、担保とされた税収が8%の利払いに不足する場合には、国庫は議会の承認を得ることなく、他の財源で不足を補填しなければならないと定められていた。これは税収の落ち込みから債権者を守り、国債の信任を確立するための重要な規定であった。この規定は、税収が直接イングランド銀行に繰り入れられ、同行が税収を優先的に国債の元利金の支払にあてるという方向に発展していった。さらに、Stasavageは、この仕組みが減債基金の創設につながったと指摘している。

スコットランド出身の海賊だったウィリアム・パターソン*2によって提案されたイングランド銀行のスキームは最終的に、「トン税法」という法律の中に条文を紛れ込ませて創設されました。120万ポンドの出資者達は、8%の金利と4,000ポンドの管理手数料を受け取った上に、120万ポンドの銀行券を発行する特権を得た訳です。
さらに重要なことは、これまで王政に対する議会による財政コントロールを追及してきた英国の歴史がここで大転換するということです。議会のコントロールが及ばない民間企業に過ぎないイングランド銀行が仲介することにより、「議会の承認を得ることなく、利払い不足分を他の財源で補填する」という規定がなぜか許容されてしまいました。富田氏は、「税収の落ち込みから債権者を守り、国債の信任を確立するための重要な規定であった」と評していますが、それを民間の特権企業を媒介する必然性があったか否かについては大いに疑念が残るところでもあります。

こうしたイングランド銀行のモデルを後追いで模倣し、イングランド銀行の独走を防ごうとする動きが当時の英国にもありました。一つは、トーリー党が主導した土地銀行、もう一つはモンタギュー蔵相が開始した国庫証券です。結論から言うと、どちらもその試みは失敗し、結局はイングランド銀行に全てを持っていかれることになります。
土地銀行の説明に移る前に、少しだけトーリーとホイッグについて補足します。トーリーは、王権を擁護し国教会を支持する地方の地主層で形成され、ヨーロッパ大陸への関与に否定的でした。これに対して、ホイッグはカトリックでない限りは宗教には肝要な非国教徒や都市の商工業者に支持され、王権の制限を主張していました。そして、ホイッグはルイ十四世が大陸で勢力を拡張するとイギリスの貿易が脅かされるので、ヨーロッパ大陸への関与に積極的でした。これらを反映して、財政面では、トーリーは土地税の引き上げにつながる戦費拡大に反対の立場をとります。一方、ホイッグは構成員の多くが土地所有者で、金融関係者が少数派であったにもかかわらず、貿易業者とロンドン・シティの利害を代弁し、土地税による国債の利払いを支持していました。
こうした背景を念頭に、『国債の歴史』から土地銀行に関する記述を引用し、いくつかコメントを加えてみたいと思います。

1696年、対フランス戦争の戦費調達のために、議会で塩税の増税が議論された。ホイッグ党がトン税によってイングランド銀行を創設したことに倣って、トーリー党は塩税法の中に国立土地銀行の創設を盛り込んだ。こうした議会の動きを当時のホイッグ政権のモンタギュー蔵相が押さえることができなかったのは、ホイッグ党内にもカントリー・ジェントルマンが存在し、新銀行による土地担保融資に期待を持っていたからであろう。
土地銀行は、資本金を公募し、政府に無期限で256万ポンドを融資し、永久税として設立される塩税から年利7%の利子を政府から受け取り、地主に土地担保融資を行い、銀行券が発行できるという内容であった。
この法律は1696年4月末に成立し、土地銀行の株式募集が行われた。しかし、応募はわずか1,775ポンドときわめて低調で、土地銀行は創設に至らなかった。イングランド銀行への応募がわるか12日間で完了したことと著しい対照を成している。この原因について、Richardsは、イングランド銀行と取引のある商人たちは出資への応募が禁じられており、トーリーの地主たちは土地銀行からの低利融資を求めており、出資する余裕を持ち合わせていなかったからであると指摘している。

以上のようにトーリーの目論見はもろく失敗に終わってしまいます。土地銀行を企画したブリスコウは、なんとか発券銀行国立銀行としたかったのでしょう。彼が土地銀行について初めて触れた著作(1696年)の表題は『・・・・・・国立の一土地銀行により陛下に有利な条件で貨幣を提供し貴族・地主階級の税を免除し、その資産を増加し、王国の全臣民を富ましめるための提案』という結びでした*3

続いて、国庫証券に関する『国債の歴史』における記述を引用します。

ホイッグ政権のモンタギュー蔵相は、土地銀行が不成立になった場合に備え、150万ポンドの国庫証券(Exchequer Bill)の発行と106万ポンドの年利7%の割り符の発行に関する条項を塩税法に挿入した。この国庫証券のアイデアについて、Richardsは、イングランド銀行の捺印手形の成功を参考にしたものと指摘している。 (中略)
1696年7月にモンタギューは、第一回の国庫証券の発行に踏み切った。年利を4.6%とし、塩税を担保とする年利7%の長期国債と交換することができるという条件で、150万ポンドを募集した。しかし、応募額はそのわずか1割程度にしか過ぎなかった。この国庫証券のほかに巨額の割り符が7%で発行されており、国庫証券の金利が5%を下回っていたことが原因であった。
翌1697年、土地税への追加税を担保とする国庫証券が270万ポンド発行された。発行に際して、国庫証券を納税に用いることができることとし、金利を年利7.6%に引き上げ、最小の発行券面も10ポンドから5ポンドに引き下げた。ただし、第1回の発行では国庫が要求払いに応じることになっていたが、戦費の調達で国庫が著しく逼迫していたので、国庫証券の換金要求に応じきれない状態にあった。そこで、政府は国庫証券を換金し流通させる役割を、年10%という極めて高い手数料を支払って、流通受託者に委ねようとした。しかし、これによって国庫証券の流通が活発に行われたわけではなく、納税に利用された記録が残っているに過ぎない。関口は、第二回国庫証券の発行額は予定をほぼ満たしたが、徴税請負人がこれを低い価格で購入し額面で国庫に納入したと伝えている。こうした理由から、次の国庫証券の発行は、スペイン継承戦争(1702〜1713年)で戦費が拡大し始めるまで行われなかった。

納税に用いることができるとされた第二回の国庫証券なんかは、現代で考えると現金等価とみなせるような有価証券(というより正に政府紙幣)だと思うのですが、それでも流通が活発化せず、徴税請負人によって割り引かれて流通した程度であるというのが実態だったようです。流通受託者として徴税請負人は良いポジションにあったと思われるのですが、彼らはあまり積極的に国庫証券の流通に寄与しなかったようです(当時の徴税請負人をどのようなバックグラウンドを持った人達が務めていたのかについて、もう少し調べてみようと思います)。
ここでモンタギューについて少しだけ。初めは彼をイングランド銀行を創設した国際金融グループの完全なる手先だと思っておりました。が、このように国庫証券の流通を目論んだあたりを踏まえると、途中から愛国心が勝り、トーリーが主導する国立発券銀行(土地銀行)が不成立になった場合に備え、政府紙幣たる国庫証券を塩税法に挿入したのではないかと思うように至りました(本当のところはどうなんでしょう。モンタギューだけでなく、ニュートンやロックも追いかけてみると面白いそうですが)。

さて、話を元に戻しますと、結局、国庫証券の流通管理もイングランド銀行に委ねられることになり、国庫銀行的な性格をますます強めていきました(民間企業でありながら!)。これまた、『国債の歴史』より関連した記述を引用します。

第3回の国庫証券は、1707年に窓税を担保として150万ポンド発行された。イングランド銀行が国庫証券の流通を独占して管理することになり、同行は政府から4.5%相当の手数料と150万ポンドを国庫証券で受け取り、これを投資家に売却した。その兌換に際して投資家に支払う金利の決定もイングランド銀行に委ねられ、同行は日歩2ペンス(年利3%)、期間12ヶ月として、この国庫証券を市場に売却した。国庫証券の兌換が1797年に停止されるまで、その流通管理はイングランド銀行によって行われた。
こうしてイングランド銀行は、国庫証券の流通において独占的な役割を担い始めた。さらに、1709〜12年にかけて徴税請負人に対して同行を経由して税金を国庫に送金することを要求し、次第に国庫の銀行としての役割を果たし始めた。そして、国庫証券は、税金納付やイングランド銀行による換金などの流通管理が実施されたことによって、税の先取りの主要な手段として地位を確立していった。

1708〜09年は全面的にホイッグの体制となった。トーリーの猛烈な反対があったにもかかわらず、1708年の法律でイングランド銀行の増資が認められ、株式会社による銀行券発行についての独占を再び規定した。そして、イングランド銀行を経由して国庫に納付される税金が増大していった。Stasavageは、これによって、政府が国債の元利償還を停止しようとしても、イングランド銀行が政府への資金の流れを止めることによって、デフォルトが回避できるようになったと述べ、1708〜09年までは、国債の発行金利が低下したと指摘している。

1694年に創設されたイングランド銀行が、わずか15年の間で国庫証券流通と税金収納を握るまでに至ったわけです。ここまでくれば国家の信用を手中にしたも同然ですから、それまでわずかではありますが支払っていた銀行券に付随する利子も不要になる訳です(先に紹介したように1716年には無利子の銀行券が流通するようになりました)。

また、政府は短期負債を長期負債に借り換える際に、イングランド銀行東インド会社、南海会社の三大特権会社を利用したため、さらに政府のイングランド銀行への依存度は高まりました。同じく長期負債への借り換えに関する記述を『国債の歴史』より引用します。

1697年には国債利払い費が文政費を上回るに至り、また1697〜98年と1710年前後には短期債務が著しく増大した。このため、政府はこれら債務の担保とされていた税の期限を延長したり、イングランド銀行などの特権会社を用いて短期債務を長期債務に借り替えた。
税の先借りである割り符などの短期債務は、イングランド銀行東インド会社、南海会社の三大特権会社によって長期債務に駆りかえられ、短期債務は1710年の1,410万ポンドをピークに減少に転じた。
スペイン継承戦争後に締結されたユトレヒト条約や、その後のイギリスのヨーロッパと世界に対する国家戦略の基礎を成す重要な成果であった。こうした大きな戦果の一方、イギリスは巨額の債務を抱えることになった。1691年度末に310万ポンドであった国債残高は、1714年度末には約12倍の3,617万ポンドに増大した。これに伴い、1714年度の国債元利償還費は302万ポンドに達し、税収の六割近くを占めてしまった。

結局、1714年度末には特権会社からの借り入れが国債残高の4割以上を占めるまでに至ります。イングランド銀行を含む三大特権会社による金融支配がこの時点でほぼ完了していると見ることができるでしょう。
また、上記からもわかるようにイングランド銀行は、現在の中央銀行と同様にみるべきでなく、むしろ東インド会社や南海会社のような特権会社として捉える方が素直なのですが、何故か歴史教育ではそのような教え方はしません(何故かはわかりきっていることですが)。

さて、だいぶ長くなってきたので、一度、ここで区切りたいと思います。

*1:『世界権力の構造の秘密』からイングランド銀行とウィリアム3世に関する記述

*2:ウィリアム・パターソン(William Paterson)は、1658年にスコットランドのダンフリース(Dumfriesshire)の良家に生まれました。一時期は、カリブ海の海賊(buccaneer)だったと言われており、William Dampier (1652-1715)やSir Henry Morgan(ca. 1635 – 1688)から様々な知識を得たと考えられています。パナマに植民地を建設しようとスコットランド国王が試みたダリエン計画(Darién schem)の草案者の一人であり、スコットランド連合の積極的な支持者でした。George Walter Thornbury(1828-76)の「Old and New London: Volume 1」にパターソンに関する記述があります。

*3:http://www.lib.musashi.ac.jp/homepage/col/kincolind/10,14,15,16,17,18,19,20.html