英蘭の金融史(4)戦費調達

最後に、名誉革命政権のその後とイギリス国債の功罪について少しだけ触れて、終えたいと思います。 まずは、名誉革命政権のその後についてです。『国債の歴史』から再び一部を引用します。

ルイ十四世との九年戦争に伴う重税によって、伝統的ジェントリーが没落し、商工業者や金融業者が台頭してきた。
1697年9月にライスワイクで講和が結ばれ旧年戦争が終結したが、ルイ十四世はジェームズ2世の息子を王位継承者とせずウィリアムをイギリス国王と認定すると宣言した。これに対して、ウィリアムはジェームズの息子が新教徒になるという条件でイギリスに迎えるとしたので、この段階では王位継承はまだ不確定であった。その後、王位継承法で、アン女王の次の王位継承者をハノーヴァー選挙候妃と定めた。彼女はアンに先立って死去し、継承権はその息子のジョージに引き継がれたが、これによって、絶対王政の時代から、国王と議会が主権を享有する時代に移行したと言える。
(中略)
ホイッグは、戦費の負担が増大する中で1710年にフランスとの和平の機会を逸し、戦争の遂行を主張したので、次第に支持を失った。アン女王は8月にゴドルフィン大蔵大臣を解任し、ハーリーが指導するトーリー内閣を組織した。1710年9月の総選挙で、トーリーが地滑り的な勝利を収め、トーリーの内閣が支持され、ホイッグの閣僚も反オランダ、親ジャコバイトに置き換えられた。(略)
ハーリーは、金利上昇によって発行が困難になった政府短期債務を整理するために、1711年9月に南海会社法を成立させた。すでにイングランド銀行に発見の独占が付与されていたので、南海会社には交戦中のスペインの南海諸島との交易の特権を与えた。さらに、1712年にアン女王が12人のトーリーを貴族としたため、ホイッグは上院においても勢力を失った。(略)
トーリー党内閣は、政治、宗教面でも保守回帰を図り、便宜的国教徒防止法、協会分裂行為禁止法によってホイッグ党を抑圧した。土地税の税率も1713年に、20%から10%に引き下げた。・・・(略)・・・1714年7月にアン女王が死去した。王位継承問題でトーリーは分裂し、指導権は再びホイッグに移った。(略)
国債の信任を大きく左右した土地税は1713年以降急速にウェイトを低下させ、代わって物品税が急拡大した。これは、ホイッグ内で影響力を増してきた土地所有者を懐柔し、そして同時にトーリーが氾濫に走らないように土地税を引き下げ、ホイッグに属さない商工業者や選挙権を持たない庶民に税負担をさせたためと考えられる。

全体の感想を述べる前に、一点だけ補足します。最後の引用文に「国債の信任を大きく左右した土地税」とありますが、アン女王の時代のイギリスは、税収の半分近くを土地税に依存していました。税率は農業所得の20%に設定され、この課税と税率は毎年議会の承認が必要だったのですが、議会は土地所有者の代表が多数を占めていたため、議会の勢力分布次第では、土地税率の引き下げと国債の元利金削減(つまり、デフォルト)を要求されかねない状況にあったのです。こうした不安定な税収が当時の国債金利を高騰させていたと富田氏は指摘します(1710年時点でホラント公債の金利が4%程度だったのに対して、イギリス国債は9%近い金利を求められていました)。

さて、話は戻って名誉革命政権のその後に関する感想を少し述べてみたいと思います。1710年以降の数年間のトーリー政権が最後のイギリス国民の抵抗だったのかもしれないと思っています。反オランダ=反国際金融資本家、イングランド銀行への対抗として南海会社の設立、トーリーの貴族登用などを、ジェームズ2世の娘であるアン女王の支持の下で実施した訳です。
抵抗むなしく、結局、トーリーはアン女王の後継者問題で分裂してしまいましたが、これも裏で相当の画策があったのだろうと想像しています。何せ相手は「分割して統治せよ」を過去未来ずっと駆使して政敵を封じ込めてきた輩なんですから。
また、ホイッグ=金融資本家グループは、共通の搾取先(ホイッグに属さない商工業者や選挙権を持たない庶民)を見つけ出し、うまくトーリーを懐柔しました。ここまでくれば、統治システムのローカライズもほぼひと段落といったところでしょう。1688年にイングランドに上陸し、ここまで30年かからずにやりきってしまいました。約200年後には日本においてこの半分以下の14年で明治維新をやり遂げてしまい(開港〔1854〕〜大政奉還〔1868〕)、現在はさらにその半分以下の数年でアジアや中東の政府を転覆させてしまう訳です(このままペースで行くと、そのうち、ボタン一つで統治システムをがらっと変えられてしまいそうです・・・)。

話がおかしくなってきたので、最後にイギリス国債の功罪について、少しまとめてみたいと思います。まずは、『国債の歴史』からの引用です。

1697年の財政支出は790万ポンドと、わずか八年前の四倍以上に増大した。九年戦争(1689〜97年)による戦費増大と、元利金支払の増加が主因であるが、増大する戦費の調達は国債の誕生によって可能となった。そして、国債による巨額の資金調達が、ルイ十四世との戦いで極めて重要な役割を果たしたことは言うまでもない。
議会による予算統制が強化され、恒久的な税目を利払いの担保に充当した国債が誕生して以降、政府の資金調達は飛躍的に増大した。また、政府債務が急増したにもかかわらず、持続的なインフレは生じなかった。
これについて、North-Weingastは、名誉革命で生まれた財政制度によってデフォルトが抑制され、私有財産権を保全することへの関与が確立され、それが経済へ反映された結果であると指摘している。

富田氏が指摘するように、国債による巨額の資金調達が九年戦争、七年戦争を可能にしたと言えます。逆もまた真なりと言えるか否かは検証が必要ではありますが、国債がなければここまで大規模な戦争に発展しなかったのではないかとも思ってしまいます。FRBの誕生が結果として米国による連合国への資金供給を可能にし、第一次大戦の被害を拡大したというユースタス・マリンズの指摘が思い起こされました。
富田氏自身は、あくまで「現在の国債問題」を捉える上で、歴史的な国債のあり方を分析しているので、上記の富田氏の記述自体を捉えて、良い悪いという評価はできません。ただ、富田氏とは離れて当時の国債のあり方について私見を述べるとすれば、財政支出の内容を庶民がコントロールできない中で、財政支出の量の制約だけを解き放ってしまった国債および中央銀行は、戦争を拡大した一因を負っていると評価せざるを得ないのではないかと思っています。
また、極度に抽象化され、そして信奉されている「法」・「民主主義」・「金融」というフィクションは、やはりフィクションでしかないことを、歴史を通じて再認識するしかないのだと思います(フィクションだから悪いとは決して思っていません。が、無条件に信じるものでもないと思っています)。
この先は、時間をかけてゆっくりと富田氏の『国債の歴史』を読み進めていこうと思います。ちなみに、画像はアン女王です。Wikipediaによると、アンは肥満体質でどこへ行くにも輿に乗っており、晩年は全く歩くことができないほど肥満が進み、宮殿内を移動するにも車イスを使っていたそうです。1714年に死去した時、その棺桶は正方形だったとか。