英蘭の金融史(5)南海泡沫事件

今日は、南海泡沫事件について取りまとめていきたいと思います。まずは、『国債の歴史』からの引用を。

期限前に償還することができない国債が存在したことが国債整理の障害となった。イングランド銀行などの特権会社以外が保有している三二年物、九九年もの年金国債といった非償還債については、政府は満期まで高い金利を支払い続けねばならなかった。(略)そこで、南海会社が非償還債を低利借換えが可能な償還債に展開するという計画に乗り出した。
南海会社は、1718年の対スペイン戦争でカリブ海貿易が打撃を受け、経営難に陥っていた。そこで、国債整理を担うことによって特権を維持し、経営危機の打開を図ろうとした。
南海会社は1719年に、1710年に発行された6%利付の三二物年金国債を年間利子の11.5年分で投資家から買い取り、南海株式と交換した。そして、南海株式に交換された金額を政府に5%で融資した。これは150万ポンドの特定の国債を対象とした低利借換えであったが、翌20年に南海会社は、フランスでジョン・ローが国債残高の全額を引き受ける計画を進めていることを参考に、きわめて大規模な借り換え計画を発表した。
この動き(ジョン・ローのミシシッピ会社)の動きを見守っていた南海会社のブラント筆頭理事は、1720年1月に南海計画法案を下院に提出した。この法案は、イングランド銀行東インド会社および自社が保有する国債を除き、短期債務も含めたすべての国債約3,000万ポンドを南海会社の株式に転換し、これらの国債の利子を5%に引き下げ、さらに1727年以降にそれを4%に引き下げる、という内容であった。この時点で南海会社の株価は、額面100ポンドに対して128ポンドであった。
南海会社は、投資家に年金型国債を手放させるために、自社の高い配当率を喧伝し株価の上昇を煽った。法案は1720年4月に成立し、4月14日に第1回の株式発行が行われた。(略)株価は、4月13日の288ポンドから、4月27日には325ポンドに上昇した。
国債から南海株式への転換の第一回募集が1720年5月19日に始まった。(略)投資家にとっては、とりわけ九九年物年金国債の株式への交換条件が、政府が合意した条件よりもきわめて有利に写った。国王が南海会社の総裁の地位にあり、政府の支援の下で南アメリカ貿易が拡大することを信じて疑わない投資家は、九九年物年金国債と南海株式の交換に殺到した。
これによって株式市場は過熱し、南海株価のピークは、1720年6月24日の1,050ポンドとも、7月1日の950ポンドともいわれる。
しかし、バブルはいつまでも続かない。南海計画法が議会に提出された1720年1月22日には、(略)すでにフランスではミシシッピ株のブームの崩壊が始まっていた。
イギリスでは、投資家の資金を南海株に集中させることを目的に、1720年6月24日にバブル法を制定し、国王と議会による特許状のない会社が発行した株式の取引を禁止した。
これをきっかけに株式市場への信頼が動揺し、ネーデルラントからの投資も引き上げられ、南海株を含めすべての株価が下落に向かった。これに対して、南海会社は30〜40%もの高配当を約束したが、南海株は1720年8月17日の900ポンドから9月28日には190ポンド、12月24日には124ポンドに下落した。厳禁による増資に応じ、年金国債を高値で南海株式と交換した投資家は、バブル崩壊によってきわめて大きな損失を被ったのである。
南海計画はイギリス経済に大きな混乱をもたらした。この一方、年金国債、短期債務の合計2,605万ポンドが、政府が償還のオプションを持つ南海会社からの借入れに転換され、しかもこれらは低利に借り換えられたので、国債整理という面では大きな進展を遂げた。

以上を要約すると、南海会社というペーパーカンパニーの株価を政府があおってバブルを引き起こし、非償還債と南海会社株を「自発的に」交換させ、バブル崩壊後に、大損をした投資家と低利借換えに成功した政府が残ったということです(上記にしばしば登場するジョン・ローのミシシッピ会社も非常に重要な会社なのですが、これはフランスの国債を説明する際に改めて整理してみたいと思います)。

ブラントが南海計画法案を下院に提出した1720年1月にはミシシッピ会社株のブーム崩壊がその兆しを見せており、またその百年近く前の1637年にはオランダでチューリップ・バブルが起きていたので、オランダからイギリスに移ってきた国際金融グループは当然この南海会社株のバブルが早晩崩壊することを確信していた筈です。

あるサイトでもう少し当時の状況を生々しく伝えていたので、参考までにご紹介します(内容の真偽は検証できていませんが)*1

陰謀の中心は、靴屋の息子にして新教徒のジョン・ブラントであった。彼は無愛想ではあるが、頭の回転が早く弁が立ち、しかも強烈な上昇志向を持っていた。彼は国債を処理し、しかもそこから利益を吸い上げる「プロジェクト」を考え出す。仕組みは簡単である。
ペーパーカンパニーが魅力あるビジネスプランをぶちあげ、株式発行により大衆から資金を集める。この会社はその資金を事業に回さずに国債の買い取りに使う。政府はいくらかの利払いをして、会社の保有する国債と相殺する。流動性の少ない国債と市場で取引される株式との国家レベルのデット・エクイティ・スワップを行うようなものであるが、簡単に言うとほら話で集めた他人の金で国の借金を返すというものである。ただし陰謀者の手数料控除後の金額で。
ペーパーカンパニーの名は、自らが役員を勤める南海会社である。南海会社は、1711年に当時の大蔵大臣オックスフォード伯爵ロバート・ハーリーにより設立された。しかし資本金900万ポンドと株式発行権、国債引受の見返りとしての年6%の利子支払いを受ける権利と「南アメリカにおける貿易独占権及び活動地域での司法・立法権、軍隊の徴募」という強力な権限の割に、この会社の活動は年に僅か1隻の船による交易の権利と黒人奴隷貿易であり、実際の利益はないも同然であった。
ブラントの計画は、実態の伴わない割高な株を無知な大衆に売りつけるものである。そのためには有力者の後押しが必要だった。彼は賢い男だった。つまり彼は1980年代のリクルートの創設者のように現物の株式を配る代わりに1990年代のアメリカの起業家と同様に、ストック・オプションを大蔵大臣エイスラビーを初めとする政治家達にばらまいたのだ。1720年冬南海会社による3000万ポンドもの国債を引受を議会が承認。「南アメリカの無尽蔵な資源を、国家の援護を受けた南海会社が只同然でイギリスに運んでくる!」前途有望なこの会社の噂は国内を駆け巡り、市民達の投機熱は早くも始まっていた。
その胡散臭さを国会議員ウォルポールが非難する。「人々の働く気力を萎えさせ、株の売買という危険なゲームにのめりこませるだけだ!」
1月に128ポンドだった南海会社の株価は3月には330ポンドにまで上昇した。南海会社は株をばら撒く。4/12の100万ポンドの株式募集には5倍の申し込みがあった。4/30の第2回目の募集は受付開始3時間で完売した。ブラントは「プロジェクト」の成功が、唯一株価の上昇にかかっていることを理解していた。彼は株式の払込額を分割払いとしたり、自社株を担保に購入希望者に融資することまで行い、株価の上昇に励んでいた。6月の募集も順調でブラントは准男爵に叙せられる。6/1に610ポンドを付けた株価は翌日870ポンドに上昇し、下旬には1050ポンドになった。ブームがやってきた。突然金持ちになった隣人を見て、紳士も労働者も政治家も、猫も杓子もこぞって株を追い求め、ますます株価を押し上げた。ブラントはうそぶく。「混乱すればするほど状況は有利になる。我々が何をしているのか理解出来ないほど、人々が我々の計画に乗りやすくなるのだ。」
やがて数多くの模倣者が現れ、泡沫会社と呼ばれる実態のない会社が浮かんでは消えていく。「馬に保険をつける会社」「ロンドンに石炭を供給する会社」「子供の財産を保証し、増やす会社」「私生児を受け入れて養育するもしくは病院を建てる会社」段々怪しいものも混ざってくる。「毛髪の取引をする会社」「海水から金を取得する会社」あげくの果てには「非常に有望であるが誰にも事業内容がわからない事業を実施する会社」というものまで現れる始末。1720年の夏ロンドン株式市場の時価総額は1695年の100倍、5億ポンドを超えた。
東インド会社株は100ポンドから445ポンド、王立アフリカ会社株は23ポンドから200ポンドに値上がりした。群衆は熱狂していた。自分より愚かなな人間に株を売りつけるため、何かがおかしいと思いながらも株を買い漁っていた。ホメロスの「オデッセイ」の翻訳者として有名なアレキサンダー・ポープは嘆く。「イギリス中が薄汚い金銭欲の虜になった」
陰謀者達はあまたの泡沫会社による株券の供給を押さえなければ、南海会社の株が売れなくなるという危機感にかられた。7月議会は南海会社の株価維持のため泡沫会社禁止法(バブル法)を可決。しかし、ブラントはこの相場が長くは続かないことを悟っていた。彼の貪欲さは、今一度金を引き出そうという試みを実行に移させた。南海会社は8/24に4回目の募集を行い、7500万ポンドの株式を売出した。ブラントは演説する。「紳士諸君うろたえてはならない。世界で最も偉大な事業が託されているのだ。ヨーロッパ中の資金が集まり、世界中の国が諸君に貢ぎ物を持ってくるのだ。」彼は自分が救世主であり、万能の力を手にしたかのように振る舞っていた。しかしこの時の募集では仲間には3000ポンドずつ買うよう薦めたが、自分で購入したのは500ポンドだった。絶頂期はここまでであった。
インサイダー達は密かに南海会社の株式の処分を始めた。9月、恐ろしい程の暴落が始まる。マルセイユでは黒死病が流行していた。8月初めに900ポンドの値段を付けていた南海会社の株価は9/8に640ポンド下旬には175ポンドにまで下落する。有力取引銀行で巨額の株式担保融資を行っていたソード・プレイド銀行が破綻する。ブラントの甥で南海会社取締役のチャールズはあまりの巨額損失に正気を失い自殺した。イングランド銀行取締役のジャスタス卿は破産し、シャンドス公爵は70万ポンドを失った。多くの市民の財産が煙のように消えた。株価は下落を続け年末には僅か124ポンドになっていた。「天体の運動を測定することは出来るが、群衆の狂気は測定出来ない。」2万ポンドを失った、王立科学協会会員にして万有引力の発見者サー・アイザック・ニュートンも悲鳴を上げた。
事件は犯人探しの段階に入る。調査委員会が結成され、大勢の人間が断罪された。サー・ジョン・ブラントは審問を受けた。しかしほとんどの質問に対する彼の回答は「記憶にない」であった。「知っていることを全部話したら、収まりのつかない大変なことになる。」と証言した南海会社の経理担当ナイトは、重要書類を持って、犯罪者引渡協定がないヨーロッパの小国ブラバンド公国へ逃亡した。南海会社設立者のロバート・ハーリー卿も逃亡に成功し、21年間を亡命者として過ごした。大蔵省の有力者だった古参の政治家ジェームズ・クラッグスは自殺した。逃げ切れなかった者もいる。大蔵大臣エイスラビーと何人かの南海会社取締役はロンドン塔送りとなった。不正な利益は没収され、その額は200万ポンドを越えた。
その後南海会社はイングランド銀行東インド会社の救済により再建され、捕鯨や黒人貿易により19世紀中頃まで存続した。泡沫会社禁止法と新たに制定された空売り先物・オプションを禁止するジョン・バーナード法によりイギリスの金融資本市場の発達は大きく遅れることとなった。もっとも南海バブルが終わった後で政権を握ったウォルポールは有能な政治家であり、彼の政策は産業革命と共にイギリスの覇権に大きな貢献をした。
フランスとイギリスでほぼ同じ時期に同じ現象が起こった。しかしその違いは簡単に説明できる。ミシシッピー会社事件は「失敗」であったのに対し、南海会社事件は明らかに「詐欺」である。早くからこの事件の本質に気付いていた人間の1人にエドワード・ウォードがいる。彼は南海の歌という詩を詠んだ。「理性の規則に従えば、南海料理で太りはしない。口の減らない若者や考えのないばか者が浮かれ踊っているだけだ。」

このように、国際金融資本家は、数百年前から相場を操作し、富の移転(搾取)を行ってきたわけです。以前、中央銀行やBISによる金相場の操作に触れましたが、××バブルや××恐慌といった名称がついている出来事の裏には常にこうした相場操作が行われていたような気すらします。

次回は、サムソン・ギデオンです。