英蘭の金融史(6)サムソン・ギデオン

ここまでイギリス国債について見てきましたが、これで一区切りつけたいと思います。最後に、国債引受会社であるサムソン・ギデオンと、その後のイングランド銀行について簡単に整理してみたいと思います。

サムソン・ギデオン
まずは、サムソン・ギデオン(Samson Gideon)について、『国債の歴史』から記述を一部引用します。

1693年のトンティン年金国債以降、特権会社からの借入れを除く長期資金調達には、国庫が直接投資家からの公募を受ける公開発行方式(open subscription)が採用されてきたが、この国債(1742年6月の3%利付永久国債)は引受会社を介して発行された。
当時は五つの引受会社が大きい影響力を持っており、それぞれがユダヤ人、オランダ人、シティの商人などを主要顧客としていた。(略)
引受会社の中でもサムソン・ギデオン(Samson Gideon)は、国債価格下落時にも大量の国債を引き受け、国債の資金調達に大きな役割を果たした。Sutherlandは、ギデオンの活躍を紹介しているが、その主なものを拾っておこう。
1742年にイギリスがスペインに宣戦布告した際に、ギデオンは3%国債で300万ポンドを調達する計画を提出し、自ら60万ポンドを引き受けた。44年にフランス艦隊がイギリス海峡を脅かし、国債価格が低下したときに、ギデオンは30万ポンドを引き受けた。45年に国債市場が低迷し、国債発行が困難になった際に、小額の終身年金を国債のおまけにつけるという新方式を提案した。46年にはジャコバイトと政府軍のカロデン(Culloden)の戦いの直前に、国債の引き受けたことによって市場の不安は沈静化したと、ギデオンは自ら述べている。さらに、49年にはペラム第一大蔵大臣(首相)の低利借換えを支援するために、すべての個人財産で応募した上で、イングランド銀行株主総会で低利借換えに応じるように説得した。
こうしたギデオンたちの引受会社による活動を、商工業の勢力を代表するバーナードが激しく批判した。バーナードは、引受会社を通じる国債発行は、発行条件の決め方が不透明で、彼らに大きな利益をもたらし、同時に国際市場を不安定にしていると批判し、国庫が国債を直接市場に発行する方式(open subscription)を要求した。
バーナードの意見が採り入れられ、1747〜48年の4%国債は引き受け会社を排除して発行された。しかし、大量に応募したのは引受会社で、彼らは国債の登録時までに国債を売却し、実質的に引受会社として機能した。このため、バーナードの思惑のように国債発行において引受会社を排除することはできなかった。そして、50年の発行から引受会社を経由する方式に戻った。なお、引受会社による明示的な競争入札発行が始まったのは82年になってからであった。

このように18世紀半ばには、イギリス国債発行において引受会社の役割が非常に大きなものとなっていました。この中でも、ユダヤ人のネットワークを持つサムソン・ギデオンが、ジャコバイトの反乱時におけるイギリス政府の資金調達に大きな役割を果たしました。
サムソン・ギデオンは、1699年にロンドンで生まれたユダヤ系の銀行家であり、21歳で事業を開始してから、順調に事業規模を拡大し、30歳でブローカー(sworn broker)として認められ、主に土地に投資を行いました。1740年頃には、株屋や投資家で賑わっていたジョナサン=コーヒーハウスのリーダー格になっていました。1742年からは、英国政府の財務顧問的な役割を果たすようになり、戦費調達のための政府の国債発行を支援したのでした*1

イングランド銀行その後
さて、最後に、イングランド銀行のその後について簡単に俯瞰してみたいと思います。まず、イングランド銀行を含む特権会社が資金調達におけるその役割を低下させていきました。『国債の歴史』より関連部分を引用したいと思います。

ペラムの当初の借換計画は、国債のクーポンを1757年末までは3.5%、それ以降は3%とするという内容であった。しかし、4%で国に融資している特権会社がこれに抵抗し、1750年2月末までの応募額は3,881万ポンドにとどまった。そこでペラムは応募期限を50年5月末まで延長し、3.5%から3%に引き上げる時期を二年繰り上げ55年末とするという、当初よりも厳しい借換条件を提示した。これへの応募額は1,560万ポンドであった。応募者にとっては、第二回の借換条件のほうが不利であったが、市場金利の低下と南海会社など特権会社の地位低下を背景に、大量の応募があった。
特権会社は、1717年の低利借換えでは特許状の延長という反対給付を受け、また1737年には低利借換えを拒んだが、すでに1750年には低利借換えを拒否できるたちが似はなかった。これまでは特権会社が国庫の資金調達に大きな役割を果たしてきたが、ロンドンの商工業者が国際投資に乗り出し、国際市場ではギデオン等の引受会社が大きな役割を担ってきたからである。

このように特権会社は、イギリス国債の受け皿としてその役割を低下させていった訳ですが、特にその地位を大きく低下させたのは南海会社だったと想像されます。1714年時点で償還可能な長期債務2,782万ポンドのうち、特権会社からの借入れが1,575万ポンドであり、その内訳は、イングランド銀行337万ポンド、東インド会社320万ポンド、南海会社918万ポンドというものでした。つまり、償還可能な長期債務の3分の1以上を南海会社が貸し出していた訳です。また、南海会社はカリブ海貿易がうまく成立しなかったことから、国債整理を担う特権会社としての地位獲得を狙い南海計画を打ち上げていました。これからを踏まえると、上記で富田氏が述べている特権会社の地位低下は特に南海会社を指すものと考えられます。逆に、特権会社の中でのイングランド銀行の地位が向上したという見方もできるかと思います。

さらに、イングランド銀行は、国庫銀行としてその地位をさらに高めていくことになります。これまで統制が利かなかった陸軍や海軍の資金をイングランド銀行が管理するようになります。再び『国債の歴史』より一部を引用します。

海軍予算は膨大な支出規模であったのにもかかわらず、1789年に至るまでその全体がただ一つの議決項目(vote)でしかなく、各部局の予算は議会統制から外されていた。(略)
これらの部局優先の基金制度と複雑な税制の改革を主導したのが、先に述べたバークとピットである。バークは経済改革の具体化に向けて、歳出入を議会の統制の下に置くべく1781〜82年に法律を成立させた。それは、海軍、陸軍の会計担当者の手元に置かれている資金をイングランド銀行に預託すること、現金の出入りを毎月大蔵省に報告すること、シビルリストの歳出項目を議会が定めた規則に従って大蔵省の統制の下に置くことを内容としていた。

また、種種の国債が償還期限のない3%国債に整理統合(consolidate)され、コンソル(consol)が誕生する過程において、イングランド銀行はその流通管理を握り、他の特権会社に対する優位性をいっそう向上します。

国債の所有名義の書換えは、従来は国債の種類ごとに登記簿が異なり、登記簿も異なった日に開かれていたので、投資家は国債を簡単に売買することができなかった。国債の銘柄統合により登記簿も統合され、名義書換えが簡単になったので売買は著しく容易になったものと類推される。また、これらの流通管理は、すべてスレッドニードル街で行うことになり、レドンホール街の東インド会社、ビショップゲートに接する南海会社に対するイングランド銀行の優位は明確になった。
このように利払日の統一と、イングランド銀行による一元的な流通管理によって、コンソルの市場流動性が著しく高まった。

こうしてイングランド銀行は、民間企業でありながら、国家(政府)の必須機関としての地位を高めていきました。今回、イギリス国債史という観点から改めてイングランド銀行を振返ってみて思ったのですが、イングランド銀行東インド会社や南海会社と同じように「特権会社」としての側面にしっかりと着目して、その性格を語る必要があると改めて認識しました。ややもすると中央銀行の先駆け的な面が強調され、初めから公器として存在していたように捉えられてしまいますが、歴史を一つ一つ紐解いていくと、「特権会社」としての側面がクリアに浮かび上がってきます。