英蘭の金融史(4)18世紀

まずは名誉革命後のイギリス国債の概要を俯瞰した後、「南海泡沫事件」、「サムソン・ギデオン」、「イングランド銀行の権限強化」、の3つについてちょっと触れてみたいと思います。それでは早速、名誉革命後のイギリス国債の概要について、再び『国債の歴史』から引用します。

イギリスは、名誉革命からワーテルローの戦いに至るまでの126年間のうち約64年間も、フランスとの間で断続的な戦争を繰り広げた。戦争のたびに国債が急増し、その幕間には国債を整理するというサイクルを繰り返した。国債の整理は、税によって償却することが基本であるが、戦争で急増した短期債務を長期化し、金利の低下局面を捉えてより低い金利国債に駆りかえるという、二つの方法で進められた。
低利借換えを行うと利払費が減少するので、担保に取られてきた税収に余剰が生じる。この余剰で、1717年ウォルポールは歴史上初めての減債基金を設けた。ただし、減債基金の支出が国債の償還に充当されたのは当初の間だけで、1727年には新たに発行される国債の利払費に支出されるようになった。
1749年からペラムによって大規模な低利借換えが行われ、この対象となった国債の利払いの担保に充当されてきた諸税はまとめて減債基金に繰り入れられることになった。同時に、種種の国債が償還期限のない3%国債に整理統合(consolidate)され、コンソル(consol)が誕生した。これによって国債の売買が容易となり、コンソルによる市場からの資金調達が増大した。その後、新たに発行される国債の利子の担保とされた新税も、一括して減債基金に繰り入れられた。このようにして、ここの国債の利子と税目との一対一の対応関係は次第に崩れ、ウォルポールの減債基金が多様な種類の国債の利払いと、これらの担保であった諸税からの収入とを調整する役割を担った。
この一方、特定の税収で特定の歳出をまかなうという部局ごとの基金制度が続いたので、財政が硬直化しただけではなく、さまざまな不適切な会計処理が発生した。さらに、コンソル創設後も、国債が新たに発行されるたびにその利払いの担保に新しい税が課せられたので、一つの物件に何件も課税が行われ、税制が極めて複雑になった。
そこで、1787年にピットによって、単一の物件に対する課税は一つの税目に統合され、同時に「政府のあらゆる収入の流れがその中に注ぎ、あらゆるサービスの支出がそこから出てゆく一つの資金を設ける」という考えで、統合国庫資金(Consolidated fund)が創設された。国債の利払費を支出していたウォルポール減債基金と他の全ての利払基金も、統合国庫資金にまとめられた。これらによって国債の信任が低下することが内容に、国債の利払費には統合国庫資金からの支出の中で最優先の支出項目という地位が与えられた。

18世紀のイギリスは戦争をしまくっていたため多額の戦費が必要になった訳ですが、これを国債によってファイナンスしました。短期債務も含めると国債残高は、1700年前後に1,000万ポンド程度だったの対して、1756年に始まる七年戦争中には1億ポンドを突破します。これに対して、1)短期債務の長期化と低利国債への借り換え、2)複数国債の統合(コンソルの登場)、3)統合国庫資金の創設、といった3つのステップでイギリス国債は発展します。

冒頭で触れた「南海泡沫事件」、「サムソン・ギデオン」、「イングランド銀行の権限強化」の位置づけも、ここで簡単に説明しておきます。まず、南海泡沫事件です。イギリス政府は、既存国債を償還して低利国債へ借り換えることで利子負担を圧縮した訳ですが、三二年物年金国債や九九年物国際といった非償還国債も存在しました。こうした非償還国債を低利借換えするための国家レベルの「陰謀」として南海泡沫事件が引き起こされました。1720年のことです。続いて、サムソン・ギデオンですが、これは国債の引受会社です。従来、イギリス国債は国庫が直接投資化からの公募を受ける公開発行方式が採用されてきましたが、1742年にイギリスが参加したオーストラリア継承戦争で発行された国債の多くは、引受会社を介して発行されました。このサムソン・ギデオンは、1745年のジャコバイトの反乱時に政府の資金調達を支えました。最後に、イングランド銀行の権限強化です。イギリス国債は、1743年に第一大蔵卿(首相)になったペラムによってコンソル債に統合されます(1749年)。このコンソル債の流通管理を巡り、イングランド銀行東インド会社、南海会社に対する優位を確立しました。

次回は、南海泡沫事件です。