石油の歴史(1)石油業界の誕生とスタンダード・オイル

今日から、石油会社の歴史を少し振返ってみたいと思います。

 様々な著作があるので、取り上げるのは気が引けたのですが、やはりスタンダード・オイルから取り上げてみました。

石油の「発見」

現在につながる石油の歴史は、ペンシルベニア州北部のタイタスビルで最初の石油鉱床を発見したエドウィン・ローテレンティン・ドレーク(通称・ドレーク大佐)に始まります。ニューヨークの弁護士だったジョージ・ビセルが事業を企画し、ニューヘブン銀行の頭取だったジェームズ・タウンゼント等がパートナーとなってプロジェクトは立ち上げられ、ドレーク大佐はそのプロジェクトマネジャーとして登用されたのでした。
1857年12月20日に現地入りしてから約2年間、具体的な成果は現れませんでした。それまで必要な資金を捻出してきたタウンゼントが事業の撤退を決めようとしていた1859年8月27日、ついにドレークは石油鉱床にたどり着いたのでした。

タイタスビルでの発見により、さまざまな投機、土地売買、探鉱許可証の買い取りが行なわれ、あちこちで掘削工事が開始されます。その結果、1861年4月には、日量3,000バレルの生産が可能な史上初の自噴油井が実現します。
灯油としての販路を着実に拡大させながらも、過剰な生産能力の増大は、原油価格を大幅に下落させ、当初は1バレルあたり20ドルだったのが、1861年末には1ドルを切る勢いでした。

スタンダード・オイルの設立

スタンダード・オイルの創設で知られるジョン・D・ロックフェラーが初めて石油に携わったのは、彼が20歳で設立したクラーク・アンド・ロックフェラー社においてでした。1863年に、会社があったクリーブランドペンシルベニアとの間に鉄道が敷設されると、その沿線には石油精製所がこぞって建設されました。クラーク・アンド・ロックフェラー社が保有する精製所は、処理能力が1日に原油500バレルと、同地域では最大規模を誇っていました。

経営方針の違いによりモーリス・クラークとの共同事業を解消し、1866年に、ロックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立しました。同年、第二の精油所スタンダード・ワークスを設立し、弟のウィリアム・ロックフェラーが社長に就任します。1867年にロックフェラー・アンド・アンドリュース社はこの精油所を吸収し、ヘンリー・M・フラグラーが経営に参加します。そして、1870年1月10日に、ロックフェラー兄弟とフラグラー、アンドリュース、スティーヴン・V・ハークネスが資本金100万ドルでスタンダード・オイル社を創設し、ジョン・D・ロックフェラーが社長に就任しました。

エティエンヌ・ダルモン著『石油の歴史』の中で、ジョン・D・ロックフェラーの行動原則が以下のように紹介されています。

彼の行動を方向付けているのは次のようないくつかの確固たる原則だった。
その一 石油取引のあらゆる工程において、必要かつ最も性能の良い設備を持っていること(貯蔵、輸送方法、精製作業など)。
その二 相次ぐ作業で生じるコストを厳格に管理し、同業者のコストを下回るようにすること。
こうして、使いやすく考案された、より経済的な新しい器具、工具、システムを開発した先駆者として、技術的な武器を利用した。とくに彼は輸送方法として、パイプラインを原料と完成品の両方に利用し、鉄道や船舶、馬車による輸送の価格協定の裏をかいた。

スタンダード・オイルは最終的に石油精製、輸送、流通、そして取引量の80〜90%を押さえるまでに成長するのですが、1979年、足元をすくわれかけたことがありました。スタンダード・オイルは、その取扱量や政治工作を背景に、油井から製油施設まで石油を運搬する鉄道網を独占し、運賃を一方的に決定することができました。これに対抗すべくペンシルベニアの石油生産業者が極秘に結束してタイドウォーター・パイプラインの建設構想を打ち上げたのです。これに対して、スタンダード・オイル妨害工作、買収工作、対抗策を次々と講じます。デビッド・S・ランデス著『ダイナスティ』からその一節を引用します。

スタンダード社はパイプラインの信頼性に疑問があり、石油が漏れて一帯を汚染し荒廃させる危険があるという情報を流した。そしてタイドウォーターの顧客になる可能性のある精製業者を次々と買収して言った。(中略)
パイプラインをめぐっては、彼の抜群の嗅覚も働かなかった。パートナーが独自のパイプライン網を敷設するように勧めても、これに応じようとしなかった。
しかし機を見るに敏なジョン・Dである。ペンシルベニア油田からウィリアムズポートまで、毎日6000バレルがパイプラインで送られるようになると、ジョン・Dは意見を180度転換し、タイドウォーター買収に乗り出した。これを拒否されると彼は、原油の収集費をバレルあたり5セントに引き下げ、鉄道の輸送費もパイプラインより安く、バレル15セントに設定した。
しかしジョン・Dもフラグラーも、将来の輸送方法はパイプラインであることは認めていた。鉄道側が新たな協力関係を拒否すると、スタンダード・オイルはこの安い料金を維持しながらも、クリーブランドからバッファローまで鉄道沿いに土地を収用しパイプラインを敷設した。するとあれほど威勢のよかったタイドウォーターが、スタンダードにすり寄ってきた。両社で活発な駆け引きが展開され、結局スタンダードはタイドウォーターを支配するのに十分なだけの株を取得した。

その後も、スタンダード・オイルは拡大を続け、1882年1月2日にスタンダード・オイル・トラストを形成します。規模を拡大するにつれ、法人化した企業は法人格の付与を行った州の外では資産を所有できないといった規制や世論の圧力をかわす必要があったのです。既出の『石油の歴史』からこの一節を引用します。

共同経営者たちはグループの、操業中にあるいくつもの会社の株式を、当時禁じられていた単一企業による所有ではなく、それぞれの名義人が「委託」されて「預かっている」体裁に見せかける戦略を思い描いた。それぞれの名義人とは、言うまでもなくグループのトップにある中心会社の株主たちである。これで指揮権の統一性も保持できる。このようにして形成された「スタンダード石油トラスト」は70万株の発行株式を41名の構成員に配分した。「理事会」が運営するこのトラストは、善グループ企業の株式をトラストが受け取った。こうして経営の柔軟性と、グループ全体の統括と戦略的決定を行う中央集権的な指揮権の実行性が保持された。
この体裁にあわせて、採択される決定事項は通常、執行命令ではなくむしろ勧告の形を取った。現実には、グループの執行機関はロックフェラーを中心とするマネージメント能力に長けた少人数の者がしっかりと握っていた。ロックフェラーが言明していたように、決定はコンセンサスによってなされた。経営調整委員会と執行委員会は、グループ企業で起きていることだけでなく、市場の進展とライバル会社の状態と不正行為に関するすべての情報を把握できる、素晴らしい情報システムと諜報システムまで備えていた。

起業家としてジョン・D・ロックフェラーを見ると、物凄い経営センスを感じます。企業規模・影響力の拡大に応じて、組織形態をここまで展開する力は、何に由来するのでしょう。

エティエンヌ・ダルモン著『石油の歴史』も、デビッド・S・ランデス著『ダイナスティ』も、基本的に好意的に彼を記述しており、久しぶりに陰謀史観ではない彼の叙述を読みましたが、少なくとも石油産業という新規事業の立ち上げ当初は、陰謀からは程遠い業界だったのでしょう。

次回は、ロシアにおけるノーベルやアルフォンス・ロスチャイルドの油田開発とロスチャイルドの権益を引き継いだロイヤルダッチ・シェルについてまとめたいと思います。