石油の歴史(2)ロイヤルダッチ・シェル

今日は、スタンダード・オイルへの対抗馬として登場することになるロイヤルダッチ・シェルについて、まとめてみたいと思います。

タイタスビルでドレーク大佐が石油鉱床を掘り当ててから遅れること20年余り、アメリカに次ぐ産油国としてロシアが台頭してきます。
ロシア石油産業の生みの親は、ノーベル賞の創設者であるアルフレッド・ノーベルの実兄ロバート・ノーベルと、ロスチャイルドのフランス分家のアルフォンソ・ロスチャイルド、の二人を挙げることができます。

バクーの石油王
長男ロバート・ノーベルは、次男ルドヴィッヒに頼まれて、1873年クルミ材の買い付けのために、バクーを訪れました。当時のバクーは、小規模ながらすでに石油産業が勃興しており、石油の虜となったロバートは、材木を購入する代わりに、バラハニーに利権を取得し、小さな製油所を手に入れました。次男のルドヴィッヒもこれを支援し、資金だけでなく、連続蒸留装置の技術改良といった技術アイデアまで提供しました。特に、ルドヴィッヒは、バラ積みの石油を運ぶカスピ海海上輸送を開発し、1878年に初のタンカーであるゾロアスター号を投入します。
一時は兄弟間での仲違いがあったものの、掘削業者、包装業者、輸送業者を傘下にいれたノーベル一家は、1879年に『ノーベル兄弟石油生産会社』を設立し、1885年には年間10万トンにまで石油生産の伸ばします。ノーベル一家はロシアにおける灯油生産の半分を占めていました。また、これら設備投資を資金面で支えたのは、フランスのクレディ・リヨネ銀行でした。
こうしたノーベル一家の石油覇権に挑戦したのが、ロスチャイルドのフランス分家のアルフォンソ・ロスチャイルドでした。

ロスチャイルドのロシア石油ビジネスへの参入
当時、ノーベル一家の競争相手たちは、欧州市場へ進出するため、カスピ海を北上するノーベルのルート対抗して、黒海の町までの輸送手段としてバクーからバトゥーミ(現在のグルジアの位置都市)まで鉄道建設を計画しました。ここでスポンサーとして、フランスのアルフォンソ・ロスチャイルドが登場します。
1883年に、バクーからバトゥーミを繋ぐ鉄道が完成し、アルフォンソ・ロスチャイルドは、ロシア政府の公債を引き受けた功績でバクー付近のバニト油田を入手し、ロシアでの石油ビジネスに本格的に乗り出します。1886年には莫大な資金を投入し『カスピ海黒海会社』を設立し、ヨーロッパでの製品販売を円滑に進めるため、イギリスに販売会社を設立しました。

ロスチャイルド権益の石油はアジアに流れ、シェルが誕生する
1880年代のヨーロッパ石油市場は、ロシア産が20〜30%を占めるまでになりますが、それでもスタンダード・オイルを中心とする米国産が優位を保っていました。また、ヨーロッパ市場においてもノーベル一家との競争を迫られ、ロシア国内市場ではノーベル一家優位という情勢が続きます。そこで、ロスチャイルド・グループは新たな販路開拓の必要性に迫られました。
ロスチャイルドは、海運仲買人のフレッド・レーンの紹介で、マーカス・サミュエルを紹介されます。彼こそ、ロイヤルダッチ・シェルの一方の母体である「シェル・トランスポート・アンド・トレーディング会社」の創設者で、彼が石油産業に踏み出すのはロスチャイルドの手引きによるものでした。
新たな販路をアジアに求めたロスチャイルドの要望に応えるべく、サミュエルは、生産地と販売地を最短距離で結ぶ経路、つまりスエズ運河を通過する航路を新たに開拓しました。1892年1月にスエズ運河の通過許可を受け、サミュエルのタンカー第一船「ミュレックス号」が1892年7月にイギリスを出発し、バトゥーミで灯油を積み込んで8月23日にスエズ運河を通過し、その数週間後に最終目的地のバンコクに到着しました。こうしてシェルは国際石油企業への第一歩を踏み出したのでした。
サミュエルのアジアでの活動を説明する前に、マーカス・サミュエルと日本の関りについて少しだけ触れたいと思います。実は、サミュエルは18歳の時に、高校の卒業祝いにもらった片道切符で来日しています。一文無しだった彼は、海岸に落ちている貝を加工して父親のもとに送り、父親がロンドンで息子が送ってきた貝を販売するという商売を始めます。これが大当たりし、父親はロンドンに店を構え、息子のサミュエルは23歳で、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出するというビジネスを開始します。その後、日本の石炭をマレー半島へ売ったり、日本の米をインドへ売ったりするなど、アジアを相手に事業を拡大していきました。こうしたサミュエルの活動に目を付けたのが、ロスチャイルドからアジア販路開拓の協力者の紹介を求められていた海運仲買人のフレッド・レーンだった訳です*1

シェル・トランスポート・アンド・トレーディング会社の設立
さて、ロスチャイルドのロシア産石油を担いでアジア市場へ進出したサミュエルですが、このロスチャイルドのロシア産石油への完全な依存から脱却しようと、新たな原油の確保に動き出します。一時は、メロン財閥のガルフ石油会社の起源となったスピンドルトップ産の原油買い取りに成功しますが、この油田はあっという間に底を尽きてしまいます。そこで、サミュエルは、1896年からカリマンタン島の東部で探鉱を開始するためマーク・エイブラハムズを派遣し、翌年に油田を発見します。
サミュエルは、スタンダード・オイルを初めとする競合他社やロスチャイルドを初めとする供給者に対する地位を強化するため、石油取引に関係ある事業を包括的な組織として一つの会社にまとめあげることにしました。こうして1897年、シェル・トランスポート・アンド・トレーディング会社が設立されたのでした。

ヘンリー・W・デターディング
1880年ごろ、オランダ人のタバコ栽培業者だったA・J・ジルケルがランカットの君主から採掘権を獲得して、石油探鉱に乗り出します。このスポンサーとして、オランダ領東インドの元総督、中央銀行、オランダ国王ギィヨーム3世がこの事業に乗り出し、1890年に資本金約10ポンドでロイヤル・ダッチ会社が設立されます。1897年12月末には、新タンカー「スルタン・ド・ランカット」号が到着するなど、事業は順調な滑り出しを見せます。
A・J・ジルケル、ジャン=バチスト・オーギュスト・ケスラーの後を継いで、1899年12月末、以後四十年にわたってロイヤル・ダッチの中心人物として君臨するヘンリー・W・デターディングがトップに就任します。彼は、1866年4月にアムステルダムに生まれ、16歳でトゥウェンチェ銀行(現在のオランダ銀行)に入港し、数年後にオランダの金融会社「オランダ貿易会社」の選抜試験に合格してオランダ領東インド担当のポストに就きます。その後、ロイヤル・ダッチの二代目ケスラーと出会い、その才能を認められ、1896年にロイヤル・ダッチに入社します。そして、その3年後に急死したケスラーに代わりロイヤル・ダッチの重役会からケスラーの後任に任命されます。このとき、わずか35歳。オランダ銀行(16歳)→オランダ貿易会社→ロイヤル・ダッチ(32歳)→ロイヤル・ダッチ社長(35歳)、う〜ん、異例の出世。

ロイヤルダッチ・シェルの誕生
シェルとロイヤル・ダッチは当初、激しい競争をしていましたが、ロックフェラーのスタンダード・オイルに対抗するために、ロイヤルダッチ・シェルとして一体化することになります。
ロスチャイルドとマーカス・サミュエルのシェルと、ヘンリー・W・デターディングのロイヤル・ダッチを引き合わせたのは、ある本によれば既出のフレッド・レーンであり、あるサイトによればロバート・コーエンであると言われています。フレッド・レーンは、ロスチャイルドとマーカス・サミュエルを引き合わせた海運仲買人であり、ロバート・コーエンはオランダの食品大手「マーガリン・ユニ」と、イギリスの食品大手の「リーヴァー・ブラザーズ」をも合併させた人物です。
この合併により、1907年にロイヤル・ダッチが60%、シェルが40%を出資する持株会社の下に両社がぶら下がることになります。1914年には、ロスチャイルドのバグー油田を買い取り、ロスチャイルド家は売却代金として、400万グルデン相当のロイヤル・ダッチの株(全株式の10%)と、24万ポンド相当のシェル株式を手にし、ロイヤルダッチ・シェルの大株主となりました。

新生ロイヤルダッチ・シェル
ロイヤルダッチ・シェルは設立以来、60%と40%の持分の持株会社のもと、ロイヤル・ダッチとシェルが事業展開してきたわけですが、2004年にロイヤルダッチシェルグループが原油・ガス埋蔵量を下方修正した結果、この特殊な企業統治形態が投資家からの批判にさられることになります。この批判を受けて、2005年6月、ロイヤル・ダッチとシェルは、「一つの会社、一つの取締役会、一人の経営者」をスローガンに新たに設立されたロイヤルダッチ・シェルRoyal Dutch Shell plcのもとに統合されることになりました*2

ちょっと疲れてきたので、この辺で終わりにしようと思います。次回は、イタリアのENIについてまとめてみようと思います。