石油の歴史(3)国際石油メジャーと闘ったイタリア

今回は、イタリアの石油メジャーであるENIについてまとめてみたいと思います。最初は、ENIつながりでENELを調べたら何か面白いことがあるかなと思って調べ始めたのですが、エンリコ・マッティという人物に出会い、イタリアとロシアの歴史的な関係、国際石油メジャーへの挑戦、OPECの創設など、予想していなかった国際石油史におけるイタリアの実像が見えてきて、個人的にはとても楽しかったです。
もともと足元にヴァチカンを抱え、遡ればイタリア都市国家が群雄割拠していたイタリアですから、まだまだ掘ってみると、いろいろな史実がでてきそうです。

AGIPの設立
イタリアの石油の歴史は、1860年パロマのOzzanoで、Achille Donzeliという企業がわずか数十メートルの深さの油層を掘り当てたことから始まります。この時期のイタリアは、ヴァチカン、ナポリヴェネチアを除く全土が統一され、9月にガリバルディ率いる赤シャツ隊によってフランス王室ブルボン家ナポリ王が倒されます。アニェリ家が現在の領主の館を購入し、現代の一門を築いたジョバンニ・アニェリ(1866−1945)が生まれたのもちょうどこの頃です。
このように、石油開発そのものは米国、ルーマニアに次ぎ世界で3番目に古い歴史をイタリアは持っており、1900年代初頭から補助金制度が導入され民間企業に石油開発を促す奨励策が採られはじめており、1920年には国内の累積生産量は100万バレルに達していました。
現在のイタリアの石油メジャーであるENIの前身である国営石油会社AGIP(Azienda Nazional General Italiani : イタリア石油総合公社)が設立されたのは、それから60年以上を経た1926年のことでした。ムッソリーニ政権によるイタリア国内石油産業の強化策に基づき、イタリア政府が60%(6,000リラ)を出資して設立したのでした。
AGIPは、国内開発のみならずルーマニアアルバニアイラクリビアエチオピア等海外での石油開発にも進出し、1935 年にはこれら海外原油精製のための国策会社ANIC(AGIPの持分は25%)が設立されました。また1937 年に北イタリアのPodenzanoでガス田が発見されたのをうけ、1941 年にはこのガス・パイプライン管理のための国策の天然ガス輸送会社SNAM(Societa Nazionale Metanodotti)が設立されます。
このようにムッソリーニ政権の下で設立されたAGIPは、ムッソリーニ政権の崩壊とともに節目を迎えることになります。

エンリコ・マッティとENI
1945年、パルチザン政治組織CLN(Comitato di Liberazione Nazionale)は、パルチザンそてい名を挙げたエンリコ・マッティにAGIPのリーダーの地位を与えます。CLNから彼に下された指示は、AGIPを解体することでした。当時の政府は、石油産業の再建を民間資本によって行なうという方針を採っており、AGIPは石油精製・販売を禁じられ、会社を清算することを命じられたのです。
これに対して、AGIPの経営(解体)を任されたマッティは、政府方針に背き、AGIPの強化に乗り出します。積極的に探鉱活動を行い、1949年にコルテマッジョーレのガス田を発見し、その権利をAGIPに与えることを議会に承認させることに成功します。マッティは、北イタリアには大量の石油とメタンが埋蔵されており、イタリアはエネルギー需要全てを自国の資源で満たせるとの声明を出します。これにより、AGIPの株価は急上昇します。実際は、そこそこの量のメタンと石油が埋蔵されていただけで、イタリアのエネルギー需要全てをまかなうにはほど遠かったのですが、マッティの宣伝活動が功を奏し、資本市場の評価を得ることに成功したのでした。このとき、マッティは、AGIPの非公式な経済資源を使って政治家やジャーナリストに対して、後半にわたって賄賂を贈ったと見られています。また、ネオファシスト政党MSI(Movimento sosiale italiano)を利用したことをマッティ自身も述べています。
こうして経営基盤を確立したAGIPは、ムッソリーニ政権により設立された他の炭化水素関係の国策会社と共に、1953年にENI(Ente Nazionale Idrocarburi :イタリア国営石油会社)として再出発することとなります。ENIの初代会長の座についたマッティの問題意識は、当時、セブンシスターズと呼ばれた石油メジャーにどのように対抗するかということでした。彼は、イタリアの置かれた状況を小さな猫のたとえ話を使って説明します。

「大きな犬どもが鉢の中でえさを食べているところに一匹の子猫がやってきた。犬どもは子猫を遅い、投げ捨てる。我々イタリアはこの子猫のようなものだ。鉢の中には皆のために石油がある。だがあるやつらは我々をそれに近づけさせたがらない。」

この寓話によってマッティは当時のイタリアの貧困層から絶大な人気を集め、政界からの援助も受けるようになります。
マッティ率いるENIは、セブンシスターズの独壇場となっていた中東利権に挑みました。1949年10月、イランで国民戦線が創設され、モサデグが党首となり、1951年にアングロイラニアン石油の国有化を宣言します。これに対して、国際石油メジャーはその販路を断ち、対イランの姿勢を明確に示します。その後、CIAが中心となってモサデグ政権は倒される訳ですが、そんなイラン政権に対して従来の国際石油メジャーとは全く異なる基準の採掘契約の提案を行ないます。それまで、国際石油メジャーは産油国に対する契約条件はフィフティ・フィフティ・パートナーシップが原則でした。これに対して、マッティは、石油による利益は産油国側に75%、ENI側に25%という新基準を提案したのです。当然、この提案は受け入れられ、1957年に締結された“Matter formula”は、その後の中東における新基準として通用するようになります。マッティは、この契約を成立させるため、イタリア女王とイラン国王の婚姻というアイデアを提唱したとも伝えられています。
さらに、マッティは、エジプト、モロッコリビアチュニジア相手に石油外交を展開します。特にリビアとは、1959年に50年間の石油開発の契約を締結し、その後10年後のカダフィ大佐による革命や米国の経済制裁などを経験しつつも、現在に至るまで操業を続けています(リビア原油生産の2割程度をENIが担っていると言われています)。また、1957年には、対仏独立闘争をしていたアルジェリア独立派に対して融資を開始するなど、マッティは中東の最貧国や共産圏の国々との協力関係を次々と築いていくのでした。

イタリアとロシア
2006年の12月に、イタリアの独占禁止局がENIとGazpromが戦略的パートナーシップの合意を承認しました。これに先立ち、ENIのガス子会社であるSnamとGazpromは、ロシアの天然ガス・パイプライン網をSnamが近代化するという契約を1993年に締結しています。
2006年12月14日、ENIのCEOであるScario氏は、Russian Financial Control Monitorの中で、イタリアとロシアの関係について、次のように述べています。

「我々は、Gazpromそしてロシアと50年に及ぶ関係があり、同社は欧州そしてイタリアへのエネルギー資源の供給に関して基本的かつある意味で他に替え難い役割を果たしている。欧州メジャーが長期契約を求めるのは偶然ではない。」

この「ロシアと50年に及ぶ関係」の起源も、やはりマッティの国際石油メジャーへの対抗策に遡ります。イラン、エジプト、リビアなど産油国との協定を次々と成立させ、アップストリームにおける地位を固めつつあったマッティは、続いてダウンストリームにおいても国際石油メジャーによる寡占体制の打破を目指します。当時のイタリア市場は、国債石油メジャーの一角をなすエクソンとBPに占められていました。そこで、マッティは、ソ連フルシチョフと交渉し、1960年に、市場価格より低い値段での石油輸入契約を締結することに成功します。
現在も、ENIやENELが積極的にロシア進出を試みていますが、歴史を遡ると、国際石油メジャーの寡占体制に対するマッティの挑戦が背景としてあったのです。

OPECの結成
ENIは、ロシアに加え、中国とも輸入契約を結ぶことに成功し、イタリア市場のみならずヨーロッパ市場において国際石油メジャーと互角の戦いをするようになります。こうして国際石油メジャーは、ENIの主導する価格競争にいやおうなく引きずり込まれることになります。
これに対して、1960年8月9日、ニュージャージー・スタンダード石油(エクソン)のラズボーン社長は、アラブ民族主義の高まりを伝えるに記者ワンダ・ヤブロンスキーの警告に耳を貸さず、産油国に何の相談もなく、石油買い取り価格を一方的に引き下げます。これに猛反発した産油国は、サウジ石油相アブドル・タリキ、ベネズエラ石油相ペレス・アルフォンソの奔走により、同年の9月10日にバグダッドで石油輸出国会議を開催します。そして、その四日後の9月14日、OPEC石油輸出国機構)が結成されたのでした。

マッティの突然の死
こうしてマッティは国際石油業界においてその実力を遺憾なく発揮し、国際石油メジャーの寡占体制に穴を開けることに成功しました。
しかし、サハラにおけるメジャーによる採掘区区分に招かれた際、マッティは、アルジェリアの独立が協定署名のための条件であるとしたため、フランスの反アルジェリア極右組織OASの標的となり、命を狙われるようになります。
そして、1962年10月27日、マッティを乗せた旅客機が離陸直後に墜落し、乗員全員が死亡するという事故が起こります。公式には嵐による事故と発表されていますが、事故を装いマッティは謀殺されたという意見も根強く残っています。“著名人”はしばしば飛行機事故で命を落としてしまうものです。

ENIの民営化
イタリア政府は、戦後もENIやENEL、IRI(産業復興公社)という三つの特殊会社を介して、イタリア産業の主導権を握っていました。90年代に入り、イタリアの産業資本の50%を握っていた政府は、EUの方針に従ってその半分を手放すことになります。
構造汚職の摘発が勢いづいていた92年6月に成立したアマート政権は、8月にIRI、ENI、ENEL、INAを株式会社とし、株式を全面的に国庫省に移すことで具体的な民営化に着手します。
93年5月に組閣されたチャンピ政権は、その直後に政党への不正融資で逮捕されたノービリIRI総裁に代わって、民営化を前提にした経営再建の課題をプローディ新総裁に託しました。同年3月、カリアリENI総裁が政党への不正融資で逮捕され、7月には刑務所で自殺するという事件も起こりました。
こうして政財界の混乱を背景としながら、1995年以降、順次政府保有のENI株式の売却が行なわれ、現在の株主構成になったのでした。現在、政府保有株は30%にまで低下していますが、イタリア政府は合併等、ENIの経営の重要事項に対する拒否権を保有する黄金株を所有しているため、依然としてイタリア政府の影響下にあると考えてよいでしょう。
直近のENIの株主構成は、イタリア政府が22%、Cassa Depositi e Prestitiが11%と、政府が30%程度を保有し、残りは民間の株主となっています。2007年1月末時点に確認できた範囲でその名を挙げると、JPMorgan Asset Management Europe(2.27%)、DWS Investments Italy SGR S.p.A.(2.26%)、Capital Research & Management Company(2.25%)、Monte Paschi Asset Management SGR S.p.A.(2.23%)となっています。
現在、ENIは世界70カ国に進出し、約72,000名の従業員を抱える大手石油メジャーの一角を構成しています。そのENIを率いているのは、先ほど少しだけ名前が出てきたPaolo Scaroni氏です。同氏は、Chevronに2年間セールスマネジャーを務めた後、Saint Gobainに12年、Technitに11年在籍し、1996年にPilkingtonに移ります。1997年から同社のCEOを務め、2002年にはイタリア最大手の電力会社ENELのCEOに就任します。ENELで3年間CEOを務めた後、2005年よりENIのCEOに就任しました。
Scaroni氏は、Sole 24 OreやTeatro Alla ScalaABN AMRO、Veolia Environmentのボードメンバーに名を連ねており、2005年のビルダーバーガーでもあります。

つらつらとENIの歴史を追いかけてみました。ネットで調べていると、日本の政治家の中にもエンリコ・マッティを取り上げて、和製メジャーの重要性を訴える人なんかが居て、いろいろ興味深かったです。スタンダード・オイルのその後やBPについては、いろいろな本の中で語られているので、次はフランスのトタルを紹介したいと思います。