石油の歴史(4)エネルギーセキュリティを追い求めたフランス

フランス石油会社(CFP)の一環操業体制確立
1924年に設立されたフランス石油(CFP)は、トルコ石油を通じて獲得した豊富な石油資源が円滑に国内で流通するよう、国内の石油産業をリストラクチャリングすることも期待されました。
この目的のため、CFPは早速1929年にフランス石油精製会社を設立し、ルアーブル近郊のゴンフルヴィル(1933年)とマルセイユ近郊のマルティーグ(1935年)の二箇所に当時としては大規模なコンビナートを建設しました。また、もう一つの子会社である石油海運会社が、レバノンパレスチナの港からフランスの二箇所のコンビナートまでイラク原油を運送するために設立されました。
フランス系企業グループが精算した石油製品の国内流通は、デマレ兄弟やリール・ポニエール・エ・コロンブ会社、フランス燃料会社、フランス総合石油が請け負っていましたが(彼らはフランス石油やフランス石油精製の株主でもあました)、いずれも第二次大戦後に徐々にフランス石油グループのなかへと吸収されていき、1965年にフランス石油はTOTALという商標を採用するようになりました。
こうしてCFPは、トルコ石油の権益を保有し開発事業を手がけるだけでなく、政府主導で設立された精製・販売会社に資本参加して一貫操業体制を整えることに成功します。

アキテーヌ石油会社(SNPA)の設立
時代を再び第一次大戦後に巻き戻し、フランス政府の石油政策を簡単に振返ってみたいと思います。フランス政府は、1923年に石油政策の実行計画を策定し、この計画を実施する機関として1925年に液体燃料局(ONCL)を設立しました。この実行計画の中には、「本国及び海外領土における探鉱の促進」が掲げられていたのですが、そもそも開発事業のリスクが高いため石油各社が積極的な投資を行なわず、またトルコ石油(後にイラク石油と改称)からの供給過剰もあって、ONCL設立以来、第二次大戦が始まるまでの期間はほとんど探鉱作業は行なわれませんでした。
国費を投じた探鉱作業の最初の成果は、1937年にONCLがアキテーヌ地方ピレネー山脈北部のSaint-Marectにおけるガス田の発見です。政府は、このガス田開発のために1939年に100%国営のフランス石油公団(RAP;Regie Autonome des Petroles)を設立しました。また、1941年には、このSaint-Marect以外の地域を探鉱するために、政府とCEP、民間企業とで新たにアキテーヌ石油会社(SNPA;Societe National des Petroles d’ Aquitaine)が設立されました。同社には広い区域に対する石油探鉱の許可が与えられ、1949年にLacq油田を発見し、1952年にはその深層から大きなガス田を発見するなどフランス国内の探鉱の成果を徐々にあげるようになります。

石油探鉱公社(BRP)の設立
第二次世界大戦終了後、フランス政府は、探鉱・開発を促進する基幹として石油探鉱公社(BRP;Bureau de Recherches de Petrole)を設置します。日本の石油公団のような組織だと考えてもらってよいと思います。BRPは、海外領土において、各地域ごとに現地政府や総督庁と共同で炭鉱開発会社を設立し、積極的に探鉱・開発を進めていきます。

第二次世界大戦の直前、フランスは年間500万トンの石油を消費しており、フランス石油の自社資源で賄えたのはそのうちの100万トンに過ぎませんでしたが、こうした海外の探鉱・開発作業が実を結び、自国資源の輸入量は年間1,000万トンから1,100万トンにまで拡大しました。
その中でも特に探鉱・開発の成果が上がったのは、アルジェリアサハラ砂漠でした。同地域では、国営アルジェリア石油開発公社(SNREPAL)、サハラ石油開発公社(CREPS)といった公的資本が過半を占める会社やフランス石油(CFP)によって1950年ごろに最初の探鉱事業が開始され、リビア国境のエジェレ(Edjeleh)油田やハッシ・メサウド(Hassi Messaoud)油田などを発見しました。アルジェリアは、1962年にエビアン協定により独立を果たしますが、フランスが保有するサハラ地域における権益は温存されたままでした。

国策企業の統合 〜エルフ・アキテーヌの誕生〜
1966年、フランス政府は多数の石油会社の設立によって複雑化した体制を統合するため、フランス石油公団(RAP)と石油探鉱公社(BRP)を統合し、国営の石油事業研究公社(ERAP)を設立します。
アキテーヌ石油(SNPA)の資本金の過半数は石油探鉱公社(BRP)を継承した石油事業研究公社(ERAP)が拠出し、残りをフランス石油と個人投資家に頼るという株主構成でした。ただ、取引上、アキテーヌ石油(SNPA)は石油事業研究公社(ERAP)から独立を保っていました。両者の協力関係は、共通管理体制によって数年間は維持されました。
しかし、1971年に行われたアルジェリアによるフランス利権の国有化と1973年の第一次石油危機に対応するため、両社のより完全な合併の必要性が明確になってきたため、1976年に両社が統合されエルフ・アキテーヌ国営会社(SNEA;Societe Nationale ELF Aquitaine)が設立されました。なお、「ELF」とは販売製品に付されていた商標であり、これがそのままERAPの呼称となったのでした。
それまでの石油事業研究公社(ERAP)の資産は全て同社に引き継がれ、その結果、エルフ・アキテーヌ国営会社(SNEA)の67%の株式をフランス政府が保有し、残り33%を民間投資家が所有することになりました。その後、1986年にフランス政府はELFへの出資比率を67%から56%に落とし、1991年のELFのNYSE上場を機に政府は段階的に出資比率を低下させていきます。1994年には、民営化プログラムに則り政府出資比率は13%となり、社名もそれまで付されていた「Societe Nationale」(公団)が外されます。更に1995年には政府の保有株式は10%となり、1996年11月に政府出資比率はゼロとなり、完全民営化を果たします。ただ、最終的には、政府が所有していたエルフの黄金株(Golden Share)が、トタール誕生後の2002年に廃止されるまで続いたのでした。
この間、ELFはアフリカを軸としながら、北海等でも新規油田の開発を行い、1996年には生産量100万b/dの大台を達成するに至っています。

と、ここまで書いてみたものの、ただ整理しているだけで何だか盛り上がりに欠けます。今回は、トタール第一弾ということで、改めて第二弾の取りまとめをしたいと思います。本当は、何故、トタールにとって最初のお見合い相手がペトロフィナだったのか(フランスとベルギーの組み合わせはどこかで聞いたことが・・・)、そもそもペトロフィナはどのような出自の企業だったのか、等々を攻めて整理してみたかったのですが、ちょっと時間がかかりそうです。一方のエルフ・アキテーヌは、2001年の不正資金授受事件に政財界の裏事情を垣間見ることができるので、この辺はちょっとまとめてみようと思っています。