近代日本と欧米諸国(1)坂本龍馬

今日から欧米諸国がどのようにして近代日本に影響力を及ぼしてきたのかについて、これまで書いてきたブログをもとにトピック的に紹介したいと思います。まずは、明治維新を牽引した坂本龍馬からです。大部分は、加治将一氏の『あやつられた龍馬』からの引用です。同著の問題意識は、「なぜ龍馬は暗殺されたのか」です。これは諸説ありますね*1

京都見廻組
 京都見廻(みまわり)組は京都市中の取り締まりを主任務とする幕府の警備隊です。幕府にとって倒幕を図る龍馬は敵。さらに寺田屋事件で龍馬が幕吏数人をピストルで殺傷したとして行方を追っていました。今井信郎渡辺篤ら元組員が後年、龍馬襲撃を証言しており、最も有力な説とされます。ただ、それぞれの証言には食い違いが見られ、「売名行為では」との指摘もあって、真実と結論付けることはできません。

新撰組
 新撰組は、京都守護職松平容保公預かりで京の町の治安維持に当たっていました。見廻組同様、幕府を護る立場で、多くの倒幕の志士を殺害しています。元新撰組伊東甲子太郎が暗殺現場に残された鞘(さや)を見て新撰組原田左之助のものと証言したことなどから、真っ先に疑いが掛かりました。しかし、その後の調べでは処刑前の近藤勇をはじめ、隊士の誰もが関与を否定。後には伊東ら高台寺党の仕業では、との説も出て、諸説入り乱れる中で可能性は薄れていきます。

薩摩藩黒幕説
 龍馬の味方のはずの薩摩藩。しかし、断固、武力による討幕を主張していた薩摩藩にとって、平和改革路線を訴える龍馬は革命成就後の地位確保のためにも目障り―という推察のもと唱えられている説です。黒幕には大久保利通木戸孝允西郷隆盛らが挙げられ、伊東甲子太郎率いる高台寺党に指示した、あるいは見廻組に龍馬の所在を教えたなどと、実行犯についてもさまざまな意見があります。

紀州藩
 慶応3年4月、龍馬が搭乗していた伊呂波丸と紀州藩の明光丸が衝突(伊呂波丸号事件)。紀州藩は巨額の損害賠償金を海援隊側に支払うことになります(交渉に公法を持ち出すなど龍馬の働きが大きかった)。このため、紀州藩が報復に龍馬を暗殺したとする説。後日、紀州藩の仕業と決め込んだ海援隊陸奥源二郎が、同志とともに紀州藩士、三浦休太郎を襲撃する事件(結局、失敗に終わる)も起きていますが、本当のところは分かりません。

土佐藩後藤象二郎
 龍馬の「船中八策」を山内容堂に提案し、大きな功績を挙げた土佐の後藤象二郎。龍馬がいなければ手柄を独り占めできるともくろんだ後藤が、暗殺を企てたとする説。中岡慎太郎が死ぬ前に残した証言では、刺客は「こなくそ!」と斬りつけてきたという。これは四国の方言で「この野郎」の意。哀しくも、同じ土佐藩士に殺された可能性も…。

これら諸説のうち、同著は薩摩藩黒幕説を採っています。ただ、同説を採用したその背景がとてもユニークでした。

明治維新を裏で糸を引いていたのは、フリーメーソンであると同著は考えます。フリーメーソンについては、様々な書籍やサイトで書かれているので詳しい記述は割愛しますが、秘密儀式などの特徴をもった相互扶助団体だと私は理解しています(フリーメーソンについてもその起源や内容について諸説ありますね)。

同著は、下記の英国人によって諜報員・工作員として育てられた“維新の志士”たちが、明治維新といった革命を起こしたとします。
トーマス・ブレイク・グラバー  [1838〜1911]

  • ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会設立
  • 薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売

アーネスト・サトウ  [1843〜1929]

  • 英国駐日公使館の通訳官及び書記官

パークス [1828〜1885]

  • 英国駐日公使(慶応元年(1865)〜)

坂本龍馬は、あくまで無血革命を主張し、1867年11月9日の大政奉還を主導しました。このソフトランディング路線は、幕府(勝海舟西周)と坂本龍馬が中心となり、対日工作で幕府を担当していたパークス英国駐日公使がバックアップしていました。坂本龍馬はパークス直々の諜報員だった可能性を同著は示唆します。
一方、坂本龍馬を暗殺したハードランディング路線は、薩摩藩(特に大久保利通)や公家(特に岩倉具視)が中心となり、あくまで武力倒幕を目指します。これに長州藩の主要人物も引きずられていきます。1867年11月9日、つまり大政奉還が上奏された日と同じ日に、大久保利通岩倉具視らの画策により、薩長両藩に徳川幕府追討の詔書が下されます。彼らからすると、この期に及んで無血改革を主張し、大政奉還を主導する坂本龍馬は目の上のたんこぶのような存在だったのでしょう。ちなみに、ハードランディング路線を裏で糸を引いていたのは、アーネスト・サトウです。サトウは、パークス英国駐日公使らの通訳や書記以上の役割を与えられており、パークスが幕府工作を担当する一方、サトウは反幕派の地方大名への工作を担当していたと同著は主張します。

では、1867年12月10日(旧暦11月15日)に近江屋で坂本龍馬を惨殺したのは誰だったのでしょうか。同著は、中岡慎太郎であるとします。中岡慎太郎について同著は次のように述べています。

中岡慎太郎はどういう思想の持ち主だったのか?ずばり、判で押したような武力討幕派である。幕府を倒すために武器を取って立つという視点だ。当然薩摩藩の大久保、西郷とつながっている。
薩長土による武力討幕という流れは、水面下であらかた決していたと言っていい。バックは英国工作員、サトウである。
 (中略)
中岡慎太郎岩倉具視とねんごろだった。十一月十三日には岩倉を伴って、薩摩藩邸を訪問し、吉井幸輔と会見している。この時期に注目して欲しい。後藤、龍馬によって鳴り物入りの「大政奉還」の建白書が提出された二週間後である。その時期に、武力討幕の頭目岩倉具視を伴い、これまた武力討幕の牙城、薩摩藩邸に中岡慎太郎が入ったのだ。どう見ても反大政奉還、後藤、龍馬を裏切る武力蜂起への意思統一としか思えない。
静かな殺気が流れている。慎太郎はこのころから、邪魔な龍馬の動向を監視する役割を負っていた、と見るのが妥当だ。

英国の工作活動を念頭に、明治維新までの各人の役割、行動を改めて眺めてみると、これまで以上に維新の志士たちの想いや働きがなまなましく浮かび上がってきました。司馬遼太郎が描く維新の志士たちは人間味あふれる一方で、革命を起こした人物としてはどこかリアリティに欠けている気がしていました(いくらなんでも志だけでは世の中は変えられない)。この点、英国による工作活動が背後にあったという要素を加味することで、これまでの疑問点を解消するひとつのきっかけを得た気がします。
個人的には坂本龍馬がずっと好きだったのですが、英国の工作員として描かれた坂本龍馬はよりリアリティがあり、もっと好きになりました。同著の一部で、暗殺直前の龍馬の心境を描写しているので引用します。

・・・龍馬は、武装蜂起を止めようと獅子奮迅の働きを見せていた。
薩摩藩はどう動いているのか?長州は?西郷は?サトウは仮面を脱ぎ捨て、露骨に武力蜂起を促していると聞くが、本当だろうか?パークスはどうした?平和革命を唱えていたではないか。いったいどうなっている。パークスさえ捕まえられれば、薩長の過激な蜂起は防げる−

あくまで一つの見方に過ぎない訳ですが、極東と呼ばれた地で19世紀の後半から日本が急成長を遂げたのは、日本だけの力ではなく、外部の力が働いたと見るべきで、それは英国であり、フリーメーソンだったのではないかと考える訳です。
こうした活動が我々からほとんど見えてきませんが、それだけ彼らの工作活動が巧みだった訳です。最後に、ハモンド英国外務次官からパークス在日公使宛の公文書を同著より紹介して終わりたいと思います。

「日本において、体制の変化がおきているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」

*1:(下記は、「竜馬の部屋」より引用)