近代日本と欧米諸国(2)東京大学

続いて近代日本の形成に大きな影響を及ぼした東京大学の設立前夜のお話をしたいと思います。多くは、立花隆氏の『天皇と東大』に拠ります。

江戸時代後期の教育水準 −寺子屋・藩校

東大設立の話に入る前に、当時の日本の教育水準について簡単に振り返ってみたいと思います。明治政府は成立当初から教育の重要を強く感じていましたが、もともと日本の教育水準は高いレベルにありました。この点につき、立花氏は以下のように述べています。

日本の教育水準は、江戸時代から、全国的にかなり高いレベルにあった。それがあったからこそ、近代的な教育制度が一挙に普及したのである。当時、寺子屋がどのくらいあり、どのくらいの人が通っていたのか、はっきりしたことはわからないが、幕末の安政から慶応にかけて(1854〜1868)だけで4,200校が解説され、全国の寺子屋総数は1万5千に及んでいたという記録が残っている。
(中略)
寺子屋よりも水準の高い学校としては、各藩が独自に設けていた藩校があった。藩校は、十九世紀はじめには、ほぼ二つに一つの藩に設けられ、幕末には、(略)二万石以上の藩なら八割以上に、二十万石以上の藩であれば百パーセント設けられていた。

この寺子屋や藩校を中心とした教育制度に関して、加治氏は次のように指摘します。日本に寺子屋がたくさんあったのは、日本人が教育熱心だったからではありません。慢性的な飢饉が続き、いたるところに餓死者が転がっている時代に、知識欲が学問のモチベーションになるというのはあまり理屈に合いません。学問も結局は「飯のため、暮らしのための手段」であって、私塾を経て諸藩の工作員になることが下級武士の出世道だったと考えることができます。例えば、有名な松下村塾に関して加治氏は次のように述べています。

有名なのは、長州藩松下村塾だ。松下村塾はまさにスパイ学校そのもので、伊藤博文高杉晋作桂小五郎、山形有朋、品川弥二郎、久坂元瑞。優秀な長州侍の多くは、松下村塾の塾生、すなわち工作員やエージェントとして訓練を受けた者たちである。

たしかに、坂本龍馬江藤新平が各藩の工作員と考えることで、いくつかの疑念点が解消されます。例えば、「坂本龍馬は脱藩したのにどうして土佐藩との繋がりが維持できたのか」、「江藤新平が脱藩して三ヶ月で復藩できたのは何故なのか」といった疑問です。当時の諸藩は、万が一、工作活動が失敗した場合に備えて、工作員を偽装脱藩させ、各工作員には表向き脱藩した浪人を装うよう訓練していたのでしょう。これなら、坂本龍馬江藤新平が脱藩後も自藩と奇妙な関係を維持し続けることができた理由も理解できます。

大学南校

さて、話を東大設立に移していきたいと思います。東京大学の源流は、法学部や理学部につらなる大学南校と、医学部につらなる大学東校の大きく二つの流れがあります。

大学南校の淵源は、幕府の「天文方」にまで遡ります。古代から正しい暦を宣布することは時の為政者にとって権力の証のひとつであったため、江戸幕府天文学に力をいれ、特に徳川吉宗は、新知識の導入に熱心で、禁書の制限を緩めるなど海外からの科学技術書を積極的に輸入しました。その結果、高橋至時によって『ラランデ暦書』が翻訳され、日本の天文学が完全に洋学化します。観測機器も相当精度の高いものが作られ、高橋至時の次男・景佑は、伊能忠敬の日本地図作りに精密観測機器を携えて同伴し、その結果、あのような精緻な日本地図が誕生した訳です。

長男・景保は、シーボルトに禁制の日本地図を渡したとして死罪になってしまう有名人物ですが、彼は在命中、1806年に天文方の「蛮書和解御用」に任命され、洋書の翻訳や世界地図の作成を命じられました。その後もペリー来航などを契機にますます外交文書の翻訳など翻訳需要は高まり、天文方の蛮書和解御用を中心に、1857年、「蕃書調所」が設立されます。「蕃書調所」は単なる翻訳機関としてではなく、軍事技術や各国の政況、文化を身に着けた人材を排出することが期待されました。

この「蕃書調所」のマスタープラン作りを行ったのが、何を隠そうあの勝海舟なのです。ペリーが来航したとき、幕府は対抗策を世に募り、700余りの応募の中から勝の提案が幕府中枢の注目を浴びた、というのが一般に言われていることです。何だか嘘っぽいですね、後から勝が自分の都合の良いように歴史を書き換えてしまったのかもしれません。

とは言うものの、この「蕃書調所」のマスタープラン作りを勝が行ったというのは事実で、誰を教官とするかの具体的な人選交渉なども、勝が自ら行いました。この中には、ドキっとしてしまう人物も含まれています。例を挙げると、津田真道寺島宗則加藤弘之箕作麟祥西周、杉田玄端など豪華な顔ぶれが並びます。

まず、西周津田真道は、現在判明している日本発のフリーメーソンとして“有名”です。二人はオランダのライデン大学に留学し、1864年10月、大学のすぐ側にあるラ・ヴェルテュー・ロッジNo.7でフリーメーソンに加盟します。ロッジには今でも彼らのペン書きの入会申込書が残っているそうです。続いて、寺島宗則ですが、これまた五代友厚とともに薩摩とイギリスの間を取り持ったと噂される人物です。寺島はグラバーの手引きで渡英し、1866年の3月と4月にクラレンド英外相と会い、以下のような衝撃的な内容を英国政府に伝えたと、加治氏の『あやつられた龍馬』では記述されています。

そこで訴えたのは、とんでもないことである。大名会議の招集と、幕府による外国貿易独占の打破だ。すなわち幕府を倒し、大名たちの合議制の国家を作ることを一身にうたったのである。誰がなんと言おうと、これは正真正銘、「革命宣言」だ。ロンドンで革命をぶちあげ、それに対して英国政府は、よし分かったと深く賛同したのである。

加治氏が同著の中で引用しているのはラッセル外相がパークス駐日大使へ出した訓令等ですが、実際に現物を見て、内容を確かめてみたいものです。

このように勝海舟によって、こうした知識人たちが「蕃書調所」に集まってきたのでした。ここに英国勢力がどのように関与していたのかは不明です。グラバーが長崎にジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立したのが1861年アーネスト・サトウが表向き通訳見習いとして来日したのが1862年であることを考えると、少なくとも「蕃書調所」の設立時(1857年)に彼らが関与したと考えることはできません。グラバーやアーネスト・サトウがゼロから日本のエージェントを育てた訳ではないでしょうから、彼らの前任者が何かしらの形で「蕃書調所」の設立に関与していたのかもしれません。

大学東校

先ほど東京大学の源流は、法学部や理学部につらなる大学南校と、医学部につらなる大学東校の大きく二つの流れがあると言いましたが、続いて「種痘所→西洋医学所→大学東校→東京医学校」の流れについて、簡単に説明したいと思います。

大学東校の淵源は、1858年に神田に設置された種痘所に遡ります。当時は蘭方医学に対する漢方医の圧力が厳しく、蘭方医学から伝わった種痘に対して、幕府は積極的な施策を講じないままいました。これに対して、伊東玄朴、箕作阮甫ら、有力蘭方医たち80余名がお金を出し合って設立されたのが、この種痘所です。将軍家定への治療を契機に蘭方医は勢力を増し、1861年、種痘所は西洋医学所と名を改め、医学教育の第一歩を踏み出します。1863年、この西洋医学所が医学所となり、松本良順が頭取になってから本格的な医学教育が開始されました。

医学所は、明治維新に伴い、幕府から新政府に引き渡され、医療機関として復活しますが、医学教育機関として復活するのは明治4年1871年)にドイツから招聘されたミュルレルとホフマンが着任してからです。当時は医学、薬学関係だけでドイツ人教師を12〜13名やとっており、その給料の総額は医学部予算の経常費の三分の一を占めていたそうです。この位、予算を使っても当時の日本は西洋医学の知識を学ぶ必要性を切に感じていたのでしょう。

ただ、当時の外国人教師の質は、ピンキリだったようで、なかには全然授業もせずに、たまに来ても酔っ払いながら教室にあらわれ、怒鳴り散らして授業を終える教師もいたそうです。そんな中で、最も有名な外国人教師として取り上げられるのが、かの有名なグイド・フルベッキです。1859年に29歳の彼は日本の地に降り立ち、幕末の長崎の洋学所、佐賀の藩校で英語、政治、科学、軍事などを教えるうちに、大隈重信伊藤博文横井小楠などを教え導くことになり、維新後は新政府に呼ばれて上京し、大学南校の流れをくむ開成学校の教頭を務めるようになります。フルベッキの事跡のうち、最も重要なのは岩倉使節団の派遣をコーディネートしたことでしょう。加治氏の『幕末 維新の暗号』の一節が岩倉使節団派遣時の状況を描写しています。

外国との条約更新は迫っていた。約八ヵ月後の一八七二年七月五日。これが条約の切り替え日だ。新政府はそれを好機と捉え、なんとか不平等条約を改善したい。だがまったくの無策、途方にくれていたのである。
(中略)
 耳打ちしたのが大隈だった。以前に手にしたフルベッキの使節団構想を思い出し、そっと打ち明けたのだ。
 政府のトップ自らが外国に乗り出す。日本政府はいかに安定しているか、政府の高官はいかに教養人かを海外にアピールし、直接交渉にあたるというものだ。
(中略)
 膨大な企画書は、いたれりつくせりだった。使節団が外国政府を訪問した際の、予想される外国からの要求とその想定問答集までが、手取り足取り事細かに記載されており、完璧なまでの完成度だ。

このように設立当初の東京大学は、明治政府に対して大きな影響力を持った教授陣を抱えていたのでした。フルベッキについては(特に「フルベッキ写真」)、加治氏の『幕末 維新の暗号』が小説仕立てで解釈を加えていますので、関心がある方はご覧ください。