近代日本と欧米諸国(3)メディア

今日は、「原子力の父」と称される正力松太郎を中心に、日本初の民間放送会社である日本テレビ開局を巡る当時の状況をまとめながら、メディアが持つ世の中に対するインパクトについて、少し考えてみたいと思います。

三つの称号を持つ男

プロ野球の父」の称号を持つ正力松太郎は、日本の原子力発電導入を強烈に推し進め、「原子力の父」の称号を併せ持ちます。正力は、1955年に原発導入と保守大合同を公約に掲げて富山二区から衆院選に出馬し、北海道開発庁長官として大臣になり、新設の原子力委員会の委員長になり、さらに新設の科学技術庁長官になります。原子力に強いアレルギーを持つ日本の世論を転換して原子力発電所導入へ導く際に、正力が最大限に活用したのが、自らが社主を務める読売新聞と日本テレビという二つのメディアでした。
 正力は、民放初のテレビ局として本放送を開始した人物であり、「テレビの父」という称号も併せ持ちます。以下、有馬教授『CIAと日本テレビ』をベースに、「テレビの父」という側面に焦点を当てて、戦後の日本メディアを巡る日米動向を整理してみたいと思います。

日テレ開局と同時に流れた怪文書

1953年8月28日に日本テレビが開局して1ヶ月を過ぎた頃、日本の政治やメディアの関係者のあいだで「正力マイクロ構想」に関する怪文書が出回り始めました。
「正力マイクロ構想」とは、正力松太郎が構想していたマイクロ波通信網構想で、正力は、テレビ放送に留まらず、電話、ラジオ、ファクシミリ、航空管制、軍事テレタイプなどあらゆる通信手段をカバーする多重通信網の構築を意図していました。正力にとって、テレビ局の開局はゴールではなく、一通過点に過ぎなかった訳です。
この「正力マイクロ構想」を巡る正力の“陰謀”に関する怪文書が出回り、ついに国会で取り上げられるに至ります。

第017回国会 電気通信委員会 第5号(昭和二十八年十一月六日)

この怪文書の内容は、有馬氏によると次のようなものでした。

  1. 米国の借款によるこのマイクロ波通信網は、米軍の軍事通信網として使用に供されるので、有事の際日本全土が戦争に巻き込まれることになる。
  2. 近代国家の中枢神経ともいうべきマイクロ波通信網の運営は、電電公社のような公共事業体に任せるべきであって、日本テレビのような民間企業がすべきことではない。
  3. このようなマイクロ波通信網を正力が建設する動機は、アメリカの力を借りて日本のメディアに葉を唱えようとする個人的野望にあり、このような男に国家の中枢神経ともいうべき通信事業をまかせるべきではない。

実際に、正力が構想したマイクロ波通信網構想は、資金調達を米国借款に頼り、その見返りとしてRCA(Radio Corporation of America)やGEの機器を購入することが前提となっており、さらに、米軍による軍事通信網としての利用も謳われていました。「正力マイクロ構想」は、米国によって描かれた日本のメディア構想でもあったのです。

反共プロパガンダのための世界多重通信網計画

1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ平和条約によって日本は再び主権を取り戻しました。一方、それまで6年間に渡って日本を占領してきた米国は、主権を取り戻した日本において米軍駐留という軍事的占領状態の継続をいかにして平和裏に日本国民に受け入れさせるかが大きな問題となっていました。
また、1950年代と言えば、ジョゼフ・マッカーシーによるレッド・パージが猛威を振るった時期にあたります。反共防波堤として日本を再軍備させるために、まず日本を共産主義化させず、軍事占領を継続する米国を敵視しないように仕向けなければなりません。
そこでカール・ムントという上院議員が、反共主義宣伝心理戦のメディアとしてテレビを日本に導入することを発案します。その効果がいかほどのものだったかは想像に難くないでしょう。親米プロパガンダとして毎晩のゴールデン・アワーを占領したアメリカ製の娯楽番組は、日本を“心理的再占領”するために十分すぎるほどの効果を発揮しました。下手な米国紹介のパンフレットを配るよりも、『パパは何でも知っている』などのホームコメディーを放映して、鬼畜米英と呼ばれたアメリカ兵が家庭に帰れば子煩悩なお人よしのパパだというイメージを刷り込んだ方が手っ取り早い訳です。
実は、この「正力マイクロ構想」は、日本に留まらず、韓国、台湾、フィリピンなどアジア諸国へ延伸する世界的ネットワークとして企画されていました。実際に、日本を含むこれら四カ国のテレビ方式は、NTSC方式を採用しています(他のアジア諸国は、PAL方式かSECAM方式です)。

世界のアナログテレビ方式

NTSC方式は、米国のRCA(Radio Corporation of America)社が開発したもので、1953年に米国規格として採用されました。この米国方式がアジアにおいていわば例外的に日本、韓国、台湾、フィリピンの四カ国に導入された訳です。この四カ国を結んだ線は、当時アメリカが共産主義の脅威から軍事力によって守らなければならないとした防衛ラインとほぼ重なっています。「正力マイクロ構想」は、米国が描いた東アジア・東南アジアにおける反共プロパガンダのための世界多重通信網計画の一部だったのです。

外資導入による経済復興」と「米国による再軍備圧力の回避」

こうして構想された「正力マイクロ構想」ですが、結局、日本テレビには東京限定の放送免許しかおりず、通信免許もおりませんでした。日本全国をカバーする多重通信網といった初期の構想は断念され、唯一その社名である「日本テレビ放送網」に初期構想の名残を見ることができます。この「正力マイクロ構想」に直接的、間接的に大きな影響を与えたのは吉田茂でした。「外資導入による経済復興」と「米国による再軍備圧力の回避」という吉田茂の二つの施政方針が「正力マイクロ構想」を大きく左右することになります。
日本テレビが開局する3年ほど前の1950年6月、朝鮮戦争が勃発します。アメリカは日本に再軍備を要求しますが、吉田は、経済的負担の大きさや国民の反対を理由に抵抗します。吉田にとって最大の関心は日本の早期復興であり、そのために吉田は軍備を抑制し、外資導入をテコとして経済活動に全力を投入すべきだと考えていました。
当初、吉田茂は、民間放送会社へのテレビ放送免許の発行とアメリカ方式の採用を強くバックアップしていました。外資導入のためには、互恵取引として米国製品の導入は当然であり、正力松太郎をさまざまな側面から支援します。
ところが、正力が鳩山派との結びつきをますます強めるようになり、次期首相として噂され始めると、吉田は「正力マイクロ構想」に対する姿勢を徐々にネガティブなものへとシフトし始めます。これは単に、次期首相の座を巡る吉田派と鳩山派の争いに留まらず、日米相互防衛援助協定を巡る再軍備反対派と再軍備派との対立が背景となっています。米国は、「正力マイクロ構想」を親米プロパガンダの心理戦ツールとしてよりも、むしろ軍事通信網の側面を強調するようになります。吉田茂の立場からすると、こうした軍事通信網的な側面を多分に持つ「正力マイクロ構想」を、再軍備派の鳩山一郎の後継者と目され始めた正力松太郎に実現させることは、なんとしても避けたいことでした。結局、吉田は正力率いる日本テレビの対抗馬である電電公社支持にまわり、これを見たユージン・ドゥマン等のジャパン・ロビーも同様に正力支持から方針を転換したため、「正力マイクロ構想」は、その名のとおり構想で終わったのでした。

ソフト・パワーの威力

このように「正力マイクロ構想」は日の目をみることはありませんでしたが、米国は、「日本を共産主義化させず、軍事占領を継続する米国を敵視しないように仕向ける」という初期の狙いを十分達成しているように思えます。有馬氏は、次のような問題提起をしています。

「(前略)なぜ岸信介が安全保障条約改定と政治生命を引き換えにしなければならなかったほど盛り上がったいわゆる六十年安保闘争がその後沈静化してしまい、現在ではこの条約が問題にもされなくなっているのか、なぜ1960年代と70年代を通じてあれほどの盛り上がりを見せた全学連を中心とする左翼的学生運動が現在のように衰退したのか、・・・(後略)」

ジョセフ・ナイがソフト・パワーを指摘するまでもなく、米国はテレビ放送網を通じて、日本や韓国、台湾、フィリピンの共産化を防止し、心理的に親米化させることに成功した訳です。さて、今の我々の生活を振り返ると・・・。