近代日本と欧米諸国(4)原子力発電

前回に引き続き、有馬哲夫氏の『原発・正力・CIA』をベースにメディアのお話、特に原発とメディアの関わりについてお話したいと思います。まずは、『原発・正力・CIA』の内容をお伝えするため、同著の一部をご紹介します(以下、特段の断りがない限り同著よりの引用です)。

 1954年1月21日のことだ。アメリカ東部コネティカット州のグロートンで一隻の船の進水式が行われていた。船の名前はノーチラス号。海軍関係者の間ではSSN571と呼ばれた。完成の後、アメリカが誇る世界初の原子力潜水艦になった。(略)
 今日の目から見ると、これが連鎖の始まりだった。日本への原子力導入はこの連鎖の中で芽生え、方向付けられていったのだ。
 このニュースの一ヶ月ほど後、原子力の負の面を示す決定的な事件が起こった。3月1日、アメリカが南太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行ったところ、近くでマグロ漁をしていた第五福竜丸の乗組員がこの実験の死の灰を被ってしまった。(略)
 やがて日本全国に原水爆反対平和運動が巻き起こり、原水爆禁止の署名をした人々の数は3,000万人を超えた。これは日本の戦後で最大の反米運動に発展し、駐日アメリカ大使館、極東軍司令部(CINCFE)、合衆国情報局(USIA)、CIAを震撼させた。
 これら四者は、なんとかこの反米運動を沈静化させようと必死になった。彼らは終戦後、日本のマスコミをコントロールし対日外交に有利な状況を作り出すための「心理戦」を担当していた当事者だったからだ。
 反米世論の高まりも深刻な問題だが、実はそれだけではなかった。この頃国防総省は日本への核配備を急いでいた。ソ連と中国を核で威嚇し、これ以上共産主義勢力が東アジアで拡大するのを阻止するためだ。
 そのために彼らが熱い視線を向けたのが讀賣新聞日本テレビ放送網という巨大複合メディアのトップである正力松太郎であった。
 ノーチラス号の進水から始まった連鎖は、第五福竜丸事件を経て、日本への原子力導入、ディズニーの科学映画『わが共原子力』の放映、そして東京ディズニーランド建設へと続いていく。その連鎖の一方の主役が勝利期であり、もう一方の主役がCIAを代表とするアメリカの情報機関、そしてアメリカ政府であった

米国の原子力政策の転換

正力松太郎が日本の原発導入に果たした役割を紹介する前に、米国の原子力政策の変遷を簡単に紹介します。

アメリカは、1944年に原子力爆弾の実験に成功し、広島・長崎に原子力爆弾を投下して以来、ソ連を初めとする他国に対する優位性保持を最優先とし、原子力技術を米国外に持ち出さないとする“封じ込め”政策を取っていました。原子力技術が国外流出することにより、自国への核攻撃の脅威が現実化することを恐れたためです。1952年11月にはエニウェトク環礁で水爆実験に成功します。

しかし、米国が原爆を保有した4年後の1949年9月にソ連の原爆保有が米国政府により発表され、さらに米国が水爆実験に成功した9ヵ月後の1953年8月にソ連も水爆実験に成功します。これにより、核保有国は、米国、英国、フランスの西側三国に東側の盟主ソ連が加わり、ソ連傘下の東側諸国だけでなく、第三世界の中にも、核兵器の開発や原子力関連の研究に参加する国が登場する可能性が高まりました。

そこで米国は原子力に関する方針転換を行います。これが、1953年12月のアイゼンハワー大統領による「アトムズ・フォー・ピース」演説です。アトムズ・フォー・ピースの骨子を同著から引用します。

先進四カ国による核兵器開発競争が世界平和にとって脅威になっている。この状況を変えるためにもアメリカは世界各国に平和利用の促進を呼びかける。アメリカはこの線に沿って原子力の平和利用に関する共同研究と開発を各国とともに進めるため必要な援助を提供する用意がある。そして、これにはアメリカの民間企業も参加させることにする。さらにこのような提案を実現するために国際機関(後の国際原子力機関IAEA)を設立することも提案する

米国の思惑は、米国のもつ原子力関連技術を積極的に同盟国と第三世界に供与し、これらの国々と共同研究・開発を行い、これを誘い水として第三世界を自陣営に取り込もうというものでした。これにより東側諸国に対する優位を確保し、さらに、自ら主導で原子力平和利用の世界機関を設立することで、この機関を通じて世界各国の原子力開発の状況を把握し、これをコントロールすることができると考えました。

1954年8月30日、米国の原子力研究開発の成果を民間にも開放し、かつ外国にも提供できるようにすることを骨子とする新たな原子力法が成立します。この改定により、機密管理規則が緩和され、米国企業が外国に原子炉を輸出する条件が整備されました。

これを受けて、翌1955年1月には、原子力要員の訓練、濃縮ウラン提供等が井口駐米大使に申し入れられます。そして、その4ヵ月後の1955年5月、日本の原子力利用準備調査会は米国からの濃縮ウラン受入等を決定します。

このように米国の原子力政策の転換を受けて、1954年から1955年にかけて、一気に原子力発電導入に向けた動きが活性化したのでした。さて、この間、「原子力の父」正力松太郎はどのような働きをしたのでしょうか。メディア王として側面から正力の動向を整理してみたいと思います。

メディア王・正力松太郎の果たした役割

1953年以降、吉田茂との関係が悪化した正力松太郎は、自らが政界に打って出て、自身が総理大臣となることによってマイクロ波通信網を実現しようと決意します。そこで切り札として掲げたものが原子力でした。以降、正力は、讀賣新聞を使って、原子力平和利用というテーマを繰り返し取り上げます。特定の政治課題をメディアで繰り返し取り上げることによって有権者に重要だと思わせることをプライミングと呼ぶそうなのですが、まさに1955年の讀賣新聞は、原子力平和利用というテーマを重要な政策課題だと思わせる役割を担いました。

(1955年の讀賣新聞の見出し)
1月1日 米の原子力平和使節ホプキンス氏招待
1月6日 ホプキンス氏来日の報に 新聞配達少年から
1月8日 原子力の年 各界の声を聞く ホプキンス使節を迎えるにあたって
1月10日 原子炉の民間製造 米原子力委で許可発表
1月12日 販売上の制限なし 米原子力民間発電の燃料
1月18日 ノーチラス試運転
1月19日 米、原子力発電に本腰 民間企業へ助成策 核分裂燃料無償貸与も考慮
1月20日 試運転は満足 ノーチラス号
1月28日 広島に原子炉 建設費 2,250万ドル 米下院で緊急提案
2月10日 原子力マーシャル・プランとは 無限の電力供給
2月11日 米国内を洗う原子力革命の波 資本家も発電に本腰
2月12日 広島に限定せず「日本に原子炉建設」再提案へ イエーツ議員
3月4日 各国の原子炉建設援助 米原子力委 工業界へ要請
3月6日 原子力、電気商業用に
3月9日 ローレンス博士も同行 来日の原子力平和使節団に
3月16日 本社招待 米の原子力民間施設 ホ氏、5月9日来訪
3月20日 産業界に原子力革命 ホプキンス氏来日を前に抱負を語る
3月24日 明日では遅すぎる原子力の平和利用
3月25日 機関車に原子力を利用 米原子力委、民間会社と契約
3月27日 『原子力未来船』(ユニヴァーサル映画製作の近未来SF映画)放送
4月24日 原子力平和利用と日本 原子炉建設を急げ
5月9日 ホプキンス原子力施設への期待 新動力源時代へ
5月10日 鳩山首相と懇談 ホプキンス一行
5月11日 「原子力平和利用講演会」テレビ中継(日本工業倶楽部
5月12日 各界代表と原子力懇談 日本の技術を期待 ホプキンス氏ら強調
5月13日 「原子力平和利用講演会」テレビ中継(日比谷公会堂
5月14日 原子力発電への道 ハフスタッド博士 安価な燃料を約束
5月15日 ウラニウム、近く自由販売に ハフスタッド博士昼食会で語る

さらに、1952年に正力が手に入れた新たなメディアである日本テレビでも、1955年以降、原子力に関する様々な番組が放映されました。

1955年2月 「原子力の平和利用」(日本テレビ報道部製作)放送
1955年3月 映画『原始未来戦』放送
1956年1月 新春座談会「原子力を語る」、日本テレビで放送
1956年5月 「原子力発電の技術的諸問題講演会」(東京會舘)、放送
1957年1月 「脚光をあびる原子力平和利用座談会」、日本テレビで中継
1957年5月 「日米原子力産業合同会議」、日本テレビで中継
1957年9月 正力、来日したロイ・ディズニーに『わが友原子力』の日本での放送を申入れ
1957年9月 「原子力第一号実験炉完成祝賀会」、日本テレビで中継
1957年12月 ディズニーと日本テレビの間で『わが友原子力』放映契約成立
1958年1月 日本テレビ、『わが友原子力』を放送

ここにディズニーの名が登場しますが、米国政府は、ディズニーが世界に与える影響の大きさを十分に理解しており、各種プロパガンダに積極活用していました。上にある『わが友原子力』も、原子力平和利用推進のイメージ戦略の一環として作製されたものでした。

1955年、合衆国情報局次長のアボット・ウォッシュバーンは、原子力平和利用の国内向けのPR作戦を練っていた。
ウォッシュバーンが考えたのは「アトムズ・フォー・ピース」をわかりやすく解説した科学映画を作り、これをテレビ放送しようというものだった。彼は1955年12月20日アイゼンハワー大統領に宛てた書簡のなかで「私たちはアトムズ・フォー・ピースのアニメーションについてウォルト・ディズニーと友好的な話し合いを持ちました。ちなみにディズニーの海外での観客数は、どの同業者のそれをも凌ぎます」と記している。
(略)もともとディズニーは戦前からこの方面で「実績」があった。1940年、国務省中南米諸国がナチスになびかないよう、米州調整局を設立し、親米プロパガンダ・キャンペーンを始めた。その一貫としてウォルト・ディズニーと幹部アニメーターを中南米諸国に文化使節団として派遣し、そこで文化交流を行うとともにアニメーション映画を製作させることにした。この地域でドナルド・ダックが極めて高い人気を誇っていることから見て、アニメーションならばそこに潜んでいるプロパガンダをうまく隠せるだろうと考えた。このとき作製されたのがアニメーション・実写合成の『三人の騎士』だ。
(略)『わが友原子力』も、ジェネラル・ダイナミックス社と海軍がディズニーに作らせ、合衆国情報局が国内に広めようとした科学映画だった。(略)
『わが友原子力』は、現在『ディズニー・トレジャーズ−トモロウランド』というDVDの中に収められている。このなかでホストを務めるウォルトは、原子力をアラジンの魔法のランプの精になぞらえ、その力を発見した古代ギリシア人、キュリー夫人アインシュタインなどを紹介しながら、それがどんな力を秘めているかをわかりやすく解説していく。そして、核兵器のほかに、潜水艦、飛行機、発電所の動力に、また放射線治療や農作物の成長促進などにも使われている例をあげていく。最後に、この力は賢明に用いれば人類に幸福をもたらすが、使い方を誤れば破滅をもたらすと結んでいる。
注意してみると、冒頭の場面に原潜ノーチラス号が出てくる。ウォルトは画面のこちら側の視聴者に向けて話を切り出すのだが、このときウォルトが手にしているのが原潜ノーチラス号なのだ。書籍化された『わが友原子力』のほうにもノーチラス号がでてきてその船体の中から原子炉の構造が詳細に図解されている。海軍とジェネラル・ダイナミックス社のPRをすることも作製目的の一つだからだ。

さらに、「博覧会」というメディアも積極的に原子力プロパガンダに利用されました。第五福竜丸被爆事故以来、アンチ原発に傾いた日本の世論を巻き返したい米国の全面サポートのもと、正力率いる讀賣グループは、1955年11月から「原子力平和利用博覧会」を開催します。

合衆国情報局がこれまでのノウハウの全てをつぎ込み、満を持して挑んだ「原子力平和利用博覧会」が11月1日から12月12日までの六週間にわたって開かれた。(略)「原子力平和利用博覧会」はCIAも合衆国情報局も讀賣グループも驚く大成功を収めた。(略)12月12日に42日間の回帰を終えたときには、博覧会の総入場者数(讀賣新聞発表)は36万7,669人にのぼっていた。(略)アメリカ情報局は入場者にアンケートをとっていた。それによればこの博覧会の前と後では次のような変化があったとしている。
(1)生きているうちに原子力エネルギーから恩恵を被ることができると考える人
    76パーセントから87パーセントへ増加
(2)日本が本格的に原子力利用の研究を進めることに賛成な人
    76パーセントから85パーセントへ増加
(3)アメリカが原子力平和利用で長足の進歩を遂げたと思う人
    51パーセントから71パーセントに増加。これに対し、ソ連原子力平和利用については19パーセントから9パーセントに減少
(4)アメリカが心から原子力のノウハウを共有したがっていると信じる人
    41パーセントから53パーセントに増加
(略)原子力に対する日本人の考え方、またこれと絡めてアメリカ人に対する考え方を変える上でこの博覧会は絶大な効果を発揮したのだ。

このようにメディア王である正力は、CIAと一体となって、新聞、テレビ、博覧会などあらゆるメディアをフル活用して、原子力推進の機運を高めたのでした。

CIAとメディア王

アメリカの狙いは、1)アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォー・ピース」政策を日本で実現すること、2)第五福竜丸事件で戦後最高の高まりをみせた反原水禁=反米運動を沈静化させること、3)日本に核兵器を配備することを日本政府首脳に飲ませること、でした。この狙いを達成するため、CIAはメディア王・正力の取込を図りました。

1955年9月12日付のCIA文書では、反共産党工作や重要なターゲットに対する諜報に対する記者のマンパワーの提供という形で正力がCIAに協力したことが示されています。

1955年9月12日付CIA文書

○○(原文ではホワイトで消されていて空白になっているが局員の名前。以下の伏字も同様)は○○との関係、彼を通じたポダム(正力の暗号名)との関係、が十分成熟したものになったので彼らに具体的な共同作戦の申入れができると思う。ポダムは自らも認める攻撃的なまでの反共産主義者なので、○○はKUBARK(CIA)が得る最大の利益は、ポダムの資産(讀賣新聞日本テレビ)を使った反日共産党工作を提供できることだといっている。

最終的提案は、○○には二人か多くても三人のエキスパートを、ポダムには同数かそれより少し多いエキスパートを与えることだ。

このグループの機能はポダムのメディアのためのニュース素材の詳細を決め、プロデュースし、それらで日本共産党を叩くことだ。○○の側は記事のリード部分とアイディアのプロデュースをし、使用可能なニュース・マテリアルを用意する。ポダムの側は日本語の専門家と日本側の視点と、このことを知らない数千の記者のマンパワーを提供する。

(略)

まず新聞で初め、状況が許せばラジオやテレビに広げていくこのスキームは心理戦として高い可能性を持っている。ポダムの命令で動く多くの記者たちにこの種の指令が与えられるなら、これは重要なターゲット(政治家など)に対する諜報の可能性も与える。

ただ、CIAが正力に全面的な信頼を寄せていたわけでは必ずしも無いようです。1955年12月9日付けのCIA文章は、米国の正力に対する警戒感や日本の原発保有に対する警戒感を示しています。
1955年12月9日付CIA文書

ポダム(正力の暗号名)は我々が彼が何か出来るうちは我々の要求に耳を貸すだろう。(中略)
我々が彼と結びついているということは、日本が大いなる力を取り戻す努力に我々も相乗りをしているということだ。この男がしていることが最終的に何をもたらすかを考えると唖然とせざるをえず、それは軽視できることではない。

一つ取り上げれば、マイクロ波通信網構想だ。これが完成すれば、必然的にすべての自由アジア諸国に影響を与えることのできる途方もないプロパガンダ機関を日本人の手に渡すということになってしまう。

原子力エネルギーについての申し出を受け入れれば、必然的に日本に原子爆弾を所有させるということになる。これらは、トラブルメーカーとしての潜在能力においてだけだとしても、日本を世界列強の中でも第一級の国家にする道具となりうる。

ただ、正力松太郎の名誉のために断っておきますと、正力はCIAに利用されながら、正力もCIAを利用しており、決して“売国奴”ではなかったということです。この点については、有馬教授が次のように述べております*1

CIA文書には「本人に知られないように」ポダム(正力松太郎)をポダルトン(全国的マイクロ波通信網建設)作戦に使うと書いてある。だが、正力は柴田秀利が彼に送った報告書を通じて、CIAが一九五三年に柴田が一〇〇〇万ドル借款のために渡米した柴田に接触し、かつ自分のことをいろいろ聞いたことは知っていた。したがって、正力はCIAが自分に支援を与えることで自分を利用しようとしていたことは承知していたといえる。
しかしながら、さまざまな文書を読んでわかることは、正力は自分の会社の利益を第一に考えるが、かといって国益に反することはしなかったということだ。つまり、第一に自分の会社のためになり、第二に国益にもかなう場合はことを進めるが、自分の会社のためになるが国益に反する場合は敢えてしなかったということだ。
したがって、正力が「国を売った」という事実は、今のところ見つかっていない。これからもでてこないだろう。彼は彼なりに愛国者であり、国士であり、だからこそ財界有力者や政治家の支持を受けてメディア界の大物にのしあがることができたのだろう。