日本の金融史(9)IMF体制

今回は、戦後の昭和金融史を整理する前に、IMF体制を簡単に整理してみたいと思います。1944年にアメリカ、ニュー・ハンプシャー州ブレトンウッズで開催された会議では、戦後の国際通貨体制の枠組みの草案として、ホワイト案(米国)とケインズ案(英国)が対立します。最終的には、政治力が強かったホワイト案の勝利に終わるわけですが、その対立案だったケインズ案を通じて、IMF体制を整理してみたいと思います。

晩年のケインズは、1930年代の大恐慌から第二次大戦への突入という悲劇的な展開は、国際通貨制度の不備が原因だったと考えていました。つまり、金本位制に基づく国際通貨制度には、大きな不備があったと考えたのです。ケインズが考えた従来の国際通貨制度の不備とは一体何なのでしょう。

金本位制の持つデフレ・バイアス
まず、はじめにケインズは、金本位制の調整メカニズムが持つ「デフレ・バイアス」を挙げます。国際収支赤字の国は金準備の低下を防ぐため、財政・金融政策は緊縮策をとり、自動的にデフレ的な方向に調整されることになります。一方、国際収支黒字の国は、金準備が増える分だけインフレ圧力が働くわけですが、米国やフランスはこうしたマネーサプライの増加によるインフレを嫌って、不胎化政策を採りました(中央銀行保有国債を売却することで通貨を市場から吸収しました。要は売りオペレーションです)。こうして国際収支黒字国は、本来「起こすべき」インフレを抑制するというデフレ・バイアスが生じたのです(18世紀にイギリスのヒューム等の経済思想家が考えた国際収支調整過程によると、国際収支黒字国では、金準備の増加が通貨供給量の増大につながり、物価が上昇します。物価の上昇は、その国の生産物の国際競争力の低下につながるため、やがてはその国の国際収支が赤字に転化し、金の流入は金の流出に転じることになるはずでした)。
既にこのブログで述べたところですが、実際に日本では井上準之助深井英五らによって金本位制(しかも旧平価での金本位制)導入のため、1920年代に中途半端ではありながらも一貫したデフレ政策を採り続けました(その結果、社会不安が高まり、軍国主義を台頭させる一つの大きな要因となったのです)。
そこで、ケインズは、新しい国際通貨制度を創設するにあたって、国際収支の不均衡を調整するイニシアティブを国際収支黒字国から引き出しつつ、国際収支赤字国のモラルハザードを引き起こさないような規律付けが必要であると説きます(以下は、竹森俊平「世界デフレは三度来る」に掲載されたケインズの言葉の引用です〔原文は、ケインズがブレトンウッズ会議の晩餐会でのスピーチ〕)。

「新制度の目的は、調整のための主たるイニシアティブを債権国(国際収支黒字国)から引き出すと同時に、債務国(国際収支赤字国)が、国際収支制約が緩和されたことを悪用して、不相応な支出をすることがないように、規律付けすることでなければならない」

国際資本取引による世界経済の攪乱
また、ケインズは、大恐慌において国際資本取引が世界経済攪乱の要因になったと考えました。第一次大戦後の欧州諸国はアメリカからの資本輸入に大きく依存していましたが、1928年から米連銀が高金利政策に転換したことで資本の逆流が起こり、欧州経済崩壊の要因となりました。
これに対して、ケインズは、新しい国際通貨制度は、国際資本取引の規制を可能なものとすべきであると考えます。民間や政府による国際資本取引は、最終的に中央銀行口座の残高が調整されるので、その国の中央銀行の口座を監視することで、対外資本取引の管理が可能になります。ただ、これだけだと、中央銀行同士で行われる国際取引を管理することができません。そこでケインズは、中央銀行同士で行われる国際取引を管理するため「国際銀行」もしくは「国際決済同盟」という新組織を設立することを提案しました。この「国際決済同盟」に設けられた各国の中央銀行の口座管理を通じて、先に述べた国際収支黒字国や国際収支赤字国に対する調整メカニズムを働かせようとケインズは考えました。

米連銀への依存
さらに、ケインズは、世界の金の四分の一を保有する米連銀への依存体質を危惧していました。これは以前にブログでも触れたところですが、ケインズの当時の言葉を下記に引用します。

「現在における世界の金の分配を見れば分かるように、金本位制の復活は、われわれが物価水準のコントロール景気循環の調整とをアメリカの連邦準備銀行制度に引き渡すことを意味する。もっとも親密で、信義をわきまえた関係が連銀とイングランド銀行との間に存在しているからといっても、より大きな影響力を持つのは連銀である。連銀がイングランド銀行の行動を無視することはできよう。だが、イングランド銀行が連銀の行動を無視したならば、それは時に寄れば、大規模な金の流入に繋がり、また時によれば、大規模な金の流出につながるだろう」

これに対してケインズは、「国際決済同盟」の口座残高等を記録する通貨単位として、ドルやポンドといった既存の通過の代わりに、「バンコール(Bancor)」という新たに作られた通貨単位を用いることを提案します(ちなみに、このBancorとは、Bank〔銀行〕とOr〔フランス語で金を掛け合わせた造語です〕。

成立したIMF体制
以上、ケインズ案を見てきた訳ですが、最終的にはホワイト案が採用されることになります。ケインズ案との比較を通じて、ホワイト案を説明すると、1)ケインズ案が赤字国のみならず黒字国の責任をも左右対称的に追求しうるものとしていたのに対し、ホワイト案は赤字国の責任をはるかに重視していました。また、2)ケインズが国際決済同盟を主張したのに対して、ホワイトは基金原則に立ち、各国からの資金の拠出によって、基金が必要資金を貸し付けるといういわば既存の国際流動性の円滑な利用を狙いとしていました。そして、おそらくここが最も大きな違いだと思うのですが、3)ケインズがバンコールという新たな通貨単位を唱えたのに対して、最終的に成立したIMF体制では、ドルだけに金との兌換の義務を認めました(IMF協定の第四条第一項)。この条項はアメリカ政府に金一オンス=35ドルでの金兌換義務を負わせる一報で、他の国の政府には金ではなく、直接ドルとの固定レートでの兌換義務を負わせることになりました。

基軸通貨としてのドル
こうして金だけを国際通貨とする金本位制ではなく、ドルを基軸通貨とする国際通貨基金IMF)を作り、ドルは金とならぶ国際通貨となりました。IMF体制には、ケインズが主張した「規律付けの仕組み」が「コンディショナリティ」という名称で採用されていました。その結果、各国は、国際収支の壁を懸念して、景気刺激的な金融・財政政策をほとんど行うことがありませんでした。ところが、この国際収支の壁を懸念する必要のない国が一つだけありました。自国通貨を基軸通貨とされたアメリカです。本来は「金1オンス=35ドル」という公定レートが「規律」になるはずでしたが、いったんドルが「国際通貨」として確立されればよほどのことが無い限り、アメリカ政府が金兌換を放棄したところで、ドルは独り立ちできるのです。実際に、1971年のニクソン・ショックによって、米ドルは金兌換を停止することになります。