近代日本と欧米諸国(5)対日投資会議

(2006年10月執筆)

「拒否できない日本」の著者である関岡英之氏が、年次改革要望書関連の著作第二段となる「奪われる日本」を今年の八月に出版しました。

奪われる日本
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061498533

 第1部 検証「平成の大獄」 −郵政、そして医療
  第1章 郵政 −アメリカの狙いはなんだったのか
  第2章 「年次改革要望書」はどう始まったのか
  第3章 前自民党議員たちはなぜ反対したのか
  第4章 医療 −世界がうらやむ皆保険をなぜぶっ壊すのか
 第2部 節度も品格も無き時代 −小泉治世の検証
  第5章 M&A推進派はなぜ「日本」を売りたがるのか
  第6章 悪徳業者はなぜ世に蔓延るようになったのか
  第7章 談合はいつから犯罪になったのか
  第8章 あなたはほんとうに訴訟社会を望んでいるのか
  第9章 日本政府は米国になにを「要望」しているのか
 第3部 皇室の伝統を守れ
  第10章 万世一系をなぜまもるのか
  第11章 こどもたちは知りたがっている

今日は、「第5章 M&A推進派はなぜ「日本」を売りたがるのか」で取り上げられた対日投資会議について、少し書いてみたいと思います。

対日投資会議とは、内閣総理大臣を議長、経済財政政策担当大臣を副議長として、1994年(H6年)7月に設置された閣僚レベルの会議です。「対日投資会議の設置について」(1993年7月閣議決定)によれば、その任務は、「対日投資会議は、対日投資促進の観点から、投資環境の改善に係る意見の集約及び投資促進関連施策の周知のため、関係省庁間の連絡調整を行う」こととされており、要は外資導入を促進するための環境整備を目的にこの会議体が設置されました。

さて、対日投資会議の中身の話に移る前に、なぜ、対日投資会議を取り上げたのかについて、関岡氏の「奪われる日本」から、背景となる問題意識をご紹介したいと思います。

「・・・日本には「会社法」という法律はこれまで存在しなかった。会社制度に関しては、商法や有限会社法などさまざまな法律がからんでいた。
 それらをまとめてひとつの新しい会社法をつくる検討作業が法務省で進められてきた。法務大臣の諮問機関である法制審議会の会社法部会の「会社法制の現代化プロジェクト」がそれである。
 そしてその目玉と位置づけられていたのが、「外国株対価の合併」(「国境を越えた株式交換」あるいは「三角合併」と呼ばれている)の解禁である。(中略)
 外国株を使った株式交換が日本で解禁されるとどうなるのか。ひらたく言えば、外国企業は多額の買収資金を借り入れることなしに、自社株を使っていともたやすく日本企業を参加におさめることができるようになる。日本の名だたる大企業といえども、アメリカの巨大企業のじか総額と比べると、規模の点では零細弱小企業に等しい比較劣位にあるのが現状である。(中略)
 それにしても、なぜそもそも日本の大企業を軒並み外資に売り渡すに等しい「外国株対価の合併」の解禁などということが進められてきたのか。
 意外にも、ことは会社法だけではないのだ。会計基準についても、金融庁企業会計審議会では、企業合併会計を時価方式に原則統一する方針が定められている。
 この新しい合併会計基準の下では、従来の日本的な対等合併は難しくなり、敵対的買収を含めた吸収合併が今後の企業再編の主流になるといわれている。
 さらに税制の面でも、財務省が外国株を対価として外資に買収される日本企業については課税を猶予する方向で、税制改正の検討を04年秋から始めている。目的は、外資による日本企業買収を後押しするためだという。
 つまり、外資による日本企業倍主は、法律分野のみならず、会計、税制の分野とも平仄を合わせつつ、以前から統一的に推進されているのである。法務省財務省金融庁をたばね、そのすべての動きの司令塔となっているのが、対日投資会議(JIC)である」

では、この「法務省財務省金融庁をたばね、そのすべての動きの司令塔」となった対日投資会議とは、どのような会議なのだろうか。
まず、同ウェブサイトからそのメンバーを見ると、議長は内閣総理大臣、副議長は経済財政政策担当大臣、そして法務大臣総務大臣など各大臣が名を連ねます。閣僚レベルの会議なので、これだけ見ても他の会議とほとんど違いはありません。
対日投資会議は、下部組織に対日投資会議専門部会という部会を持っています。会議が設置されてから今日に至る12年の間、対日投資会議が合計8回しか会議を開催していないのに対し、対日投資会議専門部会は39回もの会議が開催されており、実質的な内容はこの部会にて検討されていたことがわかります。
この対日投資会議専門部会のメンバーは、2006年4月末の段階で、総勢34名からなり、専門部会委員、外国人特別委員、行政機関委員に分けられます。ちょっと長いですが、専門部会委員、外国人特別委員だけ紹介すると、下記のようになります。

2006年4月28日現在の対日投資会議専門部会のメンバー
(専門部会委員・外国人特別委員のみ)

(1)専門部会委員(50音順)
 相澤 光江 (新東京法律事務所 弁護士)
 浦田 秀次郎 (早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授 教授)
 太田 房江 (大阪府知事
 岡 俊子 (アビームM&Aコンサルティング株式会社代表取締役
 加藤 拓男 (チェルシー・ジャパン株式会社 特別顧問)
 清田 瞭 (株式会社大和証券グループ本社 取締役副会長)
 小村 武 (日本政策投資銀行 総裁)
 柴田 昌治 (日本ガイシ株式会社 代表取締役会長)
 島田 晴雄 (慶應義塾大学経済学部 教授)
 永山 治 (中外製薬株式会社 代表取締役社長)
 橘・フクシマ・咲江 (コーン・フェリー・インターナショナル株式会社
           日本担当代表取締役社長/米国本社取締役)
 山崎 広太郎 (福岡市長)
 渡辺 修 (独立行政法人日本貿易振興機構ジェトロ) 理事長)

(2)外国人特別委員(アルファベット順)
 ニコラス・E・ベネシュ (在日米国商工会議所(ACCJ)対日直接投資委員会 委員長
株式会社ジェイ・ティ・ピー 代表取締役
 リシャール・コラス (欧州ビジネス協会(EBC) 会長
            シャネル株式会社 代表取締役社長)
 ベルナール・デルマス (日本ミシュランタイヤ株式会社 代表取締役会長)
 リチャード・ダイク (ティーシーエスジャパン 代表取締役
 ロバート・アラン・フェルドマンモルガン・スタンレー証券株式会社 
 マークス・ヤンセンヤンセン外国法事務弁護士事務所 外国法事務弁護士)
 李昌烈(日本サムスン株式会社 代表取締役社長)
 ギャリー・C・リンチ (コ−ヴァンスジャパン株式会社 代表取締役
 ウィルフレッド・C・ウェイクリー (外国法事務弁護士)

上記の中でも、在日米国商工会議所(ACCJ)の対日直接投資委員会委員長であるニコラス・E・ベネシュおよび欧州ビジネス協会(EBC)のリシャール・コラスが積極的な発言をしているように見受けられます。

● ニコラス・E・ベネシュ
 1983年から1994年まで、旧J.P.モルガン勤務。ニューヨーク、東京、ロンドンでM&A、資本市場、デリバティブ業務、株式リサーチ、株式トレーディング、ストラクチャード・ファイナンス、海外不動産など多岐にわたる業務を担当。1994年から1997年まで、(株)鎌倉において、 M&Aアドバイザリー業務担当専務取締役。
スタンフォード大学政治学の学士号取得。カリフォルニア大学(UCLA)で法律博士号・経営学修士号を取得。カリフォルニア州及びニューヨーク州における弁護士資格、ロンドンと東京で証券外務員資格取得。
在日米国商工会議所(ACCJ)理事、同 対日直接投資委員会委員長、同 対日直接投資タスクフォース座長、 内閣府対日投資会議専門部会 外国人特別委員。

株式会社ジェイ・ティ・ピー  http://www.transaction.co.jp/

● リシャール・コラス
1953年 フランス共和国オード県生まれ
1975年 在日フランス大使館儀典課勤務(東京)
1977年 AKAI FRANCE S.A.(パリ)輸入・購入マネージャー
1979年 パルファム ジバンシー駐在事務所責任者
1981年 ジバンシー ジャポン株式会社(東京)
1983年 在日フランス商工会議所の理事会メンバーに選出
1984年 (フランス)コルベール委員会300周年を記念し、
      東京庭園美術館で行われたコルベールエキシビジョンの準備組織委員長
1985年 シャネル株式会社(東京)香水・化粧品本部長
1991年 シャネル株式会社(東京)代表取締役
1993年 シャネルLimited(香港)常務取締役
1993年 欧州ビジネス協会、化粧品部会の会長
1995年 シャネル株式会社(東京)代表取締役社長、現在に至る
1996年 CCEF(フランス政府対外貿易顧問)会長
1999年 在日フランス商工会議所会頭に選出され、就任
2001年 UCCIFE(海外フランス商工会議所連合)理事メンバー
      及び副事務局長
2002年 欧州ビジネス協会会長に選出され、就任。日欧ビジネス・ダイアローグ・ラウンドテーブル、ワーキンググループ1(貿易&投資部門)の共同議長

たとえば、ACCJのニコラス・E・ベネシュが同部会で発言した内容を、一部抜粋して紹介します。直球をばんばん投げている様子が伺えます。

● 第18回対日投資会議専門部会
 対日直接投資のほぼ全額がM&Aであるが、その取引額は極端に少ない。 M&Aは十分かつ安定的な対日直接投資の増加を望める唯一の方策である。 企業買収されるのは、破綻直前の企業のみであり、このことからM&Aは経営の失敗と考えられ避けられている。 三角合併など、M&Aを自由に行えるよう、商法改正をすべき。
 投資家を守ることのみを使命とする日本版SECが必要。 現在は1%あるいは300単位以上の株式を保有していないと株主提案権がなく、株主からの経営に対するプレッシャーが加わらない状況であり、提案権を拡大すべきである。
日 銀による株式買取はフェアに実施する必要がある。 産業再生機構は、負債の株式化をすべきであり、そうすれば納税者、政府の損失がなくて済む。 等

● 第28回対日投資会議専門部会
 ACCJは総理の対日投資残高の倍増目標の達成に貢献するため、「FDIタスクフォース」を設立し、一橋大学の深尾教授に政策提言をまとめていただいた。 FDIは生産性の向上に効果があるばかりでなく、一般的に考えられているような経営資源の流出をもたらすものではないことがこのレポートで分析されている。 グローバル経済のもとでは、国内の研究開発や資本のみに依存した経営は困難で非効率となり、資本の低収益率に起因する国内経済の悪循環を断ち切ることができない。
 FDIの促進にはM&Aを容易に行えるような制度整備が重要。 特に内外無差別な税制措置が必要である。 株式交換、合併等、すべての組織再編行為に対し、非現金対価についての課税繰延が確保されることが重要。 単に株式と株式を物物交換する取引に対し課税の繰延べを求めたい。 (課税所得の捕捉については)きちんとしたtrackingのシステムを作り、交換された株式を売却しても課税当局が譲渡所得を把握できるような制度もACCJでは考えている。
 商法改正や産業再生法における経済産業省法務省の努力には敬意を表しているが、産業再生法による三角合併には税制措置がない等の困難な点がある。 一般的な株式の交換取引に対し税制上の措置を講ずることも実現を求めたい。
 国境を越えた株式交換に関する税制措置は、今や外国投資家が、日本が対日投資促進に真剣に取り組んでいるかどうかを測る基準となっており、これが実現されなければ、(日本への投資に)大きな不利となるだろう。

● 第31回対日投資会議専門部会
( コミュニケーション戦略 ) 扇動的な記事、誤報に基づく記事が今年に入って散見される。特に企業買収、株式交換に関する様々な誤報があったが、政府として、その誤報を直すという姿勢が消極的ではなかったか。
( 株式交換 ) 現行の株式交換については、商法改正において外資系企業への適用拡大が見送られるようである。その結果、外資三角合併しか利用できず、内外差別的な現状を事実継続させるような結果をもたらすのではないか。現在、国内企業が使える株主交換制度と同様の税制、会計上の取り扱いをお願いしたい。 その場合、課税繰延がなければ、株式交換というのは意味がない。使い易いものになるのかという点が非常に不安である。
( 企業価値研究会 ) 最近、経済産業省が会社買収に対する防衛策に関する勉強会を発表したが、敵対的買収は日本で成功した例がほとんどないにも関わらず、何故、今の時点で検討する必要があるのか。 株式交換を用いれば、外資系企業による敵対的な買収が簡単に出来るため、日本の経営者は危機感を持つべきという記事がたくさんあるが、エクスチェンジ・オファー制度を用いれば現在でも敵対的買収は可能。しかし、税の繰り延べが適用されないため、ほとんど使われていない。
 株式交換三角合併の場合は、株主総会の特別決議の対象となり、買収者は被買収会社の株主に対して直接取引できないため、敵対的にはならない。 敵対的買収防衛策を検討するのは悪くないが、日本の企業統治の様々な問題、M&Aの際における日本の会社の問題などを検討しながら検討すれば良く、それだけに集中するのはどうかと思う。

上記のように、ベネシュ氏は、経産省の勉強会にすらいちゃもんを付けています。他の委員の方々はこれをどのような表情で聞いていたのでしょうか・・・。

同サイト(http://investment-japan.go.jp/jp/meeting/index.htm)では、1996年4月の第4回部会からある程度の情報を公開していたのですが、2005年4月の第34回部会以降、急に公開する情報量が低下しました(第34回部会に関しては議事次第すら公開されていません)。
 関岡氏の「奪われる日本」の「第5章 M&A推進派はなぜ「日本」を売りたがるのか」は、『正論』の2005年5月号に掲載された記事を元にしているのですが、関岡氏の記事が世の中に出たタイミングと、対日投資会議専門部会の公開する情報量がいっきに低下したタイミングがほぼ同一であることから、関岡氏の記事をみた関係筋から同部会(というか議事録を作り、サイト運営している内閣府に相当のプレッシャーがかかったのだと思います。

まだ過去の情報は公開されたままですが、「奪われる日本」が「拒否できない日本」のように世に浸透すると、同サイトの情報も伏せられてしまうかもしれません。

近代日本と欧米諸国(4)原子力発電

前回に引き続き、有馬哲夫氏の『原発・正力・CIA』をベースにメディアのお話、特に原発とメディアの関わりについてお話したいと思います。まずは、『原発・正力・CIA』の内容をお伝えするため、同著の一部をご紹介します(以下、特段の断りがない限り同著よりの引用です)。

 1954年1月21日のことだ。アメリカ東部コネティカット州のグロートンで一隻の船の進水式が行われていた。船の名前はノーチラス号。海軍関係者の間ではSSN571と呼ばれた。完成の後、アメリカが誇る世界初の原子力潜水艦になった。(略)
 今日の目から見ると、これが連鎖の始まりだった。日本への原子力導入はこの連鎖の中で芽生え、方向付けられていったのだ。
 このニュースの一ヶ月ほど後、原子力の負の面を示す決定的な事件が起こった。3月1日、アメリカが南太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行ったところ、近くでマグロ漁をしていた第五福竜丸の乗組員がこの実験の死の灰を被ってしまった。(略)
 やがて日本全国に原水爆反対平和運動が巻き起こり、原水爆禁止の署名をした人々の数は3,000万人を超えた。これは日本の戦後で最大の反米運動に発展し、駐日アメリカ大使館、極東軍司令部(CINCFE)、合衆国情報局(USIA)、CIAを震撼させた。
 これら四者は、なんとかこの反米運動を沈静化させようと必死になった。彼らは終戦後、日本のマスコミをコントロールし対日外交に有利な状況を作り出すための「心理戦」を担当していた当事者だったからだ。
 反米世論の高まりも深刻な問題だが、実はそれだけではなかった。この頃国防総省は日本への核配備を急いでいた。ソ連と中国を核で威嚇し、これ以上共産主義勢力が東アジアで拡大するのを阻止するためだ。
 そのために彼らが熱い視線を向けたのが讀賣新聞日本テレビ放送網という巨大複合メディアのトップである正力松太郎であった。
 ノーチラス号の進水から始まった連鎖は、第五福竜丸事件を経て、日本への原子力導入、ディズニーの科学映画『わが共原子力』の放映、そして東京ディズニーランド建設へと続いていく。その連鎖の一方の主役が勝利期であり、もう一方の主役がCIAを代表とするアメリカの情報機関、そしてアメリカ政府であった

米国の原子力政策の転換

正力松太郎が日本の原発導入に果たした役割を紹介する前に、米国の原子力政策の変遷を簡単に紹介します。

アメリカは、1944年に原子力爆弾の実験に成功し、広島・長崎に原子力爆弾を投下して以来、ソ連を初めとする他国に対する優位性保持を最優先とし、原子力技術を米国外に持ち出さないとする“封じ込め”政策を取っていました。原子力技術が国外流出することにより、自国への核攻撃の脅威が現実化することを恐れたためです。1952年11月にはエニウェトク環礁で水爆実験に成功します。

しかし、米国が原爆を保有した4年後の1949年9月にソ連の原爆保有が米国政府により発表され、さらに米国が水爆実験に成功した9ヵ月後の1953年8月にソ連も水爆実験に成功します。これにより、核保有国は、米国、英国、フランスの西側三国に東側の盟主ソ連が加わり、ソ連傘下の東側諸国だけでなく、第三世界の中にも、核兵器の開発や原子力関連の研究に参加する国が登場する可能性が高まりました。

そこで米国は原子力に関する方針転換を行います。これが、1953年12月のアイゼンハワー大統領による「アトムズ・フォー・ピース」演説です。アトムズ・フォー・ピースの骨子を同著から引用します。

先進四カ国による核兵器開発競争が世界平和にとって脅威になっている。この状況を変えるためにもアメリカは世界各国に平和利用の促進を呼びかける。アメリカはこの線に沿って原子力の平和利用に関する共同研究と開発を各国とともに進めるため必要な援助を提供する用意がある。そして、これにはアメリカの民間企業も参加させることにする。さらにこのような提案を実現するために国際機関(後の国際原子力機関IAEA)を設立することも提案する

米国の思惑は、米国のもつ原子力関連技術を積極的に同盟国と第三世界に供与し、これらの国々と共同研究・開発を行い、これを誘い水として第三世界を自陣営に取り込もうというものでした。これにより東側諸国に対する優位を確保し、さらに、自ら主導で原子力平和利用の世界機関を設立することで、この機関を通じて世界各国の原子力開発の状況を把握し、これをコントロールすることができると考えました。

1954年8月30日、米国の原子力研究開発の成果を民間にも開放し、かつ外国にも提供できるようにすることを骨子とする新たな原子力法が成立します。この改定により、機密管理規則が緩和され、米国企業が外国に原子炉を輸出する条件が整備されました。

これを受けて、翌1955年1月には、原子力要員の訓練、濃縮ウラン提供等が井口駐米大使に申し入れられます。そして、その4ヵ月後の1955年5月、日本の原子力利用準備調査会は米国からの濃縮ウラン受入等を決定します。

このように米国の原子力政策の転換を受けて、1954年から1955年にかけて、一気に原子力発電導入に向けた動きが活性化したのでした。さて、この間、「原子力の父」正力松太郎はどのような働きをしたのでしょうか。メディア王として側面から正力の動向を整理してみたいと思います。

メディア王・正力松太郎の果たした役割

1953年以降、吉田茂との関係が悪化した正力松太郎は、自らが政界に打って出て、自身が総理大臣となることによってマイクロ波通信網を実現しようと決意します。そこで切り札として掲げたものが原子力でした。以降、正力は、讀賣新聞を使って、原子力平和利用というテーマを繰り返し取り上げます。特定の政治課題をメディアで繰り返し取り上げることによって有権者に重要だと思わせることをプライミングと呼ぶそうなのですが、まさに1955年の讀賣新聞は、原子力平和利用というテーマを重要な政策課題だと思わせる役割を担いました。

(1955年の讀賣新聞の見出し)
1月1日 米の原子力平和使節ホプキンス氏招待
1月6日 ホプキンス氏来日の報に 新聞配達少年から
1月8日 原子力の年 各界の声を聞く ホプキンス使節を迎えるにあたって
1月10日 原子炉の民間製造 米原子力委で許可発表
1月12日 販売上の制限なし 米原子力民間発電の燃料
1月18日 ノーチラス試運転
1月19日 米、原子力発電に本腰 民間企業へ助成策 核分裂燃料無償貸与も考慮
1月20日 試運転は満足 ノーチラス号
1月28日 広島に原子炉 建設費 2,250万ドル 米下院で緊急提案
2月10日 原子力マーシャル・プランとは 無限の電力供給
2月11日 米国内を洗う原子力革命の波 資本家も発電に本腰
2月12日 広島に限定せず「日本に原子炉建設」再提案へ イエーツ議員
3月4日 各国の原子炉建設援助 米原子力委 工業界へ要請
3月6日 原子力、電気商業用に
3月9日 ローレンス博士も同行 来日の原子力平和使節団に
3月16日 本社招待 米の原子力民間施設 ホ氏、5月9日来訪
3月20日 産業界に原子力革命 ホプキンス氏来日を前に抱負を語る
3月24日 明日では遅すぎる原子力の平和利用
3月25日 機関車に原子力を利用 米原子力委、民間会社と契約
3月27日 『原子力未来船』(ユニヴァーサル映画製作の近未来SF映画)放送
4月24日 原子力平和利用と日本 原子炉建設を急げ
5月9日 ホプキンス原子力施設への期待 新動力源時代へ
5月10日 鳩山首相と懇談 ホプキンス一行
5月11日 「原子力平和利用講演会」テレビ中継(日本工業倶楽部
5月12日 各界代表と原子力懇談 日本の技術を期待 ホプキンス氏ら強調
5月13日 「原子力平和利用講演会」テレビ中継(日比谷公会堂
5月14日 原子力発電への道 ハフスタッド博士 安価な燃料を約束
5月15日 ウラニウム、近く自由販売に ハフスタッド博士昼食会で語る

さらに、1952年に正力が手に入れた新たなメディアである日本テレビでも、1955年以降、原子力に関する様々な番組が放映されました。

1955年2月 「原子力の平和利用」(日本テレビ報道部製作)放送
1955年3月 映画『原始未来戦』放送
1956年1月 新春座談会「原子力を語る」、日本テレビで放送
1956年5月 「原子力発電の技術的諸問題講演会」(東京會舘)、放送
1957年1月 「脚光をあびる原子力平和利用座談会」、日本テレビで中継
1957年5月 「日米原子力産業合同会議」、日本テレビで中継
1957年9月 正力、来日したロイ・ディズニーに『わが友原子力』の日本での放送を申入れ
1957年9月 「原子力第一号実験炉完成祝賀会」、日本テレビで中継
1957年12月 ディズニーと日本テレビの間で『わが友原子力』放映契約成立
1958年1月 日本テレビ、『わが友原子力』を放送

ここにディズニーの名が登場しますが、米国政府は、ディズニーが世界に与える影響の大きさを十分に理解しており、各種プロパガンダに積極活用していました。上にある『わが友原子力』も、原子力平和利用推進のイメージ戦略の一環として作製されたものでした。

1955年、合衆国情報局次長のアボット・ウォッシュバーンは、原子力平和利用の国内向けのPR作戦を練っていた。
ウォッシュバーンが考えたのは「アトムズ・フォー・ピース」をわかりやすく解説した科学映画を作り、これをテレビ放送しようというものだった。彼は1955年12月20日アイゼンハワー大統領に宛てた書簡のなかで「私たちはアトムズ・フォー・ピースのアニメーションについてウォルト・ディズニーと友好的な話し合いを持ちました。ちなみにディズニーの海外での観客数は、どの同業者のそれをも凌ぎます」と記している。
(略)もともとディズニーは戦前からこの方面で「実績」があった。1940年、国務省中南米諸国がナチスになびかないよう、米州調整局を設立し、親米プロパガンダ・キャンペーンを始めた。その一貫としてウォルト・ディズニーと幹部アニメーターを中南米諸国に文化使節団として派遣し、そこで文化交流を行うとともにアニメーション映画を製作させることにした。この地域でドナルド・ダックが極めて高い人気を誇っていることから見て、アニメーションならばそこに潜んでいるプロパガンダをうまく隠せるだろうと考えた。このとき作製されたのがアニメーション・実写合成の『三人の騎士』だ。
(略)『わが友原子力』も、ジェネラル・ダイナミックス社と海軍がディズニーに作らせ、合衆国情報局が国内に広めようとした科学映画だった。(略)
『わが友原子力』は、現在『ディズニー・トレジャーズ−トモロウランド』というDVDの中に収められている。このなかでホストを務めるウォルトは、原子力をアラジンの魔法のランプの精になぞらえ、その力を発見した古代ギリシア人、キュリー夫人アインシュタインなどを紹介しながら、それがどんな力を秘めているかをわかりやすく解説していく。そして、核兵器のほかに、潜水艦、飛行機、発電所の動力に、また放射線治療や農作物の成長促進などにも使われている例をあげていく。最後に、この力は賢明に用いれば人類に幸福をもたらすが、使い方を誤れば破滅をもたらすと結んでいる。
注意してみると、冒頭の場面に原潜ノーチラス号が出てくる。ウォルトは画面のこちら側の視聴者に向けて話を切り出すのだが、このときウォルトが手にしているのが原潜ノーチラス号なのだ。書籍化された『わが友原子力』のほうにもノーチラス号がでてきてその船体の中から原子炉の構造が詳細に図解されている。海軍とジェネラル・ダイナミックス社のPRをすることも作製目的の一つだからだ。

さらに、「博覧会」というメディアも積極的に原子力プロパガンダに利用されました。第五福竜丸被爆事故以来、アンチ原発に傾いた日本の世論を巻き返したい米国の全面サポートのもと、正力率いる讀賣グループは、1955年11月から「原子力平和利用博覧会」を開催します。

合衆国情報局がこれまでのノウハウの全てをつぎ込み、満を持して挑んだ「原子力平和利用博覧会」が11月1日から12月12日までの六週間にわたって開かれた。(略)「原子力平和利用博覧会」はCIAも合衆国情報局も讀賣グループも驚く大成功を収めた。(略)12月12日に42日間の回帰を終えたときには、博覧会の総入場者数(讀賣新聞発表)は36万7,669人にのぼっていた。(略)アメリカ情報局は入場者にアンケートをとっていた。それによればこの博覧会の前と後では次のような変化があったとしている。
(1)生きているうちに原子力エネルギーから恩恵を被ることができると考える人
    76パーセントから87パーセントへ増加
(2)日本が本格的に原子力利用の研究を進めることに賛成な人
    76パーセントから85パーセントへ増加
(3)アメリカが原子力平和利用で長足の進歩を遂げたと思う人
    51パーセントから71パーセントに増加。これに対し、ソ連原子力平和利用については19パーセントから9パーセントに減少
(4)アメリカが心から原子力のノウハウを共有したがっていると信じる人
    41パーセントから53パーセントに増加
(略)原子力に対する日本人の考え方、またこれと絡めてアメリカ人に対する考え方を変える上でこの博覧会は絶大な効果を発揮したのだ。

このようにメディア王である正力は、CIAと一体となって、新聞、テレビ、博覧会などあらゆるメディアをフル活用して、原子力推進の機運を高めたのでした。

CIAとメディア王

アメリカの狙いは、1)アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォー・ピース」政策を日本で実現すること、2)第五福竜丸事件で戦後最高の高まりをみせた反原水禁=反米運動を沈静化させること、3)日本に核兵器を配備することを日本政府首脳に飲ませること、でした。この狙いを達成するため、CIAはメディア王・正力の取込を図りました。

1955年9月12日付のCIA文書では、反共産党工作や重要なターゲットに対する諜報に対する記者のマンパワーの提供という形で正力がCIAに協力したことが示されています。

1955年9月12日付CIA文書

○○(原文ではホワイトで消されていて空白になっているが局員の名前。以下の伏字も同様)は○○との関係、彼を通じたポダム(正力の暗号名)との関係、が十分成熟したものになったので彼らに具体的な共同作戦の申入れができると思う。ポダムは自らも認める攻撃的なまでの反共産主義者なので、○○はKUBARK(CIA)が得る最大の利益は、ポダムの資産(讀賣新聞日本テレビ)を使った反日共産党工作を提供できることだといっている。

最終的提案は、○○には二人か多くても三人のエキスパートを、ポダムには同数かそれより少し多いエキスパートを与えることだ。

このグループの機能はポダムのメディアのためのニュース素材の詳細を決め、プロデュースし、それらで日本共産党を叩くことだ。○○の側は記事のリード部分とアイディアのプロデュースをし、使用可能なニュース・マテリアルを用意する。ポダムの側は日本語の専門家と日本側の視点と、このことを知らない数千の記者のマンパワーを提供する。

(略)

まず新聞で初め、状況が許せばラジオやテレビに広げていくこのスキームは心理戦として高い可能性を持っている。ポダムの命令で動く多くの記者たちにこの種の指令が与えられるなら、これは重要なターゲット(政治家など)に対する諜報の可能性も与える。

ただ、CIAが正力に全面的な信頼を寄せていたわけでは必ずしも無いようです。1955年12月9日付けのCIA文章は、米国の正力に対する警戒感や日本の原発保有に対する警戒感を示しています。
1955年12月9日付CIA文書

ポダム(正力の暗号名)は我々が彼が何か出来るうちは我々の要求に耳を貸すだろう。(中略)
我々が彼と結びついているということは、日本が大いなる力を取り戻す努力に我々も相乗りをしているということだ。この男がしていることが最終的に何をもたらすかを考えると唖然とせざるをえず、それは軽視できることではない。

一つ取り上げれば、マイクロ波通信網構想だ。これが完成すれば、必然的にすべての自由アジア諸国に影響を与えることのできる途方もないプロパガンダ機関を日本人の手に渡すということになってしまう。

原子力エネルギーについての申し出を受け入れれば、必然的に日本に原子爆弾を所有させるということになる。これらは、トラブルメーカーとしての潜在能力においてだけだとしても、日本を世界列強の中でも第一級の国家にする道具となりうる。

ただ、正力松太郎の名誉のために断っておきますと、正力はCIAに利用されながら、正力もCIAを利用しており、決して“売国奴”ではなかったということです。この点については、有馬教授が次のように述べております*1

CIA文書には「本人に知られないように」ポダム(正力松太郎)をポダルトン(全国的マイクロ波通信網建設)作戦に使うと書いてある。だが、正力は柴田秀利が彼に送った報告書を通じて、CIAが一九五三年に柴田が一〇〇〇万ドル借款のために渡米した柴田に接触し、かつ自分のことをいろいろ聞いたことは知っていた。したがって、正力はCIAが自分に支援を与えることで自分を利用しようとしていたことは承知していたといえる。
しかしながら、さまざまな文書を読んでわかることは、正力は自分の会社の利益を第一に考えるが、かといって国益に反することはしなかったということだ。つまり、第一に自分の会社のためになり、第二に国益にもかなう場合はことを進めるが、自分の会社のためになるが国益に反する場合は敢えてしなかったということだ。
したがって、正力が「国を売った」という事実は、今のところ見つかっていない。これからもでてこないだろう。彼は彼なりに愛国者であり、国士であり、だからこそ財界有力者や政治家の支持を受けてメディア界の大物にのしあがることができたのだろう。

近代日本と欧米諸国(3)メディア

今日は、「原子力の父」と称される正力松太郎を中心に、日本初の民間放送会社である日本テレビ開局を巡る当時の状況をまとめながら、メディアが持つ世の中に対するインパクトについて、少し考えてみたいと思います。

三つの称号を持つ男

プロ野球の父」の称号を持つ正力松太郎は、日本の原子力発電導入を強烈に推し進め、「原子力の父」の称号を併せ持ちます。正力は、1955年に原発導入と保守大合同を公約に掲げて富山二区から衆院選に出馬し、北海道開発庁長官として大臣になり、新設の原子力委員会の委員長になり、さらに新設の科学技術庁長官になります。原子力に強いアレルギーを持つ日本の世論を転換して原子力発電所導入へ導く際に、正力が最大限に活用したのが、自らが社主を務める読売新聞と日本テレビという二つのメディアでした。
 正力は、民放初のテレビ局として本放送を開始した人物であり、「テレビの父」という称号も併せ持ちます。以下、有馬教授『CIAと日本テレビ』をベースに、「テレビの父」という側面に焦点を当てて、戦後の日本メディアを巡る日米動向を整理してみたいと思います。

日テレ開局と同時に流れた怪文書

1953年8月28日に日本テレビが開局して1ヶ月を過ぎた頃、日本の政治やメディアの関係者のあいだで「正力マイクロ構想」に関する怪文書が出回り始めました。
「正力マイクロ構想」とは、正力松太郎が構想していたマイクロ波通信網構想で、正力は、テレビ放送に留まらず、電話、ラジオ、ファクシミリ、航空管制、軍事テレタイプなどあらゆる通信手段をカバーする多重通信網の構築を意図していました。正力にとって、テレビ局の開局はゴールではなく、一通過点に過ぎなかった訳です。
この「正力マイクロ構想」を巡る正力の“陰謀”に関する怪文書が出回り、ついに国会で取り上げられるに至ります。

第017回国会 電気通信委員会 第5号(昭和二十八年十一月六日)

この怪文書の内容は、有馬氏によると次のようなものでした。

  1. 米国の借款によるこのマイクロ波通信網は、米軍の軍事通信網として使用に供されるので、有事の際日本全土が戦争に巻き込まれることになる。
  2. 近代国家の中枢神経ともいうべきマイクロ波通信網の運営は、電電公社のような公共事業体に任せるべきであって、日本テレビのような民間企業がすべきことではない。
  3. このようなマイクロ波通信網を正力が建設する動機は、アメリカの力を借りて日本のメディアに葉を唱えようとする個人的野望にあり、このような男に国家の中枢神経ともいうべき通信事業をまかせるべきではない。

実際に、正力が構想したマイクロ波通信網構想は、資金調達を米国借款に頼り、その見返りとしてRCA(Radio Corporation of America)やGEの機器を購入することが前提となっており、さらに、米軍による軍事通信網としての利用も謳われていました。「正力マイクロ構想」は、米国によって描かれた日本のメディア構想でもあったのです。

反共プロパガンダのための世界多重通信網計画

1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ平和条約によって日本は再び主権を取り戻しました。一方、それまで6年間に渡って日本を占領してきた米国は、主権を取り戻した日本において米軍駐留という軍事的占領状態の継続をいかにして平和裏に日本国民に受け入れさせるかが大きな問題となっていました。
また、1950年代と言えば、ジョゼフ・マッカーシーによるレッド・パージが猛威を振るった時期にあたります。反共防波堤として日本を再軍備させるために、まず日本を共産主義化させず、軍事占領を継続する米国を敵視しないように仕向けなければなりません。
そこでカール・ムントという上院議員が、反共主義宣伝心理戦のメディアとしてテレビを日本に導入することを発案します。その効果がいかほどのものだったかは想像に難くないでしょう。親米プロパガンダとして毎晩のゴールデン・アワーを占領したアメリカ製の娯楽番組は、日本を“心理的再占領”するために十分すぎるほどの効果を発揮しました。下手な米国紹介のパンフレットを配るよりも、『パパは何でも知っている』などのホームコメディーを放映して、鬼畜米英と呼ばれたアメリカ兵が家庭に帰れば子煩悩なお人よしのパパだというイメージを刷り込んだ方が手っ取り早い訳です。
実は、この「正力マイクロ構想」は、日本に留まらず、韓国、台湾、フィリピンなどアジア諸国へ延伸する世界的ネットワークとして企画されていました。実際に、日本を含むこれら四カ国のテレビ方式は、NTSC方式を採用しています(他のアジア諸国は、PAL方式かSECAM方式です)。

世界のアナログテレビ方式

NTSC方式は、米国のRCA(Radio Corporation of America)社が開発したもので、1953年に米国規格として採用されました。この米国方式がアジアにおいていわば例外的に日本、韓国、台湾、フィリピンの四カ国に導入された訳です。この四カ国を結んだ線は、当時アメリカが共産主義の脅威から軍事力によって守らなければならないとした防衛ラインとほぼ重なっています。「正力マイクロ構想」は、米国が描いた東アジア・東南アジアにおける反共プロパガンダのための世界多重通信網計画の一部だったのです。

外資導入による経済復興」と「米国による再軍備圧力の回避」

こうして構想された「正力マイクロ構想」ですが、結局、日本テレビには東京限定の放送免許しかおりず、通信免許もおりませんでした。日本全国をカバーする多重通信網といった初期の構想は断念され、唯一その社名である「日本テレビ放送網」に初期構想の名残を見ることができます。この「正力マイクロ構想」に直接的、間接的に大きな影響を与えたのは吉田茂でした。「外資導入による経済復興」と「米国による再軍備圧力の回避」という吉田茂の二つの施政方針が「正力マイクロ構想」を大きく左右することになります。
日本テレビが開局する3年ほど前の1950年6月、朝鮮戦争が勃発します。アメリカは日本に再軍備を要求しますが、吉田は、経済的負担の大きさや国民の反対を理由に抵抗します。吉田にとって最大の関心は日本の早期復興であり、そのために吉田は軍備を抑制し、外資導入をテコとして経済活動に全力を投入すべきだと考えていました。
当初、吉田茂は、民間放送会社へのテレビ放送免許の発行とアメリカ方式の採用を強くバックアップしていました。外資導入のためには、互恵取引として米国製品の導入は当然であり、正力松太郎をさまざまな側面から支援します。
ところが、正力が鳩山派との結びつきをますます強めるようになり、次期首相として噂され始めると、吉田は「正力マイクロ構想」に対する姿勢を徐々にネガティブなものへとシフトし始めます。これは単に、次期首相の座を巡る吉田派と鳩山派の争いに留まらず、日米相互防衛援助協定を巡る再軍備反対派と再軍備派との対立が背景となっています。米国は、「正力マイクロ構想」を親米プロパガンダの心理戦ツールとしてよりも、むしろ軍事通信網の側面を強調するようになります。吉田茂の立場からすると、こうした軍事通信網的な側面を多分に持つ「正力マイクロ構想」を、再軍備派の鳩山一郎の後継者と目され始めた正力松太郎に実現させることは、なんとしても避けたいことでした。結局、吉田は正力率いる日本テレビの対抗馬である電電公社支持にまわり、これを見たユージン・ドゥマン等のジャパン・ロビーも同様に正力支持から方針を転換したため、「正力マイクロ構想」は、その名のとおり構想で終わったのでした。

ソフト・パワーの威力

このように「正力マイクロ構想」は日の目をみることはありませんでしたが、米国は、「日本を共産主義化させず、軍事占領を継続する米国を敵視しないように仕向ける」という初期の狙いを十分達成しているように思えます。有馬氏は、次のような問題提起をしています。

「(前略)なぜ岸信介が安全保障条約改定と政治生命を引き換えにしなければならなかったほど盛り上がったいわゆる六十年安保闘争がその後沈静化してしまい、現在ではこの条約が問題にもされなくなっているのか、なぜ1960年代と70年代を通じてあれほどの盛り上がりを見せた全学連を中心とする左翼的学生運動が現在のように衰退したのか、・・・(後略)」

ジョセフ・ナイがソフト・パワーを指摘するまでもなく、米国はテレビ放送網を通じて、日本や韓国、台湾、フィリピンの共産化を防止し、心理的に親米化させることに成功した訳です。さて、今の我々の生活を振り返ると・・・。

近代日本と欧米諸国(2)東京大学

続いて近代日本の形成に大きな影響を及ぼした東京大学の設立前夜のお話をしたいと思います。多くは、立花隆氏の『天皇と東大』に拠ります。

江戸時代後期の教育水準 −寺子屋・藩校

東大設立の話に入る前に、当時の日本の教育水準について簡単に振り返ってみたいと思います。明治政府は成立当初から教育の重要を強く感じていましたが、もともと日本の教育水準は高いレベルにありました。この点につき、立花氏は以下のように述べています。

日本の教育水準は、江戸時代から、全国的にかなり高いレベルにあった。それがあったからこそ、近代的な教育制度が一挙に普及したのである。当時、寺子屋がどのくらいあり、どのくらいの人が通っていたのか、はっきりしたことはわからないが、幕末の安政から慶応にかけて(1854〜1868)だけで4,200校が解説され、全国の寺子屋総数は1万5千に及んでいたという記録が残っている。
(中略)
寺子屋よりも水準の高い学校としては、各藩が独自に設けていた藩校があった。藩校は、十九世紀はじめには、ほぼ二つに一つの藩に設けられ、幕末には、(略)二万石以上の藩なら八割以上に、二十万石以上の藩であれば百パーセント設けられていた。

この寺子屋や藩校を中心とした教育制度に関して、加治氏は次のように指摘します。日本に寺子屋がたくさんあったのは、日本人が教育熱心だったからではありません。慢性的な飢饉が続き、いたるところに餓死者が転がっている時代に、知識欲が学問のモチベーションになるというのはあまり理屈に合いません。学問も結局は「飯のため、暮らしのための手段」であって、私塾を経て諸藩の工作員になることが下級武士の出世道だったと考えることができます。例えば、有名な松下村塾に関して加治氏は次のように述べています。

有名なのは、長州藩松下村塾だ。松下村塾はまさにスパイ学校そのもので、伊藤博文高杉晋作桂小五郎、山形有朋、品川弥二郎、久坂元瑞。優秀な長州侍の多くは、松下村塾の塾生、すなわち工作員やエージェントとして訓練を受けた者たちである。

たしかに、坂本龍馬江藤新平が各藩の工作員と考えることで、いくつかの疑念点が解消されます。例えば、「坂本龍馬は脱藩したのにどうして土佐藩との繋がりが維持できたのか」、「江藤新平が脱藩して三ヶ月で復藩できたのは何故なのか」といった疑問です。当時の諸藩は、万が一、工作活動が失敗した場合に備えて、工作員を偽装脱藩させ、各工作員には表向き脱藩した浪人を装うよう訓練していたのでしょう。これなら、坂本龍馬江藤新平が脱藩後も自藩と奇妙な関係を維持し続けることができた理由も理解できます。

大学南校

さて、話を東大設立に移していきたいと思います。東京大学の源流は、法学部や理学部につらなる大学南校と、医学部につらなる大学東校の大きく二つの流れがあります。

大学南校の淵源は、幕府の「天文方」にまで遡ります。古代から正しい暦を宣布することは時の為政者にとって権力の証のひとつであったため、江戸幕府天文学に力をいれ、特に徳川吉宗は、新知識の導入に熱心で、禁書の制限を緩めるなど海外からの科学技術書を積極的に輸入しました。その結果、高橋至時によって『ラランデ暦書』が翻訳され、日本の天文学が完全に洋学化します。観測機器も相当精度の高いものが作られ、高橋至時の次男・景佑は、伊能忠敬の日本地図作りに精密観測機器を携えて同伴し、その結果、あのような精緻な日本地図が誕生した訳です。

長男・景保は、シーボルトに禁制の日本地図を渡したとして死罪になってしまう有名人物ですが、彼は在命中、1806年に天文方の「蛮書和解御用」に任命され、洋書の翻訳や世界地図の作成を命じられました。その後もペリー来航などを契機にますます外交文書の翻訳など翻訳需要は高まり、天文方の蛮書和解御用を中心に、1857年、「蕃書調所」が設立されます。「蕃書調所」は単なる翻訳機関としてではなく、軍事技術や各国の政況、文化を身に着けた人材を排出することが期待されました。

この「蕃書調所」のマスタープラン作りを行ったのが、何を隠そうあの勝海舟なのです。ペリーが来航したとき、幕府は対抗策を世に募り、700余りの応募の中から勝の提案が幕府中枢の注目を浴びた、というのが一般に言われていることです。何だか嘘っぽいですね、後から勝が自分の都合の良いように歴史を書き換えてしまったのかもしれません。

とは言うものの、この「蕃書調所」のマスタープラン作りを勝が行ったというのは事実で、誰を教官とするかの具体的な人選交渉なども、勝が自ら行いました。この中には、ドキっとしてしまう人物も含まれています。例を挙げると、津田真道寺島宗則加藤弘之箕作麟祥西周、杉田玄端など豪華な顔ぶれが並びます。

まず、西周津田真道は、現在判明している日本発のフリーメーソンとして“有名”です。二人はオランダのライデン大学に留学し、1864年10月、大学のすぐ側にあるラ・ヴェルテュー・ロッジNo.7でフリーメーソンに加盟します。ロッジには今でも彼らのペン書きの入会申込書が残っているそうです。続いて、寺島宗則ですが、これまた五代友厚とともに薩摩とイギリスの間を取り持ったと噂される人物です。寺島はグラバーの手引きで渡英し、1866年の3月と4月にクラレンド英外相と会い、以下のような衝撃的な内容を英国政府に伝えたと、加治氏の『あやつられた龍馬』では記述されています。

そこで訴えたのは、とんでもないことである。大名会議の招集と、幕府による外国貿易独占の打破だ。すなわち幕府を倒し、大名たちの合議制の国家を作ることを一身にうたったのである。誰がなんと言おうと、これは正真正銘、「革命宣言」だ。ロンドンで革命をぶちあげ、それに対して英国政府は、よし分かったと深く賛同したのである。

加治氏が同著の中で引用しているのはラッセル外相がパークス駐日大使へ出した訓令等ですが、実際に現物を見て、内容を確かめてみたいものです。

このように勝海舟によって、こうした知識人たちが「蕃書調所」に集まってきたのでした。ここに英国勢力がどのように関与していたのかは不明です。グラバーが長崎にジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立したのが1861年アーネスト・サトウが表向き通訳見習いとして来日したのが1862年であることを考えると、少なくとも「蕃書調所」の設立時(1857年)に彼らが関与したと考えることはできません。グラバーやアーネスト・サトウがゼロから日本のエージェントを育てた訳ではないでしょうから、彼らの前任者が何かしらの形で「蕃書調所」の設立に関与していたのかもしれません。

大学東校

先ほど東京大学の源流は、法学部や理学部につらなる大学南校と、医学部につらなる大学東校の大きく二つの流れがあると言いましたが、続いて「種痘所→西洋医学所→大学東校→東京医学校」の流れについて、簡単に説明したいと思います。

大学東校の淵源は、1858年に神田に設置された種痘所に遡ります。当時は蘭方医学に対する漢方医の圧力が厳しく、蘭方医学から伝わった種痘に対して、幕府は積極的な施策を講じないままいました。これに対して、伊東玄朴、箕作阮甫ら、有力蘭方医たち80余名がお金を出し合って設立されたのが、この種痘所です。将軍家定への治療を契機に蘭方医は勢力を増し、1861年、種痘所は西洋医学所と名を改め、医学教育の第一歩を踏み出します。1863年、この西洋医学所が医学所となり、松本良順が頭取になってから本格的な医学教育が開始されました。

医学所は、明治維新に伴い、幕府から新政府に引き渡され、医療機関として復活しますが、医学教育機関として復活するのは明治4年1871年)にドイツから招聘されたミュルレルとホフマンが着任してからです。当時は医学、薬学関係だけでドイツ人教師を12〜13名やとっており、その給料の総額は医学部予算の経常費の三分の一を占めていたそうです。この位、予算を使っても当時の日本は西洋医学の知識を学ぶ必要性を切に感じていたのでしょう。

ただ、当時の外国人教師の質は、ピンキリだったようで、なかには全然授業もせずに、たまに来ても酔っ払いながら教室にあらわれ、怒鳴り散らして授業を終える教師もいたそうです。そんな中で、最も有名な外国人教師として取り上げられるのが、かの有名なグイド・フルベッキです。1859年に29歳の彼は日本の地に降り立ち、幕末の長崎の洋学所、佐賀の藩校で英語、政治、科学、軍事などを教えるうちに、大隈重信伊藤博文横井小楠などを教え導くことになり、維新後は新政府に呼ばれて上京し、大学南校の流れをくむ開成学校の教頭を務めるようになります。フルベッキの事跡のうち、最も重要なのは岩倉使節団の派遣をコーディネートしたことでしょう。加治氏の『幕末 維新の暗号』の一節が岩倉使節団派遣時の状況を描写しています。

外国との条約更新は迫っていた。約八ヵ月後の一八七二年七月五日。これが条約の切り替え日だ。新政府はそれを好機と捉え、なんとか不平等条約を改善したい。だがまったくの無策、途方にくれていたのである。
(中略)
 耳打ちしたのが大隈だった。以前に手にしたフルベッキの使節団構想を思い出し、そっと打ち明けたのだ。
 政府のトップ自らが外国に乗り出す。日本政府はいかに安定しているか、政府の高官はいかに教養人かを海外にアピールし、直接交渉にあたるというものだ。
(中略)
 膨大な企画書は、いたれりつくせりだった。使節団が外国政府を訪問した際の、予想される外国からの要求とその想定問答集までが、手取り足取り事細かに記載されており、完璧なまでの完成度だ。

このように設立当初の東京大学は、明治政府に対して大きな影響力を持った教授陣を抱えていたのでした。フルベッキについては(特に「フルベッキ写真」)、加治氏の『幕末 維新の暗号』が小説仕立てで解釈を加えていますので、関心がある方はご覧ください。

近代日本と欧米諸国(1)坂本龍馬

今日から欧米諸国がどのようにして近代日本に影響力を及ぼしてきたのかについて、これまで書いてきたブログをもとにトピック的に紹介したいと思います。まずは、明治維新を牽引した坂本龍馬からです。大部分は、加治将一氏の『あやつられた龍馬』からの引用です。同著の問題意識は、「なぜ龍馬は暗殺されたのか」です。これは諸説ありますね*1

京都見廻組
 京都見廻(みまわり)組は京都市中の取り締まりを主任務とする幕府の警備隊です。幕府にとって倒幕を図る龍馬は敵。さらに寺田屋事件で龍馬が幕吏数人をピストルで殺傷したとして行方を追っていました。今井信郎渡辺篤ら元組員が後年、龍馬襲撃を証言しており、最も有力な説とされます。ただ、それぞれの証言には食い違いが見られ、「売名行為では」との指摘もあって、真実と結論付けることはできません。

新撰組
 新撰組は、京都守護職松平容保公預かりで京の町の治安維持に当たっていました。見廻組同様、幕府を護る立場で、多くの倒幕の志士を殺害しています。元新撰組伊東甲子太郎が暗殺現場に残された鞘(さや)を見て新撰組原田左之助のものと証言したことなどから、真っ先に疑いが掛かりました。しかし、その後の調べでは処刑前の近藤勇をはじめ、隊士の誰もが関与を否定。後には伊東ら高台寺党の仕業では、との説も出て、諸説入り乱れる中で可能性は薄れていきます。

薩摩藩黒幕説
 龍馬の味方のはずの薩摩藩。しかし、断固、武力による討幕を主張していた薩摩藩にとって、平和改革路線を訴える龍馬は革命成就後の地位確保のためにも目障り―という推察のもと唱えられている説です。黒幕には大久保利通木戸孝允西郷隆盛らが挙げられ、伊東甲子太郎率いる高台寺党に指示した、あるいは見廻組に龍馬の所在を教えたなどと、実行犯についてもさまざまな意見があります。

紀州藩
 慶応3年4月、龍馬が搭乗していた伊呂波丸と紀州藩の明光丸が衝突(伊呂波丸号事件)。紀州藩は巨額の損害賠償金を海援隊側に支払うことになります(交渉に公法を持ち出すなど龍馬の働きが大きかった)。このため、紀州藩が報復に龍馬を暗殺したとする説。後日、紀州藩の仕業と決め込んだ海援隊陸奥源二郎が、同志とともに紀州藩士、三浦休太郎を襲撃する事件(結局、失敗に終わる)も起きていますが、本当のところは分かりません。

土佐藩後藤象二郎
 龍馬の「船中八策」を山内容堂に提案し、大きな功績を挙げた土佐の後藤象二郎。龍馬がいなければ手柄を独り占めできるともくろんだ後藤が、暗殺を企てたとする説。中岡慎太郎が死ぬ前に残した証言では、刺客は「こなくそ!」と斬りつけてきたという。これは四国の方言で「この野郎」の意。哀しくも、同じ土佐藩士に殺された可能性も…。

これら諸説のうち、同著は薩摩藩黒幕説を採っています。ただ、同説を採用したその背景がとてもユニークでした。

明治維新を裏で糸を引いていたのは、フリーメーソンであると同著は考えます。フリーメーソンについては、様々な書籍やサイトで書かれているので詳しい記述は割愛しますが、秘密儀式などの特徴をもった相互扶助団体だと私は理解しています(フリーメーソンについてもその起源や内容について諸説ありますね)。

同著は、下記の英国人によって諜報員・工作員として育てられた“維新の志士”たちが、明治維新といった革命を起こしたとします。
トーマス・ブレイク・グラバー  [1838〜1911]

  • ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会設立
  • 薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売

アーネスト・サトウ  [1843〜1929]

  • 英国駐日公使館の通訳官及び書記官

パークス [1828〜1885]

  • 英国駐日公使(慶応元年(1865)〜)

坂本龍馬は、あくまで無血革命を主張し、1867年11月9日の大政奉還を主導しました。このソフトランディング路線は、幕府(勝海舟西周)と坂本龍馬が中心となり、対日工作で幕府を担当していたパークス英国駐日公使がバックアップしていました。坂本龍馬はパークス直々の諜報員だった可能性を同著は示唆します。
一方、坂本龍馬を暗殺したハードランディング路線は、薩摩藩(特に大久保利通)や公家(特に岩倉具視)が中心となり、あくまで武力倒幕を目指します。これに長州藩の主要人物も引きずられていきます。1867年11月9日、つまり大政奉還が上奏された日と同じ日に、大久保利通岩倉具視らの画策により、薩長両藩に徳川幕府追討の詔書が下されます。彼らからすると、この期に及んで無血改革を主張し、大政奉還を主導する坂本龍馬は目の上のたんこぶのような存在だったのでしょう。ちなみに、ハードランディング路線を裏で糸を引いていたのは、アーネスト・サトウです。サトウは、パークス英国駐日公使らの通訳や書記以上の役割を与えられており、パークスが幕府工作を担当する一方、サトウは反幕派の地方大名への工作を担当していたと同著は主張します。

では、1867年12月10日(旧暦11月15日)に近江屋で坂本龍馬を惨殺したのは誰だったのでしょうか。同著は、中岡慎太郎であるとします。中岡慎太郎について同著は次のように述べています。

中岡慎太郎はどういう思想の持ち主だったのか?ずばり、判で押したような武力討幕派である。幕府を倒すために武器を取って立つという視点だ。当然薩摩藩の大久保、西郷とつながっている。
薩長土による武力討幕という流れは、水面下であらかた決していたと言っていい。バックは英国工作員、サトウである。
 (中略)
中岡慎太郎岩倉具視とねんごろだった。十一月十三日には岩倉を伴って、薩摩藩邸を訪問し、吉井幸輔と会見している。この時期に注目して欲しい。後藤、龍馬によって鳴り物入りの「大政奉還」の建白書が提出された二週間後である。その時期に、武力討幕の頭目岩倉具視を伴い、これまた武力討幕の牙城、薩摩藩邸に中岡慎太郎が入ったのだ。どう見ても反大政奉還、後藤、龍馬を裏切る武力蜂起への意思統一としか思えない。
静かな殺気が流れている。慎太郎はこのころから、邪魔な龍馬の動向を監視する役割を負っていた、と見るのが妥当だ。

英国の工作活動を念頭に、明治維新までの各人の役割、行動を改めて眺めてみると、これまで以上に維新の志士たちの想いや働きがなまなましく浮かび上がってきました。司馬遼太郎が描く維新の志士たちは人間味あふれる一方で、革命を起こした人物としてはどこかリアリティに欠けている気がしていました(いくらなんでも志だけでは世の中は変えられない)。この点、英国による工作活動が背後にあったという要素を加味することで、これまでの疑問点を解消するひとつのきっかけを得た気がします。
個人的には坂本龍馬がずっと好きだったのですが、英国の工作員として描かれた坂本龍馬はよりリアリティがあり、もっと好きになりました。同著の一部で、暗殺直前の龍馬の心境を描写しているので引用します。

・・・龍馬は、武装蜂起を止めようと獅子奮迅の働きを見せていた。
薩摩藩はどう動いているのか?長州は?西郷は?サトウは仮面を脱ぎ捨て、露骨に武力蜂起を促していると聞くが、本当だろうか?パークスはどうした?平和革命を唱えていたではないか。いったいどうなっている。パークスさえ捕まえられれば、薩長の過激な蜂起は防げる−

あくまで一つの見方に過ぎない訳ですが、極東と呼ばれた地で19世紀の後半から日本が急成長を遂げたのは、日本だけの力ではなく、外部の力が働いたと見るべきで、それは英国であり、フリーメーソンだったのではないかと考える訳です。
こうした活動が我々からほとんど見えてきませんが、それだけ彼らの工作活動が巧みだった訳です。最後に、ハモンド英国外務次官からパークス在日公使宛の公文書を同著より紹介して終わりたいと思います。

「日本において、体制の変化がおきているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」

*1:(下記は、「竜馬の部屋」より引用)

石油の歴史(4)エネルギーセキュリティを追い求めたフランス

フランス石油会社(CFP)の一環操業体制確立
1924年に設立されたフランス石油(CFP)は、トルコ石油を通じて獲得した豊富な石油資源が円滑に国内で流通するよう、国内の石油産業をリストラクチャリングすることも期待されました。
この目的のため、CFPは早速1929年にフランス石油精製会社を設立し、ルアーブル近郊のゴンフルヴィル(1933年)とマルセイユ近郊のマルティーグ(1935年)の二箇所に当時としては大規模なコンビナートを建設しました。また、もう一つの子会社である石油海運会社が、レバノンパレスチナの港からフランスの二箇所のコンビナートまでイラク原油を運送するために設立されました。
フランス系企業グループが精算した石油製品の国内流通は、デマレ兄弟やリール・ポニエール・エ・コロンブ会社、フランス燃料会社、フランス総合石油が請け負っていましたが(彼らはフランス石油やフランス石油精製の株主でもあました)、いずれも第二次大戦後に徐々にフランス石油グループのなかへと吸収されていき、1965年にフランス石油はTOTALという商標を採用するようになりました。
こうしてCFPは、トルコ石油の権益を保有し開発事業を手がけるだけでなく、政府主導で設立された精製・販売会社に資本参加して一貫操業体制を整えることに成功します。

アキテーヌ石油会社(SNPA)の設立
時代を再び第一次大戦後に巻き戻し、フランス政府の石油政策を簡単に振返ってみたいと思います。フランス政府は、1923年に石油政策の実行計画を策定し、この計画を実施する機関として1925年に液体燃料局(ONCL)を設立しました。この実行計画の中には、「本国及び海外領土における探鉱の促進」が掲げられていたのですが、そもそも開発事業のリスクが高いため石油各社が積極的な投資を行なわず、またトルコ石油(後にイラク石油と改称)からの供給過剰もあって、ONCL設立以来、第二次大戦が始まるまでの期間はほとんど探鉱作業は行なわれませんでした。
国費を投じた探鉱作業の最初の成果は、1937年にONCLがアキテーヌ地方ピレネー山脈北部のSaint-Marectにおけるガス田の発見です。政府は、このガス田開発のために1939年に100%国営のフランス石油公団(RAP;Regie Autonome des Petroles)を設立しました。また、1941年には、このSaint-Marect以外の地域を探鉱するために、政府とCEP、民間企業とで新たにアキテーヌ石油会社(SNPA;Societe National des Petroles d’ Aquitaine)が設立されました。同社には広い区域に対する石油探鉱の許可が与えられ、1949年にLacq油田を発見し、1952年にはその深層から大きなガス田を発見するなどフランス国内の探鉱の成果を徐々にあげるようになります。

石油探鉱公社(BRP)の設立
第二次世界大戦終了後、フランス政府は、探鉱・開発を促進する基幹として石油探鉱公社(BRP;Bureau de Recherches de Petrole)を設置します。日本の石油公団のような組織だと考えてもらってよいと思います。BRPは、海外領土において、各地域ごとに現地政府や総督庁と共同で炭鉱開発会社を設立し、積極的に探鉱・開発を進めていきます。

第二次世界大戦の直前、フランスは年間500万トンの石油を消費しており、フランス石油の自社資源で賄えたのはそのうちの100万トンに過ぎませんでしたが、こうした海外の探鉱・開発作業が実を結び、自国資源の輸入量は年間1,000万トンから1,100万トンにまで拡大しました。
その中でも特に探鉱・開発の成果が上がったのは、アルジェリアサハラ砂漠でした。同地域では、国営アルジェリア石油開発公社(SNREPAL)、サハラ石油開発公社(CREPS)といった公的資本が過半を占める会社やフランス石油(CFP)によって1950年ごろに最初の探鉱事業が開始され、リビア国境のエジェレ(Edjeleh)油田やハッシ・メサウド(Hassi Messaoud)油田などを発見しました。アルジェリアは、1962年にエビアン協定により独立を果たしますが、フランスが保有するサハラ地域における権益は温存されたままでした。

国策企業の統合 〜エルフ・アキテーヌの誕生〜
1966年、フランス政府は多数の石油会社の設立によって複雑化した体制を統合するため、フランス石油公団(RAP)と石油探鉱公社(BRP)を統合し、国営の石油事業研究公社(ERAP)を設立します。
アキテーヌ石油(SNPA)の資本金の過半数は石油探鉱公社(BRP)を継承した石油事業研究公社(ERAP)が拠出し、残りをフランス石油と個人投資家に頼るという株主構成でした。ただ、取引上、アキテーヌ石油(SNPA)は石油事業研究公社(ERAP)から独立を保っていました。両者の協力関係は、共通管理体制によって数年間は維持されました。
しかし、1971年に行われたアルジェリアによるフランス利権の国有化と1973年の第一次石油危機に対応するため、両社のより完全な合併の必要性が明確になってきたため、1976年に両社が統合されエルフ・アキテーヌ国営会社(SNEA;Societe Nationale ELF Aquitaine)が設立されました。なお、「ELF」とは販売製品に付されていた商標であり、これがそのままERAPの呼称となったのでした。
それまでの石油事業研究公社(ERAP)の資産は全て同社に引き継がれ、その結果、エルフ・アキテーヌ国営会社(SNEA)の67%の株式をフランス政府が保有し、残り33%を民間投資家が所有することになりました。その後、1986年にフランス政府はELFへの出資比率を67%から56%に落とし、1991年のELFのNYSE上場を機に政府は段階的に出資比率を低下させていきます。1994年には、民営化プログラムに則り政府出資比率は13%となり、社名もそれまで付されていた「Societe Nationale」(公団)が外されます。更に1995年には政府の保有株式は10%となり、1996年11月に政府出資比率はゼロとなり、完全民営化を果たします。ただ、最終的には、政府が所有していたエルフの黄金株(Golden Share)が、トタール誕生後の2002年に廃止されるまで続いたのでした。
この間、ELFはアフリカを軸としながら、北海等でも新規油田の開発を行い、1996年には生産量100万b/dの大台を達成するに至っています。

と、ここまで書いてみたものの、ただ整理しているだけで何だか盛り上がりに欠けます。今回は、トタール第一弾ということで、改めて第二弾の取りまとめをしたいと思います。本当は、何故、トタールにとって最初のお見合い相手がペトロフィナだったのか(フランスとベルギーの組み合わせはどこかで聞いたことが・・・)、そもそもペトロフィナはどのような出自の企業だったのか、等々を攻めて整理してみたかったのですが、ちょっと時間がかかりそうです。一方のエルフ・アキテーヌは、2001年の不正資金授受事件に政財界の裏事情を垣間見ることができるので、この辺はちょっとまとめてみようと思っています。

石油の歴史(3)国際石油メジャーと闘ったイタリア

今回は、イタリアの石油メジャーであるENIについてまとめてみたいと思います。最初は、ENIつながりでENELを調べたら何か面白いことがあるかなと思って調べ始めたのですが、エンリコ・マッティという人物に出会い、イタリアとロシアの歴史的な関係、国際石油メジャーへの挑戦、OPECの創設など、予想していなかった国際石油史におけるイタリアの実像が見えてきて、個人的にはとても楽しかったです。
もともと足元にヴァチカンを抱え、遡ればイタリア都市国家が群雄割拠していたイタリアですから、まだまだ掘ってみると、いろいろな史実がでてきそうです。

AGIPの設立
イタリアの石油の歴史は、1860年パロマのOzzanoで、Achille Donzeliという企業がわずか数十メートルの深さの油層を掘り当てたことから始まります。この時期のイタリアは、ヴァチカン、ナポリヴェネチアを除く全土が統一され、9月にガリバルディ率いる赤シャツ隊によってフランス王室ブルボン家ナポリ王が倒されます。アニェリ家が現在の領主の館を購入し、現代の一門を築いたジョバンニ・アニェリ(1866−1945)が生まれたのもちょうどこの頃です。
このように、石油開発そのものは米国、ルーマニアに次ぎ世界で3番目に古い歴史をイタリアは持っており、1900年代初頭から補助金制度が導入され民間企業に石油開発を促す奨励策が採られはじめており、1920年には国内の累積生産量は100万バレルに達していました。
現在のイタリアの石油メジャーであるENIの前身である国営石油会社AGIP(Azienda Nazional General Italiani : イタリア石油総合公社)が設立されたのは、それから60年以上を経た1926年のことでした。ムッソリーニ政権によるイタリア国内石油産業の強化策に基づき、イタリア政府が60%(6,000リラ)を出資して設立したのでした。
AGIPは、国内開発のみならずルーマニアアルバニアイラクリビアエチオピア等海外での石油開発にも進出し、1935 年にはこれら海外原油精製のための国策会社ANIC(AGIPの持分は25%)が設立されました。また1937 年に北イタリアのPodenzanoでガス田が発見されたのをうけ、1941 年にはこのガス・パイプライン管理のための国策の天然ガス輸送会社SNAM(Societa Nazionale Metanodotti)が設立されます。
このようにムッソリーニ政権の下で設立されたAGIPは、ムッソリーニ政権の崩壊とともに節目を迎えることになります。

エンリコ・マッティとENI
1945年、パルチザン政治組織CLN(Comitato di Liberazione Nazionale)は、パルチザンそてい名を挙げたエンリコ・マッティにAGIPのリーダーの地位を与えます。CLNから彼に下された指示は、AGIPを解体することでした。当時の政府は、石油産業の再建を民間資本によって行なうという方針を採っており、AGIPは石油精製・販売を禁じられ、会社を清算することを命じられたのです。
これに対して、AGIPの経営(解体)を任されたマッティは、政府方針に背き、AGIPの強化に乗り出します。積極的に探鉱活動を行い、1949年にコルテマッジョーレのガス田を発見し、その権利をAGIPに与えることを議会に承認させることに成功します。マッティは、北イタリアには大量の石油とメタンが埋蔵されており、イタリアはエネルギー需要全てを自国の資源で満たせるとの声明を出します。これにより、AGIPの株価は急上昇します。実際は、そこそこの量のメタンと石油が埋蔵されていただけで、イタリアのエネルギー需要全てをまかなうにはほど遠かったのですが、マッティの宣伝活動が功を奏し、資本市場の評価を得ることに成功したのでした。このとき、マッティは、AGIPの非公式な経済資源を使って政治家やジャーナリストに対して、後半にわたって賄賂を贈ったと見られています。また、ネオファシスト政党MSI(Movimento sosiale italiano)を利用したことをマッティ自身も述べています。
こうして経営基盤を確立したAGIPは、ムッソリーニ政権により設立された他の炭化水素関係の国策会社と共に、1953年にENI(Ente Nazionale Idrocarburi :イタリア国営石油会社)として再出発することとなります。ENIの初代会長の座についたマッティの問題意識は、当時、セブンシスターズと呼ばれた石油メジャーにどのように対抗するかということでした。彼は、イタリアの置かれた状況を小さな猫のたとえ話を使って説明します。

「大きな犬どもが鉢の中でえさを食べているところに一匹の子猫がやってきた。犬どもは子猫を遅い、投げ捨てる。我々イタリアはこの子猫のようなものだ。鉢の中には皆のために石油がある。だがあるやつらは我々をそれに近づけさせたがらない。」

この寓話によってマッティは当時のイタリアの貧困層から絶大な人気を集め、政界からの援助も受けるようになります。
マッティ率いるENIは、セブンシスターズの独壇場となっていた中東利権に挑みました。1949年10月、イランで国民戦線が創設され、モサデグが党首となり、1951年にアングロイラニアン石油の国有化を宣言します。これに対して、国際石油メジャーはその販路を断ち、対イランの姿勢を明確に示します。その後、CIAが中心となってモサデグ政権は倒される訳ですが、そんなイラン政権に対して従来の国際石油メジャーとは全く異なる基準の採掘契約の提案を行ないます。それまで、国際石油メジャーは産油国に対する契約条件はフィフティ・フィフティ・パートナーシップが原則でした。これに対して、マッティは、石油による利益は産油国側に75%、ENI側に25%という新基準を提案したのです。当然、この提案は受け入れられ、1957年に締結された“Matter formula”は、その後の中東における新基準として通用するようになります。マッティは、この契約を成立させるため、イタリア女王とイラン国王の婚姻というアイデアを提唱したとも伝えられています。
さらに、マッティは、エジプト、モロッコリビアチュニジア相手に石油外交を展開します。特にリビアとは、1959年に50年間の石油開発の契約を締結し、その後10年後のカダフィ大佐による革命や米国の経済制裁などを経験しつつも、現在に至るまで操業を続けています(リビア原油生産の2割程度をENIが担っていると言われています)。また、1957年には、対仏独立闘争をしていたアルジェリア独立派に対して融資を開始するなど、マッティは中東の最貧国や共産圏の国々との協力関係を次々と築いていくのでした。

イタリアとロシア
2006年の12月に、イタリアの独占禁止局がENIとGazpromが戦略的パートナーシップの合意を承認しました。これに先立ち、ENIのガス子会社であるSnamとGazpromは、ロシアの天然ガス・パイプライン網をSnamが近代化するという契約を1993年に締結しています。
2006年12月14日、ENIのCEOであるScario氏は、Russian Financial Control Monitorの中で、イタリアとロシアの関係について、次のように述べています。

「我々は、Gazpromそしてロシアと50年に及ぶ関係があり、同社は欧州そしてイタリアへのエネルギー資源の供給に関して基本的かつある意味で他に替え難い役割を果たしている。欧州メジャーが長期契約を求めるのは偶然ではない。」

この「ロシアと50年に及ぶ関係」の起源も、やはりマッティの国際石油メジャーへの対抗策に遡ります。イラン、エジプト、リビアなど産油国との協定を次々と成立させ、アップストリームにおける地位を固めつつあったマッティは、続いてダウンストリームにおいても国際石油メジャーによる寡占体制の打破を目指します。当時のイタリア市場は、国債石油メジャーの一角をなすエクソンとBPに占められていました。そこで、マッティは、ソ連フルシチョフと交渉し、1960年に、市場価格より低い値段での石油輸入契約を締結することに成功します。
現在も、ENIやENELが積極的にロシア進出を試みていますが、歴史を遡ると、国際石油メジャーの寡占体制に対するマッティの挑戦が背景としてあったのです。

OPECの結成
ENIは、ロシアに加え、中国とも輸入契約を結ぶことに成功し、イタリア市場のみならずヨーロッパ市場において国際石油メジャーと互角の戦いをするようになります。こうして国際石油メジャーは、ENIの主導する価格競争にいやおうなく引きずり込まれることになります。
これに対して、1960年8月9日、ニュージャージー・スタンダード石油(エクソン)のラズボーン社長は、アラブ民族主義の高まりを伝えるに記者ワンダ・ヤブロンスキーの警告に耳を貸さず、産油国に何の相談もなく、石油買い取り価格を一方的に引き下げます。これに猛反発した産油国は、サウジ石油相アブドル・タリキ、ベネズエラ石油相ペレス・アルフォンソの奔走により、同年の9月10日にバグダッドで石油輸出国会議を開催します。そして、その四日後の9月14日、OPEC石油輸出国機構)が結成されたのでした。

マッティの突然の死
こうしてマッティは国際石油業界においてその実力を遺憾なく発揮し、国際石油メジャーの寡占体制に穴を開けることに成功しました。
しかし、サハラにおけるメジャーによる採掘区区分に招かれた際、マッティは、アルジェリアの独立が協定署名のための条件であるとしたため、フランスの反アルジェリア極右組織OASの標的となり、命を狙われるようになります。
そして、1962年10月27日、マッティを乗せた旅客機が離陸直後に墜落し、乗員全員が死亡するという事故が起こります。公式には嵐による事故と発表されていますが、事故を装いマッティは謀殺されたという意見も根強く残っています。“著名人”はしばしば飛行機事故で命を落としてしまうものです。

ENIの民営化
イタリア政府は、戦後もENIやENEL、IRI(産業復興公社)という三つの特殊会社を介して、イタリア産業の主導権を握っていました。90年代に入り、イタリアの産業資本の50%を握っていた政府は、EUの方針に従ってその半分を手放すことになります。
構造汚職の摘発が勢いづいていた92年6月に成立したアマート政権は、8月にIRI、ENI、ENEL、INAを株式会社とし、株式を全面的に国庫省に移すことで具体的な民営化に着手します。
93年5月に組閣されたチャンピ政権は、その直後に政党への不正融資で逮捕されたノービリIRI総裁に代わって、民営化を前提にした経営再建の課題をプローディ新総裁に託しました。同年3月、カリアリENI総裁が政党への不正融資で逮捕され、7月には刑務所で自殺するという事件も起こりました。
こうして政財界の混乱を背景としながら、1995年以降、順次政府保有のENI株式の売却が行なわれ、現在の株主構成になったのでした。現在、政府保有株は30%にまで低下していますが、イタリア政府は合併等、ENIの経営の重要事項に対する拒否権を保有する黄金株を所有しているため、依然としてイタリア政府の影響下にあると考えてよいでしょう。
直近のENIの株主構成は、イタリア政府が22%、Cassa Depositi e Prestitiが11%と、政府が30%程度を保有し、残りは民間の株主となっています。2007年1月末時点に確認できた範囲でその名を挙げると、JPMorgan Asset Management Europe(2.27%)、DWS Investments Italy SGR S.p.A.(2.26%)、Capital Research & Management Company(2.25%)、Monte Paschi Asset Management SGR S.p.A.(2.23%)となっています。
現在、ENIは世界70カ国に進出し、約72,000名の従業員を抱える大手石油メジャーの一角を構成しています。そのENIを率いているのは、先ほど少しだけ名前が出てきたPaolo Scaroni氏です。同氏は、Chevronに2年間セールスマネジャーを務めた後、Saint Gobainに12年、Technitに11年在籍し、1996年にPilkingtonに移ります。1997年から同社のCEOを務め、2002年にはイタリア最大手の電力会社ENELのCEOに就任します。ENELで3年間CEOを務めた後、2005年よりENIのCEOに就任しました。
Scaroni氏は、Sole 24 OreやTeatro Alla ScalaABN AMRO、Veolia Environmentのボードメンバーに名を連ねており、2005年のビルダーバーガーでもあります。

つらつらとENIの歴史を追いかけてみました。ネットで調べていると、日本の政治家の中にもエンリコ・マッティを取り上げて、和製メジャーの重要性を訴える人なんかが居て、いろいろ興味深かったです。スタンダード・オイルのその後やBPについては、いろいろな本の中で語られているので、次はフランスのトタルを紹介したいと思います。